日本で最初の喫茶店 可否茶館
可否茶館
可否茶館は、1888年(明治21年)4月13日に鄭 成功(てい せいこう)の末裔である鄭 永慶(てい えいけい)(西村 鶴吉)が開業した喫茶店です。
そうだった、今日4月13日は「喫茶店の日」だった…長崎出身の西村鶴吉が明治21年に東京上野西黒門町で可否茶館を開いた日に由来するワケだが、可否茶館記念会がその歴史を語るページが西暦を1884年と今年も誤っているママなのが痛い… http://bit.ly/ev8FHV
— 鳥目散 帰山人 (@kisanjin) April 13, 2011
(承前)まぁ個人的には、「可否茶館」が日本で「最初」の「喫茶店」である、とするべきか、には疑問も残っているので、「4月13日が『喫茶店の日』である」という制定にシックリきていないので忘れがちなワケで…表記年代を4年も間違えたママにする程度の記念会が言ってることですから~w
— 鳥目散 帰山人 (@kisanjin) April 13, 2011
今日4月13日は「喫茶店の日」、日本最初の本格的喫茶店「可否茶館」が開業した日。
— Y Tambe (@y_tambe) April 13, 2017
可否茶館とその経営者、鄭永慶については、何といっても
「倉敷珈琲物語」 https://t.co/1pvcyibU4G
「続倉敷珈琲物語」 https://t.co/kk8DPCeRbb
が必読(続
承前)
— Y Tambe (@y_tambe) April 13, 2017
そして、ネットで記事を見つけた「鄭永慶の孫」からの一通のメールから、その子孫との出会いを果たす「続倉敷珈琲物語」https://t.co/wFudPkUq7G
「日本最初の喫茶店」と呼ばれる可否茶館は1888年に上野で開業し、4年で閉店した。閉店の原因は、ひとえに「早すぎた」こと。日本でコーヒーが本格的に流行するのは、その20年後の1908年、木下杢太郎らが「パンの会」を起こして隅田川沿いの洋食屋に集うようになってから。
— Y Tambe (@y_tambe) April 13, 2017
早すぎた喫茶店「可否茶館」 鹿鳴館の華やかなりし時代に、庶民のための社交場を目指して開業するも、時代を先取りしすぎたためか4年で廃業。
— Y Tambe (@y_tambe) April 12, 2018
創業者、鄭永慶はその後シアトルに渡って没したhttps://t.co/wFudPkUq7G
つか、日本で喫茶店が流行したのは「パンの会」の文人たちが、フランスのカフェ情緒を日本に作ろうとして、隅田川をセーヌ川に見立てて、隅田川沿いの西洋料理屋で集まるようになったのがきっかけなので、文人たちが喫茶店流行のきっかけだと言っていい。
— Y Tambe (@y_tambe) January 14, 2017
パウリスタが安くコーヒーを提供できたのは、水野龍がサンパウロからコーヒー豆の無償供与受けたから(原価なし、輸送費のみ)だけど、これもまぁ、国内の文献だと「美談」としてだけ語られがちだが、当然ブラジルがタダでくれたのには訳があるわけで。
— Y Tambe (@y_tambe) August 20, 2015
ブラジル政府、サンパウロ州政府が生産者から一定価格で買い取りを保証する代わりに生産調整をかける。で、買い取ったコーヒー豆を政府がさばかにゃならない。だけど実は生産過剰気味で、全部市場に流すと価格暴落する→よし、捨てるくらいなら日本にやって、新市場開拓だ!
— Y Tambe (@y_tambe) August 20, 2015
しばらくするとWW1が勃発して、ヨーロッパがコーヒー輸入どころじゃなくなり、需要が激減し、コーヒー価格は大暴落。それで、この無償提供は当初の予定よりも長く続いた。けど、WW1終わってアメリカが大コーヒーブーム迎え、関東大震災のときに打ち切られる。以降、パウリスタも縮退
— Y Tambe (@y_tambe) August 20, 2015
ちょうどこの頃、日本では震災後に増えてたカフェーのお色気サービスがどんどん過激化していってたので、「コウジョリョウゾク的にケシカラン」と取締が強化されてった頃。で、そうしたカフェーと一線を画すべく、普通喫茶店や純喫茶などが分かれていった…というのが大筋。
— Y Tambe (@y_tambe) August 20, 2015
戦前のコーヒー/カフェーブームについては、何期かに分けて考えることが可能。最初の喫茶店とされる可否茶館は長く続かなかったため、実質的には、文人たちがカフェーに興じた1910年代(メイゾン鴻巣→プランタン、パウリスタ)と、1920年代関東大震災後の喫茶店カフェーの急増期(続
— Y Tambe (@y_tambe) August 21, 2015
承前)コーヒーを扱う店が増えるとき、かならず付き物になるのが「オピニオンリーダーたち」の存在。20年代以降には、カフェーと並んで、(特に、当時社会進出が盛んになった女性たちが自営する)健全路線の普通喫茶店も件数を増やしたが、これらの開業に際して「開業指南」を行っていた人たちがいる
— Y Tambe (@y_tambe) August 21, 2015
承前)また星の店「ブラジレイロ」は、多くの文化人も集ったことで知られている。1930年代から戦後にかけて、コーヒー好きの人たちに多く見られたスノビズムを育んだのがブラジレイロだとも言われてる。
— Y Tambe (@y_tambe) August 21, 2015
承前)また戦前から活躍していたコーヒー人は当然、星のほかにも多数いた。そこには三浦義武、井上誠、襟立博保など戦後への継承者になった人々がいたし、奥山儀八郎も(コーヒー人ではなく文化人枠ながら)その一人。で戦前、こうしたコーヒー人たちが交流していた『茶と珈琲』という雑誌がある。
— Y Tambe (@y_tambe) August 21, 2015
承前)このように、1930年にはすでに、「コーヒーを探究する一部のコーヒー業界人」「そこに集うスノッブな連中」という、70-80年代の日本最大のコーヒーブーム期にも見られたような「一般層から離れた、コアなコーヒーオタクたち」の世界が生まれてる。
— Y Tambe (@y_tambe) August 21, 2015
承前)ちなみに、この1930年代の唯一の「生き残り」がランブルの関口さんね。
— Y Tambe (@y_tambe) August 21, 2015
承前)内国勧業博覧会とコーヒー #珈琲咖啡探索隊
— Y Tambe (@y_tambe) August 24, 2015
第3回内国博(M23/1890)には「茶」のみ。ただし、このときは「ダイヤモンド珈琲店」が出てる。http://t.co/XsQVN2gjRI
おそらく会場外の出店。可否茶館の開業が1888、メイゾン鴻巣などとの間。
@y_tambe ×会場外 ○出品目録外
— Y Tambe (@y_tambe) August 24, 2015
承前)明治23年4月8日、東京日日新聞の「ダイヤモンド珈琲店」表記については、当方では原典未チェックhttp://t.co/XsQVN2gjRI
— Y Tambe (@y_tambe) August 24, 2015
第三回内国勧業博覧会参考品目録(明治23年/1890) http://t.co/pd1eu9brbf (5コマほか
— Y Tambe (@y_tambe) August 24, 2015
「咖啡注」などの記載あり。「咖啡」 #珈琲咖啡探索隊
第二回内国勧業博覧会列品訳名(明治14年/1881)http://t.co/OR4Xab9ntm 95コマ
— Y Tambe (@y_tambe) August 24, 2015
咖啡注子(コウヒイツギ) coffee-pot#珈琲咖啡探索隊
明治十年内国勧業博覧会出品目録.(明治10年/1877)http://t.co/UaC64qcl7g 50コマ 咖啡器#珈琲咖啡探索隊
— Y Tambe (@y_tambe) August 24, 2015
承前)このリンクによれば、http://t.co/DlQUtztXsi
— Y Tambe (@y_tambe) August 24, 2015
1923年からの、戦前の「常用漢字表」からは「珈」「琲」のどちらも外す計画だった模様。
誰が「珈琲」をつくったのか?#珈琲咖啡探索隊 (ダイジェスト版):https://togetter.com/li/866844
承前)次第に「いわゆる水商売系の店」が増えた。これに対して、健全路線を守ろうとした店が(もともと台湾喫茶店など、茶が中心だった店から発祥した)「(普通)喫茶店」を名乗るようになる(これが30年代には「純喫茶」につながる)
— Y Tambe (@y_tambe) May 11, 2016
公娼制度のとき、遊郭が禁止されちゃったのだけど、そういきなり廃業できるものでもなくて、東京では主に「カフェー」、大阪では「料理屋」に看板を付け替えたのね。このため「カフェー」と「(旧)遊郭」の境界があいまいに。一応は57年の売春禁止法で幕を閉じたのだけど、当時を知ってる人だと(続
— Y Tambe (@y_tambe) May 11, 2016
ランブルさんは銀座だけど、バッハさんは吉原大門からそんなに離れてないこともあり、勘違いした人が来たり、(女性の)従業員が変な目で見られることのないよう「珈琲屋」を名乗ってたんだ、と聞いてる。それがやっと近年「カフェ」を名乗っても問題なくなったと。
— Y Tambe (@y_tambe) May 11, 2016
パウリスタが銀座に開店した1911年は、「銀座カフェーはじまりの年」で、パウリスタより先にカフェー・プランタン、カフェー・ライオンという「カフェー」が創業した年でもある。この頃はまだ「カフェーのあり方」は固まっておらず、三者三様だったのだが(続
— Y Tambe (@y_tambe) December 4, 2018
承前)これに対してパウリスタは「ブラジル日系移民の父」こと、皇国植民会社の水野龍が、パウリスタ州政府からブラジル産生豆の無償提供を受け(ブラジル側からすると当時は増産で原料価格暴落してたので市場開拓の狙いがあった)大隈重信の協力で開いた店で(続
— Y Tambe (@y_tambe) December 4, 2018
承前)女給のサービスを求めない青踏社の女流作家たちもパウリスタの方に集まった。水野龍のおかげで、実質ブラジル産コーヒーについてはパウリスタが一強状態で「この(安い)値段で、本物のブラジルコーヒーが飲める」というのが最大の売り。ちなみに当時はコロンビア産とかはまだ輸入がない状態(続
— Y Tambe (@y_tambe) December 4, 2018
承前)当時の詩(智恵子抄とか)にも多く謳われてて、それはまぁフランス文学の影響なんだろうけど、それなりのブランドイメージがあった。それ以外に一応、このころは台湾でのコーヒー栽培とかも始まってて、それも入ってきてた可能性はある(これもロブスタだけど)。
— Y Tambe (@y_tambe) December 4, 2018
承前)ただまぁ、パウリスタからは後に他のコーヒー会社を起業した人とかも多く輩出されてるので(現在までの流れが一旦切れてるにせよ)日本の喫茶店史上重要な「老舗」であることは間違いないのよ。でも、それだからこそ、語源捏造するような真似をしてもらっちゃ「老舗」の名が泣く。
— Y Tambe (@y_tambe) December 4, 2018
可否茶館に関連して、早稲田の講義プリントから2枚ほど。 pic.twitter.com/8dLWWwsbeh
— Y Tambe (@y_tambe) April 13, 2023
可否茶館を「日本最初の喫茶店」と位置付ける人は多いのだけど、(こないだ復刊されて解説書いた『日本の珈琲』 https://t.co/bkI9fmoTMi もそう)コーヒーを提供する店はそれ以前からもあったわけで。欧米のカフェを目指した「本格」喫茶店としては、初と言ってもいい感じ。 https://t.co/NKCaEBbckt
— Y Tambe (@y_tambe) April 13, 2023
承前) まぁ、現代の喫茶店/カフェを遡って考えるとき、飲食店やコーヒー屋などの業界が顕彰や箔付けの意も含めて「今につながる」感を醸成するのはわからんでもないけれども、史論としては「今につながる」か否かは冷静に捉えるべきで、「今につなげる」無理は抑制的であってほしい。私はそう思う。
— 鳥目散 帰山人 (@kisanjin) April 13, 2023
承前) つまりですね、業者にしろマニアにしろ研究家にしろコーヒー関係の方々は、飲用商材としての「コーヒー」がとある店舗の業態に存することで「喫茶店」の歴史を語ろうとするワケですが、それは広汎な意味で喫茶店史を語っているとは言い切れないかも。むしろ前提に偏頗な自縛があるとも言える。
— 鳥目散 帰山人 (@kisanjin) April 13, 2023
言いたい放題ついでに、以前にとあるコーヒー催事で私が示した「日本のカフェの歴史年表」を掲げておきます(口頭説明付きを前提にした乱暴なものだけれども…)。私の頭の中の喫茶店史では、年表の左欄と右欄とが等価に存している、これは今でも変わっていないのです。 https://t.co/YNSfBOn3pK pic.twitter.com/jR8iKYXHrx
— 鳥目散 帰山人 (@kisanjin) April 13, 2023
「喫茶店」をどう位置付けるかについては本当にいろいろで、コーヒーを提供する店とするか、茶店の系譜を汲む軽飲食中心店とするか、イギリスのコーヒーハウスやフランスのカフェに対応する訳語として捉えるか、他にもいろんなスタンスがあって、それによりルーツの考え方も変わる。
— Y Tambe (@y_tambe) April 14, 2023
これは最初の喫茶店論や最初の缶コーヒー論などでよくある話なのだが、「本格的な最初」論は、当時の多様な形態や系譜のそれ自体が示すものを取捨するというよりも、何をして「本格」とするかという概念の規定で断ずることが多い。どんな実態だったかと、どう評価するのかとは、同じではない。 https://t.co/pCPEy5wYpF
— 鳥目散 帰山人 (@kisanjin) April 14, 2023
承前)パンの会が会合を開いたメイゾン鴻巣とかはその逆で、ガワの方は、カフェではなく洋食屋で、そこにフランスのカフェに集まるような文人が集ったかたちで、そこからプランタンなどの銀座カフェにつながっていく。
— Y Tambe (@y_tambe) April 14, 2023
承前)アメリカのコーヒーハウスは、欧州のものをベースにしてはいても、文人たちが集まる場所という側面よりも、パブリックスペースという役割から発展してきた点がある。
— Y Tambe (@y_tambe) April 14, 2023
可否茶館は、1967年5月に東京都杉並区阿佐ヶ谷南2-42-1 阿佐ヶ谷ゴールド街が開設されたことにより、鄭 永慶の孫と小菅の2人で営業を再開しました。可否茶館は、阿佐ヶ谷ゴールド街の建て替えに伴い、2011年8月31日に閉店しました。
可否茶館 記念碑
2008年(平成20年)4月13日、可否茶館生誕120周年に、その跡地とみられる東京下谷区上野西黒門町二番地(台東区上野1-1-10 三洋電機東京ビル(閉業))に記念碑が建立されました。この記念碑は、2016年のオリックス上野1丁目ビル竣工に伴い、現在のものに建て替えられました。
今日は #喫茶店の日 だと浮かれている皆さまへ。「喫茶店という混沌」を示しておきます(過去記事)。前篇・後篇・続篇・外篇・新篇と5本あります。https://t.co/Rguqp87fY2https://t.co/1tPXzJ9wGWhttps://t.co/NYM4lKmyiVhttps://t.co/dZu6PiSHD7https://t.co/7iTYF2IOe0
— 鳥目散 帰山人 (@kisanjin) April 13, 2021
喫茶店ジャンルにしろカフェージャンルにしろ、その名称・区分・機能・役割を論ずるとき、後付けの解釈が大きく影響するわけだが、線引きしきれない曖昧さも特徴であろうことを忘れてはならない。高尚に社会性を訴え過ぎても、卑俗に風俗性を説き過ぎても、個々の実像を歪めるリスクがある。
— 鳥目散 帰山人 (@kisanjin) September 23, 2022
<参考>
喫茶店という混沌 前篇 - 帰山人の珈琲漫考:https://kisanjin.blog.fc2.com/blog-entry-1215.html
喫茶店という混沌 後篇 - 帰山人の珈琲漫考:https://kisanjin.blog.fc2.com/blog-entry-1216.html
純喫茶考 - 帰山人の珈琲漫考:https://kisanjin.blog.fc2.com/blog-entry-1300.html
可否茶館 - Hajime Saito:https://note.com/replicorn/n/nbfbab3e919e4
日本初の喫茶店、鄭成功一族の末裔と関係 - 台北駐日経済文化代表処:https://www.roc-taiwan.org/jp_ja/post/43967.html
【4月13日の話】初の喫茶店「可否茶館」を開いた男、「鹿鳴館を超えろ!」の夢 - Smart FLASH:https://smart-flash.jp/sociopolitics/138939/1/1/
自宅焼失、投資で大損…日本最古の喫茶店・可否茶館を作ったある男の物語【喫茶よもやま通信 vol.1】 - 中村 英里:https://tekutekuretro.life/yomoyama01/
日本最初の喫茶店「可否茶館」 - プチホテル Villa R&T北軽井沢:http://www.villarandt.com/cafeshop1.html
日本で最初の喫茶店「可否茶館」を開いた鄭永慶 シアトルに眠る- 井谷善惠の世界:https://nippon-porcelain.com/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A7%E6%9C%80%E5%88%9D%E3%81%AE%E5%96%AB%E8%8C%B6%E5%BA%97%E3%80%8C%E5%8F%AF%E5%90%A6%E8%8C%B6%E9%A4%A8%E3%80%8D%E3%82%92%E9%96%8B%E3%81%84%E3%81%9F%E9%84%AD%E6%B0%B8%E6%85%B6/