ネスレの歴史
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ネスレの歴史

ネスレの歴史

アングロ・スイス練乳会社 出典:Big Business

1866年、スイスのチャムにヨーロッパ初の練乳工場が開設された。これは、アメリカ人兄弟チャールズとジョージ・ペイジ(Charles and George Page)が設立したアングロ・スイス練乳会社(Anglo-Swiss Condensed Milk Company)である。彼らは、アメリカ合衆国で急成長していた練乳市場に着目し、良質な生乳が豊富なスイスで生産を行い、主にイギリス市場へ供給することを目指した。1873年にはイギリスにも工場を設立し、事業を拡大していった。

一方、ネスレの創業者アンリ・ネスレ(Henri Nestlé)は、科学と化学の訓練を受けた薬剤師助手としてキャリアをスタートさせた人物である。彼は強い探究心を持ち、食品から建材に至るまで幅広い分野で実験を重ねていた。1867年、牛乳・小麦・砂糖を栄養学的に最適な配合で組み合わせた乳児用食品を開発し、これを「ファリーヌ・ラクテ(Farine lactee)」と名付けた。この製品は、栄養不足に苦しむ乳児の命を救ったことをきっかけに高く評価され、急速に普及した。

当初、アンリ・ネスレは毎朝必要な牛乳を自ら買い集めて製造していたが、需要の拡大に伴い、1869年には牛乳収集センターから工場へ配送する体制へと移行した。優れた製品品質と事業判断により、ネスレの製品は創業からわずか8年後の1875年には、アメリカ合衆国、アルゼンチン、エジプト、インドネシアなど世界各地で販売されるようになった。

ネスレの最初のロゴ 出典:Nestlé

1868年には、現在も使用されているネスレのロゴが誕生した。ドイツ語で「巣(Nest)」を意味する創業者の姓に由来し、雛鳥に餌を与える巣の図案は、乳児栄養との深い結びつきを象徴している。デザインは時代とともに簡素化されたが、基本構造は今日まで受け継がれている。

19世紀末から20世紀初頭にかけて、ネスレとアングロ・スイス練乳会社はスイスを代表する乳業企業として激しい競争を繰り広げた。この競争は1905年、両社の合併によって終結し、現在のネスレの基盤が形成された。

第一次世界大戦はヨーロッパ経済に深刻な混乱をもたらした。スイスは中立を保っていたものの、エネルギー消費の減少や物流の停滞により、国内経済は大きな影響を受けた。1914年から1918年にかけて、ネスレも原材料の確保や製品流通に苦慮し、生乳をはじめとする生鮮食品の不足に直面した。同社は地域社会の需要を満たすため、保有物資の多くを供給に充てた。

しかし同時に、戦争による大規模需要を背景に政府との契約を獲得し、結果として事業規模は拡大した。1918年の戦争終結時点で、ネスレは世界40カ所に工場を持つ国際企業へと成長していた。

戦後の中央ヨーロッパは深刻な経済不況に見舞われ、失業率の上昇と激しいインフレが社会を不安定化させた。1920年代から30年代にかけて、ネスレも厳しい経営環境に置かれたが、財政難と物資不足の時期を乗り切った。

1920年代半ば、ネスレはカリエ(Calliet)、ピーター(Peter)、コーラー(Kohler)といったスイスのチョコレートメーカーを買収し、チョコレート事業を中核分野の一つとして位置づけた。この投資は、後の製品革新と事業多角化の重要な基盤となった。

1938年には、ネスレ初のコーヒー製品「ネスカフェ(Nescafé)」を発売する。開発の起点は、1930年頃にブラジル政府から持ち込まれた余剰コーヒー豆の保存問題であった。第二次世界大戦の勃発により成長は一時的に鈍化したものの、連合国軍への大量供給を通じてネスカフェは世界中に広まり、ネスレを代表するブランドへと成長していった。

第二次世界大戦中、スイスの中立性によりネスレの国内工場は接収を免れた。1939年には経営拠点をアメリカ合衆国へ移し、ヨーロッパ戦線から距離を置きながら世界各地の事業維持に努めた。戦時下でも革新は続き、1940年には後にネスティー(Nestea)へと発展する茶飲料の開発が進められた。

戦後、世界が復興と成長の時代に入ると、ネスレも新たな拡大局面を迎える。1947年にはスイスの食品企業マギー(Maggi)を傘下に収め、即席食品分野で世界的な地位を確立した。アジアではマギーヌードルがインスタント麺の代名詞となり、同ブランドは調味料やスープ製品でも広く浸透していった。

1948年には、粉末チョコレート飲料「ネスクイック(Nesquik)」をアメリカ合衆国市場に投入した。牛乳に混ぜるだけで手軽に楽しめるこの製品は、後に登場したキャラクター「ネスクイック・バニー(Nesquik Bunny)」とともに、世代を超えて親しまれるブランドへと成長した。

ヨーロッパでは長期にわたり大規模な戦争が回避され、政治的には比較的安定した時代が続いていた。しかし、その一方で企業間競争は激しさを増しており、ネスレも新たな成長の方向性を模索していた。1974年、同社は食品産業の枠を超える初の本格的な多角化として、フランスの化粧品大手ロレアル(L’Oreal)への資本参加を決断した。

ロレアルは1909年、フランスの化学者ユージン・シュエール(Eugene Schueller)が開発した革新的なヘアカラーを起点にパリで創業された企業である。創業者自身の高い知名度と美容業界との強固な関係を背景に、ロレアルはヘアカラーからヘアケア、さらに化粧品へと事業領域を拡大していった。1963年には企業再編を経て上場し、翌1964年には高級化粧品ブランド、ランコムを買収するなど、国際的な化粧品グループとしての地位を確立していた。この再編後も、創業者の娘であるリリアン・ベタンクール(Liliane Bettencourt)が過半数の株式を保有し続けた。

1974年、ネスレはロレアル株式の50%をネスレ株式の3%と交換するという条件を提示し、ベタンクール家と戦略的提携を結んだ。これにより、ネスレとベタンクール家はロレアル株の約60%を共同で保有する体制が成立し、ロレアルは1980年代に世界最大の化粧品会社へと成長した。2014年には両者の資本関係が再編され、ネスレは保有していたロレアル株の一部をベタンクール家に売却している。

多角化戦略はその後も続いた。1977年、ネスレはアメリカ合衆国の眼科医療製品メーカー、アルコン・ラボラトリーズ(Alcon Laboratories)を買収し、医薬品分野へ進出する。1945年にテキサス州フォートワースで設立されたアルコンは、コンタクトレンズケア製品などを中心に事業を展開していた。ネスレ傘下でアルコンは急成長を遂げ、事業展開は75カ国、製品販売は180カ国にまで拡大した。しかし2002年にネスレはアルコン株を売却し、最終的にはノバルティス(Novartis)が同社の主要株主となった。

1984年には、ネスレ史上屈指の大型買収として、アメリカ合衆国の食品企業カーネーション社(Carnation Company)を約30億ドルで買収すると発表した。この取引は食品業界でも最大級の合併とされ、石油業界を除けば当時最大規模の企業買収とも評された。カーネーション社が魅力的だった理由は、練乳製品にとどまらず、ペットフードブランド「フリスキーズ」や「コンタディーナ」トマト製品などを擁する多角的な事業構造にあった。買収は規模の大きさから規制当局の審査対象となったが、1985年に連邦取引委員会(FTC)(Federal Trade Commission)の承認を得て完了した。

一方、ネスレの中核事業であるコーヒー分野でも新たな展開が生まれた。1940年代に始まったコーヒー事業は、1986年の「ネスプレッソ」発売によって大きく転換する。ネスプレッソは従来のインスタントコーヒーとは異なり、家庭で高品質なコーヒー体験を提供するプレミアムブランドとして設計された。現在では、専用カプセルとブティック型店舗、著名人を起用したブランド戦略により、世界的なコーヒーブランドとして確立されている。

1989年のベルリンの壁崩壊を契機に、東欧諸国や中国市場が国際企業に開放され、ネスレにとっても理想的な成長環境が整った。同社は新興市場への進出と同時に、事業ポートフォリオのさらなる強化を進めていく。その象徴的な動きが、2001年のラルストン・ピュリナ社(Ralston Purina Company)の買収である。これにより、ペットフード分野で高いブランド力を持つ事業を統合し、「ネスレ・ピュリナ・ペットケア社(Nestlé Purina PetCare Company )」が誕生した。

続いて2002年には、北アメリカの冷凍食品分野で攻勢を強め、ドライヤーズ(Dreyer’s)のアイスクリーム事業やシェフ・アメリカ社(Chef America Inc)を相次いで買収した。さらに2003年にはモーベンピック・アイスクリーム(Movenpick Ice Cream)を傘下に収め、冷凍食品とデザート分野での存在感を高めた。この一連の拡大は、2006年のジェニー・クレイグ(Jenny Craig)およびアンクル・トビーズ(Uncle Tobys)の買収によって一つの到達点を迎えた。

2007年、ネスレは約55億ドルでガーバー(Gerber)を買収した。これはネスレの歴史的原点である乳児栄養事業への回帰を象徴する動きであり、ガーバーは現在も北米における主要なベビーフードブランドとして重要な位置を占めている。

ネスレは、19世紀にスイスで誕生した乳児用栄養食品のメーカーから、21世紀には世界197カ国以上で2,000を超えるブランドを展開するグローバル企業へと進化した。ネスレは食品にとどまらず、美容や健康分野にも事業領域を広げ、「健康とウェルネス」の分野における世界的リーダーとなっている。

粉ミルク問題とネスレ・ボイコット

粉ミルク販売をめぐる問題が国際的に認識されるようになった背景には、1930年代以降に蓄積されてきた医学・公衆衛生分野の知見が存在する。この時期、人工乳育児と乳児死亡率の上昇との関連性が、特に衛生環境の整っていない地域において指摘されるようになった。セシリー・ウィリアムズ(Cecily Williams)は、母乳育児をやめるよう母親に説得された乳児の病気や死亡率が驚くほど増加していることを報告した。粉ミルクそのものが危険であるというよりも、安全な水、適切な調乳方法、安定した購買力を前提としない条件下では、人工乳育児が深刻な健康リスクを伴うことが明らかになりつつあったのである。

1970年には、国連のプロテイン・カロリー諮問グループ(PAG)(Protein-Calorie Advisory Group)において、粉ミルク企業の販売促進手法が公衆衛生上の観点から問題視された。これを契機として、粉ミルク販売のあり方は、単なる商取引の問題ではなく、国際的な保健・栄養政策の課題として認識されるようになった。

1972年には、国際消費者団体連合(IOCU)(International Organization of Consumers Unions)(現・国際消費者機構(CI)(Consumers International)が、食品の国際基準を策定するコーデックス委員会に対し、母乳代替品の販売に関する行動規範草案を提出した。さらに1973年には、国際的な開発問題を扱う雑誌『ニューインターナショナリスト』(New Internationalist)が本問題を特集し、粉ミルク販売と第三世界における乳児栄養失調の関係が広く社会に知られるようになった。

1974年には、第三世界における乳児栄養失調と人工乳の販売促進を告発する報告書『ザ・ベビーキラー』(The Baby Killer)が公表された。この報告書は、後に別団体によって『ネスレ・キルズ・ベビーズ』(Nestlé Kills Babies)という刺激的な表題で翻訳・配布され、ネスレ社は名誉毀損として提訴した。1976年の裁判では、表題の使用についてのみ名誉毀損が認定され罰金が科されたが、同時に裁判所はネスレに対し、販売手法の見直しと倫理基準の再検討を勧告している。この判決は、企業の法的責任と社会的責任を区別しつつ、後者の重要性を示唆した点で象徴的であった。

1975年には、主要な乳業企業が参加する国際乳児用食品協議会が設立され、自主的な販売倫理基準が策定された。しかし、この自主規制は実効性に乏しいとの批判を免れなかった。

1977年、非倫理的販売方法に抗議する形で、アメリカ合衆国においてネスレ製品を対象とした不買運動が開始された。この運動は乳児用調製粉乳行動連合(INFACT)(Infant Formula Action Coalition)を中心に展開され、1978年にはオーストラリア、カナダ、ニュージーランドへ、1980年にはイギリス、1981年にはスウェーデンやドイツへと急速に拡大した。1979年には、これらの運動を国際的に連携させる組織として、国際乳幼児食品行動ネットワーク(IBFAN)(International Baby Food Action Network)が結成され、市民社会による継続的監視体制が構築された。

1978年、アメリカ合衆国上院の公聴会において、ネスレ側が不買運動を「自由主義的企業システムを蝕む世界的組織による活動」と批判した発言は、国際的な反発を招いた。こうした対立が激化する中、1979年には世界保健機関(WHO)(World Health Organization)と国際連合児童基金(UNICEF)(United Nations Children's Fund)が合同国際会議を開催し、母乳代替品の販売促進を規制する国際的行動規範の策定作業が本格化した。

同会議では、粉ミルクの広告、無料試供品の配布、病院や保健所を販売促進の場として利用することなどを制限・禁止する勧告が採択された。これに対し、ネスレを含む粉ミルク企業は、規範草案を「受け入れがたく、過度に制限的で、非現実的である」と批判し、各国代表に対するロビー活動を活発化させた。

しかし最終的に、1981年の第35回世界保健総会において、「母乳代用品のマーケティングに関する国際規準(International Code of Marketing of Breast-milk Substitutes)」(WHOコード)が、最低限満たすべき国際基準として採択された。この決議に対し、アメリカ合衆国は企業活動の自由や言論の自由を制約するとの理由から唯一反対し、日本を含む数か国は棄権した。

WHOコード採択後も、不買運動は直ちには終息しなかった。ネスレはロビー活動や広報戦略を通じて批判の沈静化を図り、1980年には『フォーチュン』(Fortune)誌に好意的な論文記事が掲載されたが、後にその執筆過程で金銭的授受があったことが明らかとなり、さらなる批判を招いた。

1982年3月、ネスレは途上国における乳児用調製粉乳の販売手法について、国際的な強い圧力と長期にわたるボイコットを受けて大幅な変更を発表した。これに対応し、同社はネスレ栄養調整センターを設立し、1982年5月には世界保健機関(WHO)のコード遵守を監督するため、ネスレ乳児用調製粉乳監査委員会(NIFAC)(Nestlé Infant Formula Audit Commission )を設立した。

ネスレはネスレ栄養問題協議センター(NCCN)(Nestle Coordination Center for Nutrition)を設立し、さらにWHOコードの遵守を監督するため、1982年にネスレ乳児用調製粉乳監査委員会(NIFAC)(Nestlé Infant Formula Audit Commission)を設立した。自社ガイドラインに基づく販売活動の自己評価を開始したが、国際基準を十分に反映していないとして不買運動はむしろ拡大した。最終的に1984年、ネスレは批判者との対話を重ねた末、WHOコードへの正式な合意を表明し、これを受けて不買運動はいったん終結した。

しかし1988年、WHOコードおよび関連決議が遵守されていない事例が再び明らかとなり、アメリカ合衆国、ドイツ、カナダを皮切りに不買運動が再開され、1993年までに18か国へ拡大した。

1980年代後半から1990年代にかけて、世界保健総会では母乳育児の保護を強化する決議が相次いで採択された。1990年にはイノチェンティ宣言(Innocenti Declaration)が採択され、各国にWHOコードの実施と法制化が求められた。1991年には世界保健機関(WHO)と国際連合児童基金(UNICEF)が赤ちゃんにやさしい病院運動(BFHI)(Baby Friendly Hospital Initiative)を開始し、医療機関での粉ミルク無償供与の中止が推進された。

1994年以降、母乳代替品の国際マーケティングコード(IBFAN)(International Code of Marketing of Breast-milk Substitutes)や国際連合児童基金(UNICEF)によるモニタリング報告書は、国際基準違反が依然として広範に存在することを明らかにした。1999年には、イギリス広告基準機関が、ネスレの「倫理的に責任ある販売」をうたう広告表現を問題視している。

2003年時点で、WHOコードを全面的または大部分において国内法制化した国は増加したものの、法的拘束力を欠く国際基準に依存する構造自体は変わらず、自主規制の限界が繰り返し指摘されている。

ネスレは1998年に経営に関する諸原則(Corporate Business Principles)を策定し、1999年以降は国際コード行動報告書(International Code Action Report)を公表することで、WHOコード遵守の姿勢を強調してきた。一方で、告発されている違反事例を否定し続けてきた点については、市民団体との緊張関係が続いている。

また、1989年以降、ネスレがHIV/AIDSを理由に粉ミルクの利点を強調したことに対しては、国際連合児童基金(UNICEF)や市民団体から慎重さを欠くとの批判がなされてきた。近年では、WHOコードに抵触しにくい「幼児用栄養補強ミルク」や「母親用栄養補強ミルク」の開発・販売を進めており、企業戦略と国際規範との間の新たな緊張関係が生じている。

コーヒー危機とネスレ

コーヒーの国際価格は、2001年から2002年にかけて歴史的な暴落を経験した。この時期の価格水準は、名目では1930年代の世界恐慌期に匹敵し、実質ベースでは1960年当時の約4分の1、すなわち25%程度にまで下落したとされる。この価格崩落は一時的な市況変動ではなく、国際コーヒー市場の制度的・構造的変化を背景として生じたものであった。

コーヒー生産に従事する人々は、世界全体で約2,500万人にのぼると推計されており、その大半は発展途上国における小規模農家である。生産量の約70%は10ヘクタール未満の小規模農園によって担われ、その多くは1~5ヘクタール規模の家族経営である。したがって、国際価格の下落は、国家経済のみならず、個々の農家の生活に直接的かつ深刻な影響を及ぼした。

価格暴落の影響は、主要生産国において顕著に現れた。ウガンダでは人口の約4分の1がコーヒー産業に従事しており、2000/01年から2001/02年にかけて生産量がほぼ同水準であったにもかかわらず、販売額は約30%減少した。エチオピアでは約70万人がコーヒー栽培に直接従事し、数百万人が関連産業に依存しているが、1999/00年から2001/02年の間にコーヒー輸出額は42%も減少した。これは、同国の外貨収入の過半を占める産業にとって壊滅的な打撃であった。

グアテマラでは国家歳入の約7%がコーヒー関連であり、価格下落は財政にも直接的影響を及ぼした。ブラジルではコーヒーは外貨収入の約5%を占め、2,300万人から3,000万人が栽培や関連産業に従事しているとされる。インドでも約300万人がコーヒー産業に依存しており、ベトナムに至っては世界でも最も低コストで生産できる国の一つであるにもかかわらず、国際価格は生産コストの約60%にまで低下した。

コーヒーの国際価格の暴落の直接的背景には、需給調整機能の崩壊がある。1989年に国際コーヒー協定(ICA)(International Coffee Agreement)が破綻したことにより、それまで輸出割当や価格安定帯の設定を通じて機能していた需給調整メカニズムは失われた。国際コーヒー機関(ICO)(International Coffee Organization)は存続したものの、市場調整能力は大幅に低下し、価格形成はロンドンおよびニューヨークの先物市場に強く依存するようになった。

供給過剰をもたらした要因としては、第一に、国際通貨基金(IMF)(International Monetary Fund)や世界銀行(World Bank)の構造調整プログラムの影響下で進められたベトナムの新規参入が挙げられる。第二に、ブラジルにおける産地移動、機械化、集約化による大規模増産がある。第三に、焙煎・加工技術の向上によって、従来であれば市場に流通しなかった低品質豆も商品化されるようになった点が指摘されている。

さらに、代替作物の欠如や農村開発政策の失敗により、農民は価格が下落してもコーヒー生産から離脱できず、過剰生産状態から抜け出すことができなかった。構造調整プログラムによって研究機関や農業普及機関が弱体化した結果、生産者の知識や技術の更新も停滞した。また、代替作物そのものも、先進国の農業補助金や輸出補助金、輸入障壁の影響で価格が低迷していた。

価格暴落をめぐる議論において特に注目されてきたのが、市場支配力の格差である。かつて国際コーヒー市場の総価額が約300億ドルであった時代には、生産国はそのうち約100億ドル、すなわち30%を確保していた。しかし市場総価額が拡大した後も、生産国の取り分は60億ドル以下、約10%にまで低下した。

個別に見ると、生産農家の取り分は、コーヒー一杯の価格の1%以下、コーヒー豆パック価格の数%に過ぎない。生豆1キログラムに対する農家の受取価格が約0.14ドルであるのに対し、工場への売渡価格は1.64ドル、イギリス小売市場でのインスタントコーヒー1キログラムの平均価格は26.4ドルに達する。

焙煎・加工段階では、2000年時点でクラフト社とネスレ社がそれぞれ約13%、サラ・リー社が10%、P&G社が4%の市場シェアを占めており、上位企業による寡占構造が形成されていた。利益率も高く、インスタントコーヒーを主力とするネスレでは26~30%、レギュラーコーヒー主体のサラ・リーでも飲料分野全体で約17%とされている。

オックスファム(Oxfam)が2002年に提示した批判に対し、ネスレは公式コメントを発表し、低価格の主因は需給アンバランス、すなわち過剰生産にあると主張した。その解決策として、需要拡大と代替作物への転換を促進すべきであるとし、価格プレミアムを支払うフェアトレードは過剰生産を助長する恐れがあると批判した。

ネスレはまた、インスタントコーヒーを主力とする同社にとって、生産コストに占める固定資本比率が高く、原料豆価格の暴落は必ずしも望ましいものではないと説明している。代替作物への転換を進めるためには、先進国の農業保護政策の撤廃が不可欠であるとも主張した。

ネスレはフェアトレードよりも、生産農家からの直接調達を重視する立場をとっており、全調達量の約15%を直接調達としていると説明している。この枠組みでは、高品質豆の栽培指導を行うことで、市場での高付加価値化と農家所得の向上を同時に図るとしている。

さらにネスレは、世界27か所のネスカフェ工場のうち14か所が途上国に立地し、そのうち11か所がコーヒー生産国に所在していること、ネスカフェ全生産量の約55%が途上国で行われていることを強調し、付加価値の相当部分は生産国にとどまっていると主張している。

カカオと児童労働

20世紀後半まで、主要なカカオ生産国においては、国内輸出業者とともにマーケティング・ボードが機能し、生産量、輸出、価格形成に一定の統制が加えられていた。これらの制度は、生産者の所得安定と国際市場における価格変動の緩和を目的としており、特に西アフリカ諸国では重要な役割を果たしていた。

しかし1990年代に入ると、国際通貨基金(IMF)および世界銀行の主導する構造調整プログラムが導入され、国家による市場介入の縮小と自由化が進められた。これに加え、ロンドンおよびニューヨークの先物市場の拡大、さらにはアジア地域におけるカカオ生産の増加が重なり、ガーナを例外として、多くの生産国でマーケティング・ボードは実質的に崩壊した。

この変化は、生産者を国際市場の価格変動に直接さらす結果をもたらし、国家による需給調整機能は著しく弱体化した。

国家的調整機構の後退と並行して、カカオ取引および加工段階における企業集中が急速に進行した。とりわけコートジボアールでは、1980年代に約50社存在していた国内貿易業者が、2002年までに2社にまで減少した。その過程で、カーギル(Cargill)やアーチャー・ダニエルズ・ミッドランド(ADM)(Archer Daniels Midland)といった多国籍農産物企業が影響力を拡大し、2000年までに同国のカカオ輸出の約85%を掌握するに至った。

国際的には、1973年に設立された国際カカオ機関(ICCO)(International Cocoa Organization)が需給調整を担ってきたが、1993年の国際ココア協定において緩衝在庫制度が廃止され、生産管理計画も中長期的な枠組みに限定された。その結果、価格形成はロンドンおよびニューヨークの先物市場に大きく依存するようになった。2001年協定では、民間企業で構成される諮問委員会が設置されたが、実効的な需給調整機能を果たすには至っていない。

加工段階においても寡占化は進み、2000/01年時点での世界シェアは、アーチャー・ダニエルズ・ミッドランド(ADM)が約17%、カーギルが約14%、ネスレが約8%を占めていた。これら上位企業は、原料調達から加工、製品製造に至るまで強い交渉力を有し、国際カカオ市場における価格形成に大きな影響を及ぼしてきた。

カカオ豆の国際価格は長期的に低迷しており、この状況に対してオックスファムをはじめとする国際NGOは、産業界の寡占的市場構造が価格低迷を固定化しているとして、多国籍企業の社会的責任を厳しく追及してきた。とりわけ、加工およびチョコレート・菓子製造段階で寡占化を強め、圧倒的なバーゲニング・パワーを行使している企業の責任が問われている。

ネスレもまた、こうした批判の対象となってきたが、同社は生産者支援を推進していると説明している。具体的には、カカオ生産・流通上の制約を解消するため、品種改良、苗木の増殖、病虫害管理、ポストハーベスト技術の改善などに重点を置いた技術指導を行い、場合によっては他作物への転換も支援しているとされる。

2000年には、業界全体としての対応を強化するため、世界カカオ財団(WCF)(World Cocoa Foundation)が設立された。同財団は、カカオ農家の生活改善を目的とした現地プログラムの実施、資金調達、業界内外の対話の場の提供を掲げている。しかし、その活動は主として支援・啓発にとどまり、需給調整や価格安定といった構造的問題の解決には直接的に寄与していないとの批判も存在する。

カカオ産業をめぐる最大の社会的問題の一つが、西アフリカを中心とする児童労働の存在である。1998年には、チョコレート業界、開発援助機関、政府機関の連携により、カカオ生産地域における持続的農村開発の必要性が提起され、2000年にはSustainable Tree Crops Programme(STCP)が開始された。

2001年11月には、ヨーロッパココア協会、アメリカチョコレート製造者協会、国際製菓業協会、カカオ商工連盟、世界カカオ財団(WCF)などの業界団体代表が、アメリカ合衆国議会関係者の仲介のもとで共同声明、いわゆるハーキン=エンゲル議定書(Harkin-Engel Protocol)に署名した。この声明は、西アフリカのカカオ栽培・加工における「最悪の形態の児童労働」および強制労働を撤廃する必要性を明確にした点で画期的であった。

このプロセスには、国際労働機関(ILO)(International Labour Organization)の立ち会いのもと、国際食品労連、人権団体、消費者団体なども参加しており、2002年には国際カカオ・イニシアチブ(ICI)(International Cocoa Initiative)が設立された。しかし、2005年7月までに具体的戦略を構築するという当初目標は達成されず、期限は2008年7月まで延期され、コートジボアールおよびガーナのカカオ生産の半分をカバーする監視・認証システムの構築が目指されることとなった。

その後、国際カカオ・イニシアチブ(ICI)は2007年から本格的に現地での活動を開始し、カカオ生産コミュニティにおける児童労働監視改善システム(CLMRS)(Child Labor Monitoring and Remediation System)の構築・導入を推し進めた。このシステムは現在、多くの企業に採用されている。 

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