ゾッカコーヒーの歴史と日本での展開
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ゾッカコーヒーの歴史と日本での展開

ゾッカコーヒーの歴史と日本での展開

ゾッカコーヒー(Zoka Coffee)は、米国シアトルを拠点とするスペシャルティコーヒーのロースターである。1996年秋に最初の焙煎を行い、その4か月後の1997年1月7日、シアトルのグリーンレイクに1号店をオープンした。店名の「ゾッカ(Zoka)」は、コロンビアにおいてコーヒーノキが徹底的な剪定を経て再び高い生産性を取り戻す現象を指す言葉であり、コーヒーという植物の生命力と再生への敬意が込められている。創業当初から一貫して掲げてきたのは、焙煎したてのコーヒー、確かな技術を持つバリスタ、そして居心地の良い空間を通じて地域社会に貢献するという理念であった。やがてゾッカはシアトル市内に4つのカフェを構えるまでに成長し、通信販売や卸売事業にも進出していくことになる。

創業者のジェフ・バブコック(Jeff Babcock)がスペシャルティコーヒーに出会ったのは1975年のことで、シアトルのユニバーシティ・ビレッジにあった、当時まだ数店舗しかなかったスターバックスを訪れたのがきっかけであった。そのコーヒーの新鮮さに衝撃を受けたジェフは、ワシントン大学で経営学を学びながらスペシャルティコーヒーの世界を研究し始め、やがて自ら理想のコーヒーショップを創るに至った。創業から四半世紀を経た現在も、彼は社長兼CEOとして日々の意思決定に携わり続けている。コーヒーの鮮度を何よりも重視し、生豆の品質、焙煎、抽出、そして産地の農家との関係づくりまでを一貫して追求し続けてきた。ジェフ自身は業界の大きな転換点として、カップ・オブ・エクセレンス(CoE)(Cup of Excellence)の発展による生豆品質の飛躍的向上と、バリスタ競技会の誕生による飲料品質の進化の2つを挙げており、ゾカはその両方の流れに初期から深く関わってきた。

なかでもバリスタ競技会との関わりは、ゾッカの名を世界に知らしめる大きな契機となった。2002年に始まった最初の全国バリスタ選手権(NABC)(North American Barista Competition)(現在の全米バリスタ選手権(USBC)(United States Barista Championship))で、ゾッカ所属のディスマス・スミス(Dismas Smith)が優勝を果たしたのである。スミスはバリスタ歴わずか3年、ロースター兼バリスタとして働く31歳の青年であった。大会では準決勝、決勝と勝ち進む中で落ち着きと独創性を発揮し、見事に頂点に立った。特に審査員の心をつかんだのは、メキシコをテーマにした創作ドリンク「ラテン・ラブ(Latin Love)」であった。それはエスプレッソにメキシカンチョコレートを合わせてシェイクし、シェリーグラスに注いでホイップクリームとシナモンスティックを添えたドリンクで、ノルディック・バリスタ・ジャムセッション(Nordic Barista Jam Session)で出会ったティム・ウェンデルボー(Tim Wendelboe)のシンプルなアイスエスプレッソからの着想と、幼少期に母が作ってくれたメキシカンホットチョコレートの記憶が融合した一杯であった。スミスはまた、当時アメリカではアルバイトの延長のように見なされがちだったバリスタという仕事を、選択すべき専門職として位置づけようとした点でも先駆的な存在であった。

2005年には、フオン・トラン(Phuong Tran)が同じく全米バリスタ選手権(USBC)で優勝した。フオンはもともとIT業界出身で、ワシントン州リッジフィールドにあるカフェ「ラバ・ジャバ(Lava Java)」を2002年に買い取ったことからコーヒーの世界に入った。姉が経営する日焼けサロンの隣にあったコーヒーショップが売りに出されたのがきっかけで、本人いわく「若くて世間知らずだった」ゆえの衝動的な決断であったという。しかし独学と展示会参加を重ねてスペシャルティコーヒーの知識を深め、ゾッカではトレーナーとしても活動するようになった。競技参加わずか2年目で国内優勝、同年の世界バリスタ選手権では7位に入賞し、彼女の名前は国際的に知られることとなった。ジェフによれば、この2度目の全米制覇がダイレクトトレードへの本格参入のきっかけとなった。

ジェフは、2002年と2005年の二度にわたる優勝を「今でも大きな誇り」と語っている。品質やダイレクトトレードへの早期の取り組みに加え、こうした競技実績も相まって、当時のゾッカはスペシャルティコーヒー界で高い評価を得ていた。のちに日本側で事業に携わることになる阪本 義治は、当時のゾッカがインテリジェンシアやスタンプタウンと並ぶ存在であったと回想している。

こうした米国での確固たる地位を背景に、ゾッカは2000年代半ばに日本へと進出する。その受け皿となったのは、株式会社マルハンの100%出資子会社であったマルハンダイニングであった。2004年にライセンス契約を締結し、翌2005年3月に東京・赤坂見附へ日本1号店を開いたのを皮切りに、目白、銀座、流山おおたかの森、あざみ野、港北ノースポートモールへと出店を重ねた。当時の日本ではスペシャルティコーヒーの概念がまだ広く浸透しておらず、バリスタが一杯一杯にラテアートを施すスタイルを含め、シアトル発のコーヒー文化を本格的に紹介する存在としてゾッカは先進的であった。日本展開は単なるブランドの貸与ではなく、技術の伝達と文化の共有を伴うプロジェクトであった。

この日本事業の立ち上げにおいて、現場の中核を担った人物の一人が阪本 義治である。当時マルハンダイニングが新規事業のリーダーを募集しており、転職エージェントを通じて出会ったのがゾッカの事業であった。もともと紅茶派で、コーヒーは苦くてまずい飲み物だと思っていたという阪本だが、入社早々にシアトル本社へ約1か月間派遣されることになり、そこで待っていたのが創業者のジェフ・バブコックと、当時副社長でカップ・オブ・エクセレンスのヘッドジャッジも務めるシェリー・ジョンズ(Sherri Johns)であった。毎朝7時から始まる徹底的なトレーニングの中で、阪本はスペシャルティコーヒーの世界に目を開かれていった。

日本のゾッカは店舗展開にとどまらず、バリスタ競技の分野でも着実に実績を重ねた。その中心にいたのが櫛浜 健治である。櫛浜は2007年のジャパン バリスタ チャンピオンシップ(JBC)(Japan Barista Championship)で5位に入賞し、翌2008年には同大会で8位に入賞するとともに、SCAJ2008ラテアートコンテスト(SCAJ 2008 Latte Art Contest)で優勝を果たした。さらに2009年にはジャパン ラテアート チャンピオンシップ(JLAC)で優勝し、日本代表としてワールド ラテアート チャンピオンシップ(WLAC)(World Latte Art Championship)に出場して4位に入賞した。同年のジャパン バリスタ チャンピオンシップ(JLAC)でも3位に入賞した。2007年には斉藤 久美子もジャパン バリスタ チャンピオンシップ(JLAC)で準優勝しており、米国本社が全米チャンピオンを輩出したのと同じように、日本のゾッカもまた競技志向の高いバリスタを育てる場として機能した。

日本のゾッカはその後、全店閉店となった。赤坂見附店は2011年5月、銀座のR25cafe店は2013年6月、目白店と流山おおたかの森S・C店は2015年にそれぞれ営業を終えた。櫛浜健治と斉藤久美子は丸山珈琲へ移り、そこで育った人材はその後もスペシャルティコーヒーの世界で活躍を続けている。

一方、マルハンダイニングにとって、ゾッカの経験はその後の事業につながった。ライセンスブランドとしてのゾッカは終了したが、そこで得たスペシャルティコーヒーの知見や技術をもとに、自社ブランドのスクロップ コーヒー ロースターズ(SCROP COFFEE ROASTERS)を展開することになる。スクロップはパナマ・ゲイシャなどの高品質な豆を扱うスペシャルティコーヒー専門店であり、オンラインショップも運営している。阪本もこの事業に関わっており、ゾッカで得た経験は別の形で引き継がれた。

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