ニューカレドニアのコーヒーの歴史 カナク独立運動とコーヒー作戦(カフェ・ソレイユ)
江戸 淳子 『ニューカレドニア カナク・アイデンティティの語り』
江戸 淳子 『ニューカレドニア カナク・アイデンティティの語り』は、著者の25年にわたるニューカレドニア研究の集大成である。ネーション(政治的共同体)、共同体(原初的領域)、文化(文化共同体)の3層から、いかにしてカナク(Kanak)のアイデンティティが形成されたかを考察している。この大著から、コーヒーに関する記述を抜粋してみよう。
他方、ヨーロッパ人入植者のコミュニティにおいては、流刑囚は刑期を終了しても耕作のための土地が与えられた者は少なく、多くは生きるための手段を自ら見つけなければならなかったのに対して、自由移民は 25 ヘクタールの自由保有の土地を供与された。 1890 年代の自由移民奨励策においては、 1895 年から 1902 年にかけて 525 家族がグランド・テールに移住し、牧畜やコヒー栽培などの農業に従事した。その子どもたちはまもなく流刑囚の数を凌駕し、ヨーロッパ人は 1887 年には 1 万 7000、 1901 年には 2 万 3000 と増大したが、土壌は農業に向かず、 19 世紀末にはヨーロッパ系移民の 3 分の 2 近くがヌメアに移り住んだ。こうした開拓の困難さから、この 525 の家族のうち、最終的に定住したのは 300 家族で、ヨーロッパ人の人口は 1900 年代から 20 年代には減少したという(Connell 1987: 93, 97)。ここから、こうした入植者の子孫は、ブルスのカルドシュとヌメアのカルドシュの 2 つに分岐したと言えよう。
江戸 淳子 (2015)『ニューカレドニア カナク・アイデンティティの語り――ネーションの語り・共同体の語り・文化の語り』,明石書店.p.56
*「コヒー栽培」は「コーヒー栽培」の誤植だと思われる。
バイイによれば、土地占拠はとりわけ多くのクランの土地が入植者に領有された東海岸地域では、谷から谷へ、ボワンディミエからトゥオへ、そしてイヤンゲーヌへと伝染病のように広がり、ニューカレドニアは揺れ、白人たちは神経質になり、緊張が高まるにつれ、カナクを撃ち始めたという(2/11/98)。とりわけ独立運動が激化していった 1984 年から 86 年にかけては、双方の間のエヴェヌマンと呼ばれる流血事件が相次ぎ、イヤンゲーヌでのカナク虐殺を招いた。ヨーロッパ人の入植が 1890 年代フェイエ総督によって推進されると、そのコーヒー栽培のため、イヤンゲーヌの谷間の麓では、カナクは土地を次々に剥奪されてリザーヴの中に閉じ込められていった。チバウの故郷であるティアンダニートのトリビュも、山間の上へと追いやられ、その下の谷間沿いに隣接するカルドシュの入植地までその領域を削減されていった。さらに、 1917 年のコネ南部でノエルによる反乱が起こると、チバウの息子によれば、フランスの憲兵や軍隊はノエルやチバウのクランを含め同盟関係にあったウアイルー、ブーライユ、カナラのトリビュの全てのカーズに火をつけ土地を破壊し、父の祖母はこの反乱によって殺され、トリビュも取り壊された。また土着民体制下の夫役として、コーヒー豆の収穫の季節になると、入植者はシェフにそれを告げて、摘んだ豆を入れる袋を道の端に置いていったという。カナクは、カルドシュのコーヒー園だけでなく、彼らの馬の世話や木を切ったり、家を作ったり、道路工事にただ働きしなければならず、もし働きに行かなければ憲兵がシェフを弾劾し、人々を捕まえに来た。カルドシュは家畜を放し飼いにしていたので、カナクのヤムイモ畑を荒らし、入植者とカナクの間には多くの暴力や略奪があったが、ヨーロッパ人に対して敵意を見せることはできなかった。投獄されるからだ。それゆえ、土地返還要求が始まったのだ。カルドゥシュにとってカナクとの関係は都合よかったかもしれないが、カナクにとっては「我々の土地が(奪われて)、彼らの土地になった」のだ(E. Tjibaou 30/8/2007)。
江戸 淳子 (2015)『ニューカレドニア カナク・アイデンティティの語り――ネーションの語り・共同体の語り・文化の語り』,明石書店.p.142-143
一方、当初なによりも政治的独立を優先事項としていた闘争方針から、経済社会開発の権利要求を前面に押し出し、経済的力を得ることをカナク独立への足掛かりとする戦略上の変化が 1980 年代に見える。 1983 年 UC の会議では、カナクがニューカレドニア経済の不可欠な要素として経済的力を取得して、カナク社会主義独立のための政治力を獲得できるよう、活動家たちにその戦略的転換の変更を要求している(L'Avenir Calédonien No.896, 9/11/83: 4)。ファビウス計画の下で、地方分権化による 3 地域を支配下に置いた 1985 年 11 月の第 4 回ウンジョ(Oundjo)の FLNKS 会議では、経済開発戦略の枠組みの中で、各地のローカル・コミュニティは自給自足とその組織化を目標としなければならないとしている(FLNKS 1987: 5)。当時の UC のローカル活動家によれば、米や、たくさんのキャッサバ、ヤムイモ、タロイモを植え、オレンジ、コーヒーの木を植え、豚や鶏を飼育し、独立の準備をした。というのも、独立が実現したら、パンを買うお金がないからだ(7/9/2005)。つまるところ、草の根レヴェルで地元の社会経済を活性化する、食料自給自足計画で、これによってカナク社会内部の経済的自立を高め、外部の経済市場との節合を図ったと言えよう。
江戸 淳子 (2015)『ニューカレドニア カナク・アイデンティティの語り――ネーションの語り・共同体の語り・文化の語り』,明石書店.p.160-161
*UC=Union Calédonienne、FLNKS=Front de Libération Nationale Kanak et Socialiste
フレイスによれば、クランやシェフリ(首長国)の社会集団による生産は、贈与交換に置いてグループの自給的生活維持のためだけでなく、政治戦略のための物質的手段となっていると指摘している。具体的には、グループ間で行われる結婚などの贈与交換は、招待するクランや参加者数から、数日にわたるその食事の量まで、数年前から計画されて、その余剰生産が決められる。なぜなら、カナクにとって、「プレスティージとは与えることであり、多く至るところで与えることである」(Tjibaou 1981: 87)ので、交換の量が慣習政治における重要な賭けとなる。分かち与えない者は、悪く見られ、魔術の対象となるゆえ、この行動規範が再分配を決め、個人の物質的蓄積の可能性は制限され、交換における循環がカナクの生産を決めるとしている(Freyss 1995: 262-264)。このため、交換において主要な贈与品となる農業産品の 10% 近くが、狩猟と漁業産品の 4 分の 1 以上が、贈与にかかわっているという(Bouard & Sourisseau 2010: 272)。一方、市場経済への参入のための収穫や生産するためのカナクの動機づけに対する障害としては、こうした文化的価値観のみならず、労働力と収入のおける採算性とその見返りとしての報酬に合わないという理由もある。給与や年金はカナクの現金収入の 3 分の 2 を占めているが、それと比較すると商品作物の栽培はその 10% しか占めず、コーヒー栽培などは手間がかかり若者は興味を持たないという。その結果、根菜作物を食料や贈与交換のために栽培するが、土地生産から金を得ようとは期待しないと、フレイスは述べている(Freyss 1994: 19, 20, 22)。
江戸 淳子 (2015)『ニューカレドニア カナク・アイデンティティの語り――ネーションの語り・共同体の語り・文化の語り』,明石書店.p.256
ニッケル鉱山が発見されて以降、ニューカレドニアにはフランスやアジア、ポリネシア移民が急増した。他方でで、インドネシアのジャワ島移民の多くは、コーヒー栽培のためにニューカレドニアへとやってきた。
インドネシアからのジャワ島出身者は、コーヒー農園や鉱山で働くために到来し、 1896 年から 1911 年にかけて約 1200 人が移住し、そのピーク時の 1939 年には 9000 人に達したが、第 2 次大戦後は減少し、 1950 年代には 5000 人を数えた(Connell 1987: 98-99)。
江戸 淳子 (2015)『ニューカレドニア カナク・アイデンティティの語り――ネーションの語り・共同体の語り・文化の語り』,明石書店.p.538
インドネシア労働者階級は、その誕生より現在に至るまで、最も過酷で残忍な搾取に苦しめられてきた。労働者たちは、搾取者が示す条件がどのようなものであれ、搾取機構の中に入っていかざるをえなかった。さらに多くの場合には、支配階級は腕ずくで人びとを徴募し、強制労働か奴隷のように彼らを酷使した。何十万という人々が、嘘言や暴力や誘拐によって罠にかけられ、オランダ帝国主義者の手で、西インド諸島、ニュー・カレドニア、太平洋諸島、マダガスカル、南アフリカ等々といった世界各地に売りとばされた。第二次対戦中には、何百万人という人びとが同じ手口で日本帝国主義者の魔手に陥り、最悪の労働条件の下で奴隷として働かされるためにアジア各地へ送り出された。
カワン・アナンタ (1982)『インドネシア革命史序説 PKIの敗北とインドネシア永久革命の研究』, 蒼野 和人訳,柘植書房.p.102-103
一般的にニューカレドニアの産業について語られるとき、そのほとんどがニッケルを巡るもので、コーヒーについて触れられることはほとんどない。『ニューカレドニア カナク・アイデンティティの語り』では、「第 2 部 共同体の語り」の「2)鉱山開発をめぐる環境権と経済権」等でニッケルについて触れられているが、コーヒーに関する記述は数少ない。
ニューカレドニアのニッケル鉱業は、1864年にジュールス・ガルニエ(Jules Garnier, 1839 - 1904)がニッケル鉱物を発見したことに始まった。1876年に、彼はニューカレドニアのニッケルの産業開発に関する特許を申請し、ヌメア(Nouméa)のポワント・シャレ(Pointe-Chaleix)に最初のニッケル工場を設立した。その後、1880年のル・ニッケル社(SLN)(Société Le Nickel)の設立に参加した。
19世紀の高品位のニッケルが少量採掘された時代に始まり、20世紀に入ると、品位の急落から出鉱が増加していった。戦後に出鉱が激増し、1970年代にニッケルブームを迎えた。ニューカレドニアの一次産業において、輸出の約80%(1980年代後半)を占めるニッケル産業は、ル・ニッケル社(SLN)がその精錬を独占しており、多額の補助金を受けていて、ニューカレドニアとフランスは経済的に深く結ばれていた。ニューカレドニアの初期の植民地化においてはコーヒーが重要な産業であったように、後期の植民地化においてはニッケルが重要な産業であったと言える。
現在、ニッケル鋼石は世界で安く手に入り、核実験は終了し、フランスの軍事的重要性はアフリカにある。そのためフランスにとって、フランス領ポリネシアとニューカレドニア(メラネシア)の相対的重要性は低減している。その一方で、ニューカレドニアはフランスから多額の補助金を受け取る恩恵を受けている。
カナク独立運動とニューカレドニアのコーヒー産業については、19世紀後半から第二次世界大戦までの植民地支配と、様々な国からやってきた移民による多民族社会の原型の形成に大きな役割を果たした。大戦後のカナクのフランスへの同化政策による政治的環境の形成や1970年以降の独立運動の本格化の時期は、コーヒー産業が衰退しており、役割を果たしていない。つまり植民地化と独立運動の発生原因となったが、結果には寄与しないために、起源(歴史)は忘却され、政治が生き延びたとも言える。
「これはわれわれにとっては本当のことだ。しかしあなたたち白人にとってはそうではない」
歴史的な出来事を前にした場合の彼らの態度はまったく異なっている。たとえば百五十年以上前に白人たちがニューカレドニアにやって来たときの出来事は特徴的である。その出来事は現在の人々の経験には属していない。それは別の時代の別の人々に関係することなのである。だたし織った布、ある習慣、ある情景、ある物語などといったその時代に属するものがいろいろ残っているので、それはまったく手のとどかない時代というわけではない。しかし細かい点はずいぶん落ちてしまっている。現地はナ・タネウイという。われわれはそれを能動的に「彼らは忘れた」と訳すが、実はその意味は、「それは不透明さのなかにある」ということである。その出来事は、深い水の底のように見とおせない不透明さのなかにあるというのである。カナク人の視線は、深い水の層を見とおせないのと同様に歴史の厚みを見とおすことができない。そこで長い時間が過ぎて白人たちに適応すると、新しい諸事実に対する慣れが歴史を消去してしまう。そうして歴史は、構成される以前に、すでに物語として断片化してしまう。神話までもが登場してきて歴史をとらえてしまう。たとえば火の神話では、交易品の酒を飲んでいるすきに燃えさしが盗み出されたことになっている。こういう次第で、私は白人の到来というこれほど重大な出来事に関して、正しい意味で歴史的な資料を蒐集することができず、伝説しか見つけられなかったのである。若者たちは自分の言語に入りこんだ外来語を気にとめず、年寄りたちの話をじっくり聞いてみようともしないし、耳を貸そうともしない。彼らは、老人たちは何もかもすっかり変わってしまったとくりごとをいっているぐらいにしか思わないのである。若者たちは自分たちの時のなかにいて、老人たちもまた自分たちの時のなかにいる。若者たちにとっては世代間の継承はなく、世代はただ積み重なって闇のなかに遠ざかっていくだけなのである。過去も歴史も、すべてこのような、新たに始まっては繰り返し、置き変わっていくという観念に置き換えられてしまう。現地人たちはそれを、ヒレアマナという副詞で言いあらわす。これは「長いあいだ、そしてまたあらためて長いあいだ」ということで、いってみれば、山また山、地平線の向こうにまた地平線、というようなことである。
モーリス レーナルト(1990)『ド・カモ メラネシア世界の人格と神話』,坂井 信三訳,せりか書房.p.153-155
カナク独立運動とコーヒー作戦(カフェ・ソレイユ)
ニューカレドニアのメラネシア人は、フランスによって植民地化された後、最初はカレドニアン(Calédonien)と総称されたが、ヨーロッパ人がやってくると彼らがカレドニアンと称したために、今度はネオ・カレドニアン(Néo-Calédonien)となり、さらにカナック(Canaque)、それからアンディジェーヌ(indigène)、そしてオトクトーヌ(autochtone)、最後にカナク(Kanak)へと変化した。
カナック(Canaque)は、ハワイ語で「人」を意味する「カナカ(Kanaka)」から派生して生まれた名前である。1850年代にカナカは、メラネシア人の総称として、Kanak、kanack、canack、canaqueなど様々なスペルで宣教師、行政官、入植者、民俗学者、作家などによって記されており、最初は中立的表現であったが、やがて侮蔑的意味を持つようになった。1969年から始まった独立運動のメラネシア人リーダー、ニドイシュ・ネスリーヌ(Nidoïsh Naisseline)が、この言葉を逆手に取り、自ら「我々はカナックである」と主張し始めた。その際、CからKへ綴りを変換することで、言葉に「力」を持たせた。
1968年のパリ五月革命の熱狂に触れたカナク留学生が解放指導者となり、1970年代から80年代にかけて運動が過激化したが、1988年のマティニヨン合意(英語:Matignon Agreements、フランス語:Accords de Matignon)と1998年のヌメア合意(英語:Nouméa Agreements、フランス語:Accords de Nouméa)の2度の合意による和解を経て、カナクの権利回復と政治的権限をフランスからニューカレドニアへ段階的に移譲することで、政治的権限を両者で共有していくことになった。
住民投票を定めたヌメア合意に基づき、2018年と2020年に行われたニューカレドニア独立住民投票は否決されたが、2021年12月に3回目の住民投票が行われる予定である。
フランス人によるメラネシア人諸部族の伝統的な土地の大量奪取は、有名な一八七八年の「カナクの反乱」の原因となったが、フランス官民によるカナクの土地奪取はその後も続き、ニューカレドニア本島(グランド・テル)では、一八九〇年にはカナクの土地は総面積の六・七七%にすぎなかった。
一九一七年に起こったカナクの反乱を契機に、過去に奪った土地をカナクに返還する動きが、ようやく芽ばえはじめた。それが一九三〇年は前記のような数字*となってあらわれた。
しかし、農地改革の問題がニューカレドニアにおいて、フランス政府の政策として採り上げられるに至ったのは、一九七〇年頃から次第に強まっていた独立運動が、一八七八年の「カナクの反乱」の百年記念という形で、一九七八年から独立闘争の最大の目標として、土地奪還をかかげたからであったといえよう。
*一九三〇年ー四五年 五、一四七ha
一九四六年ー六四年 一七、九六一ha
一九六四年ー七八年 一一、九六七ha
西野 照太郎(1986)「新段階を迎えたニューカレドニア」p.32
カナクの反フランス蜂起は、カナクの土地の収奪と保留区(Réserve)への収容が主要な原因であり、歴史的にコーヒー栽培が大きな役割を果たしている。しかし、カナクには食料自給の伝統的な経済社会が存在するために、彼らの反乱は都市の周縁に追いやられた貧困層による蜂起としてではなく、まず第一に政治的尊厳を求める要求として考えるべきである。
1978年にニューカレドニア当局とフランス・コーヒーとココア研究所(IFCC)(Institut Français du Café et du Cacao)が協定を結び、「コーヒー作戦(L'opération café)」(または、「カフェ・ソレイユ(Café soleil)」)と呼ばれる政策が始まった。フランス・コーヒーとココア研究所(IFCC)は、ポンエリウーアン(Ponérihouen)に実験所を設置し、東海岸のさまざまな場所、主にカナクの領域で活動区画が設置された。
1978年にコーヒー作戦(カフェ・ソレイユ)が考案されたとき、カナクの経済的危機と彼らの民族意識と政治意識の高まりによる経済的・政治的自治の要求が高まっていた。フランス政府は、この政治危機を封じめることが急務となった。
ニューカレドニアのコーヒー生産は1965年に最盛期を迎え、生産量2.600トンのうち2,000トンが輸出された。ニッケルブームを迎えた1970年代から1980年代にかけて、生産量は減少していった。ニッケルブームの時期には、鉱山での賃金がはるかに魅力的だったこと、人件費がかかること、過剰生産による国際価格の変動が、コーヒー生産の減少の原因となった。さらに、世界経済が不況に突入したことで、経済的な危機と同時に、より根源
的な政治的な危機が生まれた。1970年代後半のカナクの民族意識の高まりが、独立の要求へとつながっていった。
ニッケルブームの時期、ジョルジュ・ポンピドゥー(Georges Pompidou)大統領は、カナク独立運動の締め付けと少数民族化政策を行なった。旧フランス植民地やフランス海外県からの移民が急増し、カナクは相対的に少数派に転落した。ヌメアは投資や開発が進んだが、カナクのほとんどが従事する農業は停滞し、カナクは周縁に追いやられた。コーヒー産業の停滞もこのような背景があった。
まずは、畜産業と協同組合が発展し、1975年に内陸部と島嶼部の開発のための援助基金(FADIL)(Fonds d'aide au développement de l'intérieur et des îles)が設立され、保留区での事業に資金を提供する仕組みが導入された。農村政策委員会は、1975年にコーヒー生産量の大幅な減少の原因を、コーヒー農園の老朽化、手入れされていないシェードツリーに求め、生産手段の改装と近代的な栽培技術の導入により、コーヒー産業を復活させることに決定した。
1978年に、当時海外領土および県の国務長官(Secrétaire d'Etat des Territoires et Départements d'outre-mer)であったポール・ディジュー(Paul Dijoud)がニューカレドニアを訪れ、「ニューカレドニアの長期的な経済的および社会的開発計画(Le plan de développement économique et social à long terme pour la Nouvelle Calédonie)」を提案した。この計画では、カナクのヌメアへの流出を防ぐことと、農村地域での雇用の創出に焦点を当てた。そして、コーヒーが農村地域での経済発展の原動力として用いられることとなった。
この計画は、ニューカレドニアで最初の農地改革である。カナクのコミュニティの歴史的権利を尊重する目的で土地問題を解決することを提案し、4つの目標を設定した。
- できる限り、伝統的な空間をクラン(氏族)に返還すること。それがなければ、クランは慣習に従って完全な生活することができないからである。
- 自分たちの土地に住み、働く入植者の地位を強化すること。
- 希望するカナクには、保留区外でも民法の枠組みの中で農家になれるようにすること。
- 再配分された土地の開発を促進すること。
コーヒー作戦(カフェ・ソレイユ)では、シェードなしで栽培できるロブスタ種の新しい品種が導入された。カナクが「カフェ・ソレイユ(Café soleil)」と呼んだその品種は、フランス・コーヒーとココア研究所(IFCC)が、1966年からニューカレドニアで実施した試験によって採用された品種である。
1911年にコーヒーさび病菌(Hemileia Vastatrix)が東海岸のアラビカ種に壊滅的な被害を与えた後、ロブスタ種はコネ(Koné)やプオンブー(Pouembout)といった、西海岸の沖積土が豊富な低湿度の谷で栽培されるようになった。
ロブスタ種の栽培は、1911年から1931年にかけてカナクに徐々に広まりったが、1932年に行政に通達が出たことで普及することになった。それによると、一家の長は一家の人数にしたがって、500本ずつをコーヒーノキを植える必要があった。これはカナクを市場経済に統合するための措置であり、1931年末から1934年にかけて、保留区で植えられた面積は、900ヘクタールから2,000ヘクタールに増加した。
カナクによるコーヒー栽培の躍進にもかかわらず、コーヒー生産は主にヨーロッパ人入植者による換金作物であり、彼らはカナクよりも効率的で労働集約的な生産を行なっていた。しかし、1948年のコーヒーノミキクイムシ(Phanoderes Hampei)による作物の荒廃、戦後の土着民体制の廃止により、ヨーロッパ人入植者のプランテーションは深刻な人手不足に直面し、彼らのコーヒー生産は大幅に減少することとなった。
1984年に2,300ヘクタール以上あったシェードツリーを用いたコーヒー栽培から、シェードツリーを使用しないコーヒー栽培に焦点が移った。この政策は、カナクのコーヒー農家が3ヘクタールで集約的なコーヒー栽培を行い、1ヘクタールあたりの平均収量を旧来のコーヒー農園に比べて5倍にすることで、1ヶ月あたり5万CFPフランの、最低賃金をわずかに上回る金銭的収入を得られるようにするというものであった。
政治や行政は、2,000ヘクタールにコーヒーノキを植えること計画したが、実際にはうまく実行されなかった。カナクは、1家族あたり平均0.34ヘクタールの非常に小さな区画しか要求せず、その小さな面積にもかかわらず、除草剤または手作業による除草、肥料の使用、間作などの適切な管理を行わなかったため、必要な収穫量を得ることができず、コストが想定を上回ってしまい、この政策は大失敗に終わった。
1955年から1975年にかけて、ヨーロッパ人入植者によるコーヒー栽培面積は、3,200ヘクタールから900ヘクタールに減少したが、カナクのコーヒー栽培の減少はそれほど顕著ではなく、3,100ヘクタールから2,100ヘクタールになった。このことから、1970年代初めに、ニューカレドニアのコーヒーはカナクの文化となった。しかし、その時点で樹齢25年を超えるコーヒーノキの収穫性の低さ、カナクの慣習に由来する栽培面積の小ささから、より広い面積を必要とするコーヒー栽培が利益を上げることはなかった。さらに、都市部でのニッケル鉱業の労働や一時的な出稼ぎによって、保留区よりも高い生活水準や給料を得ることができたため、コーヒー作戦(カフェ・ソレイユ)への参加は、保留区外での労働を待つ間の一時的な仕事とみなされた。そのため、彼らは日陰での栽培よりもより労力を必要とし、彼らにとって新しい栽培慣行を取得するため多大な努力を必要とするカフェ・ソレイユへほとんど投資しなかったのも驚くべきことではない。
カフェ・ソレイユは、カナクの伝統的な社会活動とは相容れない栽培習慣であった。一方で、カフェ・オンブラージュ(日陰でのコーヒー栽培)は、カナクの他の社会活動との競合が少ないため、栽培習慣を完全に破壊するカフェ・ソレイユよりも、カナクにうまく溶け込むことができた。果物やコーヒーノキなどの多年生植物を植えることは、土地の管理に影響を与え、生活様式を変える必要が生じる。カフェ・ソレイユは、土地を集団的な利用から個人の利用へと変化させるが、ヤムイモのような伝統的な食用作物との矛盾や競合が生じ、期待通りの成果は得られなかった。