ニューカレドニアのコーヒーの歴史(7):戦争と後遺症
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ニューカレドニアのコーヒーの歴史 戦争と後遺症

戦争と後遺症

第二次世界大戦後、ニューカレドニアのコーヒー生産は急速に崩壊していった。戦時中の1940年には、すでに他の産業に労働者が取られ、コーヒーの輸出先はオーストラリアやニュージーランドに限られていた。1943年から1944年には、アメリカ軍の駐留により生産されたコーヒーがすべて軍によって消費されたため、輸出するコーヒーが不足した。しかし、アメリカ軍の駐留により新たな経済可能性が生まれ、建築や商取引など、人々は容易に利益を得ることができる労働に従事した。コーヒー農園や牧場は放棄されたことにより、戦後にはかなりの修復作業が必要となった。

また、1887年から始まった「土着民体制」が事実上廃止されたこと、アジア移民の労働契約が終了したことが、ニューカレドニア経済の慢性的な問題であった労働力不足に拍車をかけた。これは家族労働と相互扶助を基盤とするカナクには影響を与えなかったが、ジャワの労働者に依存していたヨーロッパのプランターが経営するプランテーションには深刻な影響を与えた。人件費が高騰し、コーヒーから利益を上げることができなくなったため、多くの入植者はコーヒーへの関心を失い、畜産へと移行していった。

また、カナクは、居住の自由を得て集団間での結束を不安定化させたことにより、コーヒー栽培への関心を失っていった。鉱山や都市に魅了された若者たちはカナクの慣習に反発し、女性や高齢者を養うためにコーヒー栽培を放棄した。1950年にコーヒーの輸出が戦前の水準にまで戻り、コーヒー価格安定化基金が設立された1957年には、戦後最高の2,206トンを記録した。しかし、これは島の人口増加に伴い、輸出統計から漏れた地元の消費が決定的に増加しているためで、実際にはわずかな発展傾向を示しているに過ぎない。

ニューカレドニアでは、アラビカ種の収穫は5月から7月、ロブスタ種の収穫はそれよりも遅い9月から11月に行われる。コーヒー生産には、収穫時に多くの季節労働者が必要となる。だが、ニューカレドニアには、労働者の一時的な移動を可能にするような土地の広さも人口もないため、現地から少ない労働者を採用するか、外国人の契約労働を雇う必要があった。ジャワやニューヘブリディーズ諸島の労働者は、コーヒー生産に必要不可欠な要素となった。

戦後、新たな秩序が生まれた。生産量減少の前に、まず影響が出ていたのは賃金の上昇だった。1875年から1895年まで、コーヒー1キロの価格で、自由入植者の3日分、あるいは契約労働者の6日分を賄うことができたが、1939年には1日半の労働と毎日の食費、1965年には1日の賃金の4分の1にしかならなかった。カナクの労働者不足は、1930年代のカナクでのコーヒーの普及と並行して顕在化し始め、自由居住権はそれをさらに深刻にすることになった。カナクの生活の改善、交換経済の発展、購買力の増加、若年層と年長者の軋轢が、カナクの慣習社会からの脱出を促した。

グランド・テール島で、作物の3分の1を土地所有者に、3分の2を労働者に分配するメタヤージュ(Métayage)が広く普及したのは、戦争の1つの結果であった。メタヤージュは、初期の頃は主にインドネシア人の労働力に依存する大規模プランテーションで採用されていたが、労働者の欠勤に悩まされていた。その後、小規模な土地に拡大し、広く普及していった。そして何よりも、コーヒー生産の半分を担っていたジャワ人労働者を土地に留めておくことで、社会的な振興を図ることができるというメリットあった。

品質の低下

1964年から1965年のアラビカ種(横線)とロブスタ種(縦線)栽培

ニューカレドニアのコーヒーの品質の低下は、ロブスタ種の普及と生産者の意識の低下によって起こった。ロブスタ種の導入はコーヒーさび病菌の流行による不可避的な変化であったが、もっと深刻だったのは、この品質低下が、収穫や精製といった生産過程にまで及んでいたことだった。入植者たちは、「偉大なことを共同で行う」という開拓者精神に支えられた世代であった。コーヒーは希望というよりも象徴であり、その品質は互いの手本となるような誇りであった。

ロブスタが導入されてから15年後、カナクにコーヒーが普及したことで、2度目の品質低下が起こった。経験不足、設備の欠陥、そして管理者が全くいないとは言わないまでも不足していることが、この新たな衰退の原因となった。第二次世界大戦後、入植者のコーヒー農園では、その衰退が顕著になった。戦時中、人々はコーヒーへの関心を失っていた。このように、入植者がより収益性の高い活動に目を向けるようになったのと同時に、メタヤージュはこの新しい時代の要求にぴったりと合致した。

1948年以降、ロブスタ種が被害を受けやすい新しい害虫、コーヒーノミキクイムシ(Stephanoderes Hampei)の出現により、新たな問題が発生した。戦後、汚染された豆によって持ち込まれたと思われる害虫は、数年間の滞留後、猛威を振るった。

このような苦難の末に、ニューカレドニアのコーヒー生産は、非常に厳しい状況に陥った。輸出されるコーヒーの中で最高の品質であると格付けされるエクストラ・プリマ(Extra-Prima)が減少し、これまで求められた高品質なコーヒーは凡庸なものに成り下がった。そして、フランスの保護貿易に終止符が打たれたことが、更なる追い討ちをかけた。

保護貿易とコーヒー価格安定化基金

1930年まで、フランスは新大陸、特にブラジルと中央アメリカからコーヒーを調達しており、フランス植民地から輸出されたコーヒーの評価は低かった。1930年以降、ニューカレドニア、特にアフリカの海外植民地でのコーヒー生産が盛んになったため、フランスは商業政策を変更した。フランス海外植民地のコーヒーは優遇措置を受けるようになり、徴収された税金によって賄われる植民地で生産されるコーヒーへの補助金を非課税枠に加えた。この保護政策によって、フラン圏でのコーヒー生産は人為的な発展を遂げ、主にアフリカ諸国の影響で、一定の品質のコーヒーが慢性的に過剰生産されるようになった。ニューカレドニアでは、ロブスタ種栽培がカナクの間に広まり、グランド・テール島を制覇していった時代である。

1960年以降、フランス植民地の相次ぐ独立による構造変化とヨーロッパ統一への方向性は、重大な変化をもたらした。1962年9月28日に国際連合の枠組みの中で、生産国の輸出割当を規制する目的でニューヨークで調印された国際コーヒー協定(ICA)(International Coffee Agreement)は、ニューカレドニアのコーヒー生産に直接的で大きな影響を与えなかったが、同年12月20日にブリュッセルで調印された海外諸国の共同市場への加盟に関する条約については事情が全く異なる。この協定はそれまでの取り決めに代わって、フランスの保護主義を疑問視し、フランスの価格を世界の価格に合わせることを定めていた。

 実は、この共同体の優遇措置は、関連する海外諸国の熱帯製品の関税を第三国から来る製品に比べて下げることで、6カ国の市場への参入を促すというもので、非常に脆弱なものだった。一部の加盟国による一方的な措置によって削減の範囲は限定され、関税の30%に達する削減が顕著なものとなり、対外共通関税の最初の概算によって関連する海外諸国にとって関心のある割合にまで引き上げられたのは1962年のことであった。

 ローマ条約第136条は、実行条約が1962年12月31日に失効した際に、連合の将来的な取り決めを決定するための手順を定めたものである。しかし、アフリカ諸国とマダガスカル諸国が独立したことにより、EEC加盟国のみを対象とした第136条に規定された手続きはもはや踏めず、1961年12月6日にパリで開かれた共同体加盟国と関連国の閣僚会議による交渉を経て、連合の新規約が採択された。

 1年以上続いた交渉は、新しい連合体制を定めた文書の発効により、1962年12月20日にブリュッセルで終了した。この第2条約は、1963年7月20日にヤウンデで、EEC6カ国とアフリカおよびマダガスカルの18カ国の代表が最終的に署名した。この日、EEC委員会のウォルター・ハルシュタイン会長は、「今日は、先進国と発展途上国の関係の長い発展の中で、歴史的な節目となる日である」と述べた。

A la vérité, cette préférence communautaire, qui consistait à favoriser l' entrée des produits tropicaux des pays d'outre-mer associés sur le marché des Six par l' abaissement des droits de douane sur ces produits par rapport à ceux venant des pays tiers, a été très faible. Les mesures unilatérales prises par certains Etats membres en ont restreint la portée et ce n'est qu'à partir de 1962 que les abaissements de droits de douane, en atteignant 30 %, ont été sensibles et que le premier rapprochement du tarif douanier commun a contribué à porter le niveau des préférences à un taux intéressant pour les pays d'Outre-Mer associés.

Le Traité de Rome avait fixé, dans son article 136, la procédure selon laquelle devaient être arrêtées les modalités ultérieures de l'association lorsque la Convention d'application arriverait à expiration, le 31 décembre 1962 . Mais, par suite de l' accession à l'indépendance des Etats africains et malgache, la procédure prévue à l'article 136, qui ne faisait intervenir que les Etats membres de la C. E. E. , ne pouvait plus être retenue et c' est par une négociation ouverte le 6 décembre 1961 à Paris par une réunion de Ministres des Etats membres de la Communauté et des Etats associés, que fut arrêté le nouveau statut de l'association.

Cette négociation, qui a duré plus d'un an, s'est achevée le 20 décembre 1962 à Bruxelles, par le paraphe des instruments qui fixent le nouveau régime d'association. Cette deuxième Convention a finalement été signée le 20 juillet 1963 à Yaoundé, par les représentants des six pays de la C. E. E. et des dix-huit Etats africains et malgache . A cette occasion, M. Walter Hallstein, Président de la Commission de la C. E. E., a déclaré : « La date d'aujourd'hui marque une étape historique dans la longue évolution des relations entre les nations industrialisées et les nations en voie de développement ».

"N° 73 - Sénat",p.5

フランスへ輸入されるコーヒーの関税は18%から9.6%に引き下げられ、より激しい市場の競争にさらされるようになった。さらに高い品質への要求は、フランスのコーヒー市場への参入障壁をより高くした。1948年に公布されたニューカレドニアのコーヒーの欠点数に基づくグレードの分類は、生産条件の改善に関しては疑問符の付く政策であった。

ニューカレドニアのコーヒーは、フランス市場で長い間、有利な条件の恩恵を受けることができた。1955年以降、危機の深刻さが増していく中で、支援策は増えていったが、補助金と技術支援に基づく支援の原理は変わらなかった。1957年には、他の海外領土と同様に、領土予算を財源とするコーヒー価格安定化基金(La caisse de stabilisation des prix du café)が設立された。この基金は、原価に応じて設定され、高等弁務官の命令によって定められた現地価格とフランスの市場価格との差額を補うためのものだった。これにより、生産者に支払われる価格をより高いレベルで安定させることが可能になり、フランスの市場価格は変動の影響を受けずに済んだ。なお、この価格支持を受けることができたのは、エクストラ・プリマ(Extra-Prima)とプリマ(Prima)規格のみだった。

1966年の初めには、東海岸を中心に害虫の大規模な駆除作業が行われ、領土議会はアラビカの栽培条件を調査するためにハワイへの旅費を出資した。質と量の低下を食い止めるのに十分ではなかった補助金行政から、技術支援と農学研究に力を注いだ。しかし、ニューカレドニアのコーヒー生産の衰退は、単純な労働力や技術の問題ではなく、もっと深い根を持っていた。生活水準の向上、アメリカの侵攻による生活様式の変化、さらに交通手段の発達に伴い、それまで執拗に閉鎖的であったこの島が開放されたことで、古い慣習を破壊し、それまでの脆弱な安定性に残酷な打撃を与えていた。カナクの鉱山や都市部への流出、畜産の発展、世代間の対立によって、これまでの古い経済基盤が損なわれた。

このように、ニューカレドニアにおけるコーヒーの問題は、一般的な現象の局所的な現れに過ぎず、実際には植民地政策と経済の終わりを意味していた。植民地化の基盤となった社会秩序は19世紀に生まれたものであり、戦後の構造変化によって解決できない問題に直面した。コーヒー生産の「偉大な野望」は失われ、現状の不安定さに加えて、その将来への不確実性を残した。

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