日本とインスタントコーヒー ゼネラルフーヅとマックスウェル
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日本とインスタントコーヒー ゼネラルフーヅとマックスウェル

ゼネラルフーヅとマックスウェル

ゼネラルフーヅ・コーポレーション(GFC)(General Foods Corporation)は、1895年に設立されたポスタム社を起源とする企業であり、当初はシリアルおよびオートミールの製造を主軸として成長した。1920年代後半以降、同社は合併・買収を通じて製品ポートフォリオを急速に拡張し、1928年に社名をゼネラル・フーヅへ変更した。この時期、米国食品産業ではブランド管理と大量広告を基軸とするマス・マーケティング体制が確立されつつあり、ゼネラル・フーヅ・コーポレーション(GFC)もまた、シリアル、コーヒー、デザート製品など多様な加工食品を全国展開する企業へと成長し、第二次世界大戦前にはすでに米国最大級の加工食品企業としての地位を確立していた。

組織構造の面では、当初は集権的な職能別組織のもとで単一の販売部門が多様な製品を扱っていたが、1940年代に入ると製品別事業部制へと移行し、1946年までに16の事業部が設置された。これは、国内市場における製品多角化に対応するための合理的な組織再編であった。

第二次世界大戦後、ゼネラルフーヅ・コーポレーション(GFC)は買収による製品多角化に加え、海外直接投資を通じた地理的拡大を本格化させた。戦前における海外拠点はカナダとフィリピンに限られていたが、1954年に社長に就任したチャールズ・グリーン・モーティマー(Charles Greenough Mortimer, 1900 - 1978)の主導のもと、ゼネラルフーヅ・コーポレーション(GFC)は加工食品を世界に供給するという使命感を掲げ、海外投資を積極的に推進した。その結果、1967年3月時点で同社は17か国に生産拠点を有するに至った。ただし、海外事業の売上高比率は全社の約13%(カナダを除く)にとどまり、利益寄与は7.5%にすぎなかった。売上高・利益の大部分は依然として米国国内市場に依存しており、海外事業は補完的部門にとどまっていた。

ゼネラルフーヅ・コーポレーション(GFC)の日本への直接投資は1953年に行われたが、日本市場との関係は前段階としてバヤリース オレンジ(当時はバャリース オレンヂ)の輸出販売があった。バヤリース オレンジは、敗戦直後から米軍向け軍需物資として供給され、1950年に民間市場での販売が許可されると、原液の対日輸出が開始された。原液は兵庫県宝塚市のクリフォード・ウヰルキソン・タンサン鉱泉(1941年に政府が接収したウヰルキンソン炭酸鉱泉を1943年に日本興業銀行(現・みずほ銀行)が買収、敵産管理人の大日本麦酒が経営権を握り、大日本炭酸鉱泉と改称したが、1947年にクリフォード・ウヰルキンソン・タンサン鉱泉に改称)で瓶詰めされ、アサヒビールの販売網を通じて全国で販売された。バヤリース オレンジは、日本における最初期の果汁飲料として高い市場評価を得た。

1953年のオレンジジュース原液の運動により、1954年にオレンジジュース原液の輸入を禁止されたことを受け、ゼネラルフーヅ・コーポレーション(GFC)は全額出資の子会社、ゼネラルフーヅ株式会社(GFL)(General Foods Limited)を設立し、兵庫県伊丹市に工場を建設した。みかん原料は国内産地から調達され、季節労働者を活用して原液生産が行われた。こうした体制のもとで、バヤリース オレンジは果汁飲料市場におけるトップブランドとしての地位を確立し、1957年には国内ジュース需要の56%を占めるに至った。

1960年、コーヒー生豆の輸入自由化が実施され、日本におけるコーヒー消費は急速に拡大した。翌1961年にはインスタントコーヒーの輸入も自由化され、市場は爆発的な成長を示した。1966年にはインスタントコーヒーの需要量がレギュラーコーヒーを上回り、その後1980年代後半まで拡大を続けた。

ゼネラルフーヅ・コーポレーション(GFC)はこの機会を捉え、伊丹工場にインスタントコーヒー生産プラントを建設し、1960年末から本格操業、1960年12月にインスタントコーヒー「マックスウェル(Maxwell)」の販売を開始した。国内生産メーカーとしては森永製菓に次ぐ第二の参入者であったが、同時期にネスレをはじめとする多数の海外メーカーが輸出を通じて参入し、1962年には70~80ものブランドが競合する極度に競争的な市場が形成された。

ゼネラルフーヅ・コーポレーション(GFC)は、日本市場において自社の強みである製品技術とブランド管理、すなわちマス・マーケティング手法を移転することで競争優位を確立できると考えた。1961年にはプロダクト・マネージャー制度を導入し、消費者調査に基づく製品開発と広告戦略を展開した。この制度は当時の日本では革新的であり、ゼネラルフーヅ・コーポレーション(GFC)は「GFスクール」と呼ばれる人材育成の場として注目された。

一方で、営業面では日本固有の多段階流通構造への対応が不十分であった。ゼネラルフーヅ株式会社(GFL)は当初、販売を外部に委ねる戦略を採用し、朝日麦酒株式会社(現・アサヒビール株式会社)およびクリフォード・ウヰルキンソン・タンサン鉱泉株式会社が折半出資するゼネラル食品販売株式会社(GSH)を通じて問屋営業に依存した。しかし、全国的な小売店営業を展開していたネスレに比べ、ゼネラルフーヅ株式会社(GFL)は売場確保で劣勢に立たされ、「マックスウェル」は急速にシェアを失った。

さらに、高湿度環境による製品凝固問題への対応の遅れも、品質イメージの低下を招いた。1964年には市場シェアは10%台にまで低下し、ネスレが圧倒的に支配的な地位を確立した。

ゼネラルフーヅ株式会社(GFL)は1964年以降、販売を内製化し、小売店営業部隊を設置した。1965年にはゼネラル食品販売株式会社(GSH)を買収し、全国営業網を獲得したが、規模の経済においてネスレに劣る状況下で、値引きやリベートに依存した拡販策を採用した。その結果、流通在庫の増大、価格下落、ブランド価値の毀損が進行した。

1969年には一時的に市場シェアを24%まで回復したものの、利益率は急速に悪化し、1972年には巨額の赤字を計上した。生産性指標においても、ゼネラルフーヅ株式会社(GFL)の一人当たり売上高はネスレの約3分の1にとどまり、構造的な競争劣位が明らかであった。

ゼネラルフーヅ・コーポレーション(GFC)において海外事業は周辺的に位置づけられ、国際人的資源管理は十分に発達していなかった。海外駐在はキャリア上の不利益とみなされ、長期的に現地市場を理解する人材の蓄積が進まなかった。この傾向は日本駐在員の短期交代にも表れており、日本事業を戦略的に理解できる人材は本社にも存在しなかった。

1970年に本社から派遣されたE・ファーマンは経営改革を試みたが、1972年の赤字を契機として、ゼネラルフーヅ・コーポレーション(GFC)は日本事業からの部分撤退を決断した。1973年、ゼネラルフーヅ株式会社(GFL)は味の素との合弁会社、味の素ゼネラルフーヅ(AGF)へと改組され、ゼネラルフーヅ・コーポレーション(GFC)は技術供与と配当収入に限定された関与へと後退した。

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