
一粒たりとも失われることがないように
一粒たりとも失われることがないように
1959年1月1日、サンティアゴ・デ・クーバ、セスペデス公園におけるフィデル・カストロ司令官の演説
サンティアゴ市民、キューバ全土の同胞諸君:
ついに我々はサンティアゴに到着した(拍手)。ここに至る道は厳しく長かった。だが我々は到着した (拍手)。
今日午後2時に、共和国の首都が我々を待ち受けているそうだが、まずそれに驚いたのは私だった(拍 手)。なぜなら、私は共和国の首都で今朝でっちあげられた裏切りのクーデターに、最初に驚いた者の一 人だから(拍手)。
そのうえ、私は共和国の首都にいることになっていたのだ、つまり共和国の新しい首都に (拍手)。なぜなら、サンティアゴ・デ・クーバは暫定大統領、反乱軍、サンティアゴ・デ・クーバ市民それぞれの願いに沿うならば、首都になるからであり、それはこの上なくふさわしいことだからだ(拍手)。サンティアゴ・デ・クーバは共和国の暫定首都になるだろう!
おそらく、この措置に驚く人がいるだろう。これは新しい措置だ。しかし、だからこそ、前例のないことで革命を特徴づけるのだ(拍手)。サンティアゴ・デ・クーバを共和国暫定首都とするとき、我々はなぜそうするのかを知っている。ある特定の市を扇動的に喜ばせるためではない、ただサンティアゴが革命の最も堅固な砦となってきたからだ(拍手)。
革命は今から始まる。革命はたやすい仕事ではない。革命は、特にこの最初のときは、厳しく危険に満ちた事業だ。共和国政府を構築するのに、この革命の砦より最適なところはあるだろうか(歓声と拍手)。それはシエラマエストラの峰々に暮らす英雄的都市の人々に、確固として支持された政府になることを、知ってもらうためだ。なぜなら、サンティアゴはシエラマエストラにあるからだ(歓声と拍手)。革命はサンティアゴ・デ・クーバとシエラマエストラに二つの最強の砦を持つことになるだろう(拍手)。
フィデル・カストロ・ルス(著)、工藤多香子・田中高・富田君子(翻訳)『キューバ革命勝利への道――フィデル・カストロ自伝』明石書店、2014年、323-324頁
フィデル・カストロと彼に率いられた若者たちが、メキシコから海を越え、ほとんど無謀な賭けによって故郷の島へ戻ってきたとき、彼らを迎えたのはマングローブの根が泥のなかで絡み合う湿地帯であった。一歩ごとに泥が足を奪い、底なしの沼地は革命の意志もろとも彼らを呑み込もうとしていた。バティスタ軍が襲いかかったとき、部隊はほとんど抗う間もなく砕かれ、仲間たちは次々と泥のなかに崩れ落ちた。ある者は捕らえられ、ある者はその名を呼ばれることもなく、硝煙とともに空へ散り、あるいは湿地の泥の底へ沈んでいった。
最初の日々にあまりに多くのものを失いながらも、なお生き残った者たちは敗走するように、しかしじつのところ何かに導かれるようにして、キューバ南東部の険しい山岳地帯シエラ・マエストラへ身を潜めた。追われる者の隠れ場にすぎなかったはずのその山々は、反乱軍の拠点となり、やがて革命に明確な輪郭を与える揺りかごへと変わっていった。
シエラ・マエストラは、極めて貧しいコーヒー産地であった。そこでは痩せた斜面の土にコーヒーの木々がしがみつき、崩れかけた小屋が身を寄せていた。土地は人々を養うためというより、忍耐を試すためにあるかのようだった。農民たちの目は遠くを見ていたが、その視線の先に、若い反乱軍の兵士たちが描いた未来の像は、まだ結ばれていなかった。都市から来た若者たちは、彼らの貧困を、新聞の統計や演説の修辞としてではなく、夜の静寂のなかに響く乾いた咳の音として聞いた。
シエラ・マエストラでゲリラが徐々に形を成していく過程は、後に革命の公式な物語の一部となった。だが、より決定的な変化は目に見えないところで起きていた。それは都市から来た若者たちの内面で古い何かが壊れ、新しい何かが息づきはじめたことである。チェ・ゲバラがのちに回想したように、「我々は、これらの人々の生活に決定的な変化が必要であることを骨の髄まで感じ始めた。農地改革の理念は明確になり、農民との共生は単なる理論ではなく、我々の存在そのものに深く根を下ろした」のだった。
革命はもはや紙の上の理論ではなくなった。彼らはそこで初めて、国家という言葉の外側に置き去りにされた人々が、地図の余白ではなく、その最も深い中心に位置することを理解し始めた。そして、その理解こそが、シエラ・マエストラを革命が真に生まれ直す場所へと変えていったのである。
我々はシエラマエストラの、サンティアゴ・デ・クーバの我らの農民を忘れない(拍手)。我々はみなのことを忘れてハバナに暮らしに行くのではない。私が住みたい所はシエラマエストラだ(拍手)。少なくとも、私に関しては、深い感謝の念ゆえに、あの農民たちを忘れることはない。自由な時間を持てるようになったらすぐ、2万人の子どもを受け入れられる最初の学園都市をどこに作るか検討しようと思う(拍手)。それを国民の助けを借りて作りたいと思う。市民一人一人にセメント一袋と鉄筋一本を頼もう(拍手と「はい!」という叫び声)。私は市民から助けを得られることを知っている(拍手)。
フィデル・カストロ・ルス(著)、工藤多香子・田中高・富田君子(翻訳)『キューバ革命勝利への道――フィデル・カストロ自伝』明石書店、2014年、351-352頁
1959年に革命が勝利を収めたとき、シエラ・マエストラはもはや単なる山脈ではなくなっていた。飢えと銃声のなかで反乱軍がようやく革命の輪郭をつかみ取った場所、敗走と決起が同じ分水嶺の上で生じた場所として、シエラ・マエストラは国じゅうの想像力の中心へと持ち上げられた。都市の若者たちは、自分たちが間に合わなかったその闘争の記憶に引き寄せられるようにして、その山へ向かった。後に共産主義青年同盟※1となる青年反逆者協会は、シエラ・マエストラへの一連の耐久行軍を主導した。ベレー帽をかぶった若者たちは、ピコ・トゥルキーノの頂を目指して一歩ごとに薄くなる空気のなかに、かつて反乱軍が味わった決意と試練の残響を聴き取ろうとした。
シエラ・マエストラが呼び寄せたのは、ゲリラへの憧れだけではなかった。それよりもはるかに大きく、はるかに長く続いたのは、教育という別の武器を手に農村を変え、同時に都市の若者自身をも変えようとする渇望であった。識字教育は、農村の孤立と貧困を終わらせるための核心に据えられた。農地改革とともに農村再建の二本の柱となり、かつて兵舎が立っていた跡地には、革命の英雄カミロ・シエンフエゴスの名を冠した巨大な学園都市が姿を現した。銃の時代は終わり、知識の時代が始まるのだと、その門は告げていた。
この学園都市へ、そしてシエラ・マエストラの各地へ、多くの都市の若者たちが、とりわけ若い女性たちが、ボランティアとして身を投じた。彼女たちにとって山へ行くことは、職業の選択である前に、革命を自分自身の物語として生活のなかに引き受けることを意味していた。すべてが途上にある環境に身を置き、粗末な教室で農民の子どもたちと向き合うこと、それは、ゲリラが山中で経験した試練を、黒板と教科書を通じて自分なりに生きるための方法であった。
この運動は、1961年の全国識字キャンペーンへと結晶した。8ヶ月以上にわたって学校は閉鎖され、13歳というまだ幼い都市の子どもたちが農村の奥へと送り出された。農民の家族とともに暮らし、昼は畑で働き、夜はランプの灯りのもとで読み書きを教える。それは社会を丸ごと揺さぶるほど大胆な試みであった。この計画は、文盲率を下げることだけを目的としていなかった。そこには、農村の苦難と尊厳に触れることで都市の若者自身を政治的に鍛え直そうとする意図が、はっきりと息づいていた。
その経験は、多くの若者の人生に消えない痕跡を残した。農村の貧困を目の当たりにし、自分たちの都市生活との深い溝を知り、生産と消費のつながりを泥にまみれた手で理解した若者たちは、山を降りてもかつての自分には戻れなかった。こうした経験は、やがて農業と教育を結びつけるさまざまな試みへと広がり、都市と農村を隔てる境界そのものを溶かそうとした。革命後のシエラ・マエストラは、過去の闘争を記念するだけの場所ではなかった。人々はそこに、長く引き裂かれてきた都市と農村のあいだに、新しい共和国を築き直す可能性を見ていたのである。
※1 さて、U.J.C.がコーヒーの実を収穫するために急造された組織であることは、誰もが知っている。街には、茂みの最後の実を摘もうと手を伸ばす、幸せそうに微笑む人物を描いた看板が溢れており、そのキャプションには「一粒も残すな」と書かれていた。
Now we all know that the U.J.C. was drummed up to harvest the coffee berries. The city was full of billboards with a drawing, representing a happily smiling figure reaching for the last berry of a bush with the caption: “so no berry is lost.”
Konrad Adenauer and the Cuban Missile Crisis - Wilson Center



