
アタカ通商の歴史
アタカ通商の歴史
安宅産業は、1904年に安宅 弥吉が大阪で創業した安宅商会を前身とする。弥吉は力を蓄えながら着実に前進する「蛙跳び経営」を信条とし、堅実な商いで業績を伸ばした。同社は戦前から戦後にかけて官営八幡製鐵所の指定問屋の一角を占め、のちに売上高2兆円を超える十大総合商社の一つへと成長を遂げた。しかし、戦後の社内では「安宅ファミリー」と呼ばれる創業家ゆかりの社員が絶大な権力を持ついびつな体制が常態化し、次第にリスクを軽視した売上拡大競争へと走るようになった。その結果、1973年のオイルショックを機にカナダでの石油精製プロジェクトが頓挫して巨額の損失を抱え、1977年に伊藤忠商事に吸収合併される形で消滅した。
巨大総合商社としての安宅産業は姿を消したが、その商権や人材のすべてが失われたわけではなかった。伊藤忠商事に移らなかった事業の一部はメインバンクであった住友銀行の主導によって分割され、安宅農水産をはじめとする複数の受け皿会社に引き継がれた。その後、好業績を維持していた安宅農水産はイトマン農水産部への吸収合併を要請されたが、転籍を拒んだ5人の社員が独立を決意する。彼らは安宅産業時代から続くコーヒー事業と牧草事業を継承し、1980年にアタカ通商を設立した。初代社長には安宅農水産でもトップを務めた結城 國英が就任しており、同社は総合商社・安宅産業のDNAを受け継ぐ唯一の企業として新たなスタートを切ったのである。

アタカ通商の屋台骨であり最大の強みとなっているのが、ジャマイカ産のブルーマウンテンコーヒーである。安宅産業は、ジャマイカ政府が日本への直接輸出を始めた1967年当時からいち早く買い付けを行っており、アタカ通商は日本におけるブルーマウンテン取引の最古参に位置づけられる。産地との結びつきは単なる仕入れにとどまらず、コーヒー産業公社(CIB)(Coffee Industry Board)に日本で初めて100万ドルの融資を行って産業復興を支援したのも安宅産業であった。さらに1988年にハリケーンが農園に甚大な被害をもたらした際には、アタカ通商がジャマイカコーヒー輸入協議会の一員として貸し付けを行い、コーヒー豆による長期的な返済を受け入れる形で産地を助けた。こうした長年の支援によって培われた強固な信頼関係が、現在も同社の事業基盤を支えている。
2001年からは、安宅産業時代から経理畑やコーヒー事業を歩んできた荒木 守が社長に就任し、現在に至るまで経営の舵取りを担っている。2019年にはもう一つの祖業であった牧草事業を元役員の設立した別会社へ承継させ、収益の柱であるコーヒー生豆の輸出入および国内販売に経営資源を完全に集中させる決断を下した。これにより売上規模は一時的に半減したものの、より専門性の高い企業へと変貌を遂げている。現在はジャマイカ政府認定の数少ない買い付け企業としてブルーマウンテンの魅力発信に注力する傍ら、希少なハワイコーヒーや世界各国の多彩なスペシャルティコーヒーも取り揃え、大手ロースターから小規模な自家焙煎店まで幅広く良質な豆を供給している。
コーヒーの中で同社の強みであり今後も注力していくのがブルーマウンテンコーヒー。現在、ブルーマウンテンコーヒーを産地から買い付けできるのはジャマイカ政府に認定された会社に限られ、そのうちアタカ通商は源流の安宅産業時代からさかのぼると最古参となる。
アタカ通商は、元総合商社・安宅産業の5人の社員がその事業のコーヒー事業と牧草事業を継承して1980年に設立された貿易会社となる。
「ジャマイカのコーヒー産業の復興を手掛けたコーヒー産業公社(Coffee Industry Board)に100万ドルの資金を日本で最初に融資したのが安宅産業。1988年に発生したハリケーン・ギルバートで農園が大打撃を受けた際には、ジャマイカコーヒー輸入協議会の一員として貸し付けを行い、長きにわたってコーヒー豆で返済していただいた」と振り返る。(中略)
1967年の輸入開始時は、ブラジル、コロンビアなどの主要産地から等級の低い豆が多く流通したこともあり「相対的にブルーマウンテンコーヒーはおいしいと評価された」
「ブルーマウンテンコーヒーに最注力 スペシャルティも多彩に品揃え アタカ通商」,食品新聞 2020年2月10日.

