ニューカレドニアのコーヒーの歴史(6):ポール・ジョバンとアーヴル・カレドニア組合(SHC)

ニューカレドニアのコーヒーの歴史 ポール・ジョバンとアーヴル・カレドニア組合(SHC)

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アーヴル・カレドニア組合(SHC)

ニューカレドニアは、1890年頃ル・アーブル(Le Havre)に初めてコーヒーを輸出した。当時コーヒーの関税は半額であった。ポール・フェイエ(Paul Feillet)によって大規模なコーヒー生産が始まっていたが、1892年にフランスに導入されたメリーヌ関税は、植民地貿易の妨げとなった。輸送を担っていたメサジュリ・マリティム(Messageries Maritimes)によるコーヒーの出荷量は、1894年の110トンから、1898年には304トンにまで増加した。1909年から1912年の間の出荷量は、350トンから650トンの間で変動し、1939年にピークを迎え、戦後の1947年の出荷量は1,225トンだった。

ニューカレドニアのコーヒー生産の増加した要因には、ニッケル鉱山とクロム鉱山の不規則な開発、コーヒー栽培に適した土地と気候の2つが挙げられる。さらに、フランス植民地のコーヒーの関税が全面的に免除されたことと、1913年にアーヴル・カレドニア組合(SHC)(Société Havraise Calédonienne)が設立されたことが大きな要因として挙げられる。

アーヴル・カレドニア組合(SHC)は、ポール・ジョバン(Paul Jobin)によってヌメア(Nouméa)に設立されたニューカレドニアのコーヒー輸出業者である。ポール・ジョバンのポール・ジョバン社(La Maison Paul Jobin & compagnie)は、広告の折り込みチラシによれば、1865年にル・アーブル(Le Havre)に設立されたとされるが、ポール・ジョバン(Paul Jobin)は死の直前に会社の簡単な沿革を書いており、それによれば1871年にゴダール(Godard)とボッケ(Bocquet)というルーアンの2人のコーヒー商人によって設立されたのが最初らしい。1880年に社名が「ボッケとルロワ(Bocquet et Leroy)」となり、1890年には「ルロワとドゥモワネ(Leroy et Demoinet)」と変更された。 この2人は、経理担当としてポール・ジョバンを雇った。

1900年に、会社はル・アーブルに移転した。ル・アーブルのドックや倉庫には、活況を迎えていたブラジルのコーヒーを中心に、インド、グアドループなどの400万袋のコーヒーが溢れていた。当時ル・アーブルは、フランスにコーヒーを輸入するための主要港で、その多くは1846年に作られたル・アーブル自治港ドック・デュ・カフェ(Docks du Café)を通関していた。

ポール・ジョバンは約3,000人の顧客を抱えていた。彼らは小さな村落に散らばる小さな食料品店ばかりで、店の前の歩道で焙煎しているところを見ることができたようだ。1911年にポール・ジョバンは、パリで焙煎業を営んでいたマルティニーク出身のアルモガム(Armogum)という人物が「ブルボン」、または「レユニオン」という名前の、しかし実際にはニューカレドニア産の高品質なアラビカ種を販売していることを発見した。

ドゥモワネが3ヶ月間この植民地を訪れた後に、ジョバンはそれまでフランスではほとんど知られていなかったニューカレドニアのコーヒーの宣伝するための広告キャンペーンを始めた。遠く離れたこのフランス植民地からコーヒーを入手するためには、ヌメアに子会社を設ける必要があることがわかった。1913年にポール・ジョバンは、1873年に設立されたヌメアのヒュエ社(Huet)(前マエストラッチ社(Maestracci))の経営権を取得し、彼はこれをアーヴル・カレドニア組合(SHC)(Société Havraise Calédonienne)とした。

ポール・ジョバンは、ニューカレドニアのコーヒーと入植者による栽培の発展に寄与し、1932年にレジオン・ドヌール勲章を受章した。彼は1940年に亡くなり、その後会社は一人息子のモーリス・ジョバン(Maurice Jobin)に引き継がれた。彼は1947年に、ル・アーブルでロブスタ種の先物市場の創設に加わった。

モーリス・ジョバンの息子のフィリップ・ジョバン(Philippe Jobin)は、1949年に父親の会社に加わった。時彼は順調に昇進し、1969年に父親が退任した後、社長に就任した。当時ネスカフェを運営するネスレやマックスウェル・ハウスを運営するゼネラル・フーズなど、大手の多国籍企業が市場を寡占するなか、フィリップ・ジョバンはフランスに高品質なコーヒーを紹介することで、新たな市場を開拓した。より品質の高いコーヒーを輸入する必要性を感じていたフィリップ・ジョバンは、1971年のエチオピアから1989年のパプアニューギニアまで、40カ国以上の生産国を訪問し、それまでヨーロッパではほとんど知られていなかったコーヒーを、ごく少量ながら持ち帰った。ラテン・アメリカの言語に堪能な妻のジュヌビエーブ・ジョバン(Geneviève Jobin)の助けを借りて、最高級コーヒーのマイクロロット、特にエチオピア、ハイチ、イエメン、中央アメリカ、ケニア、パプアニューギニアの輸入に注力した。

1982年に、フィリップ・ジョバンは『世界で生産されるコーヒー(原題:Les Cafés produits dans le Monde)』を出版し、品種とその生産地を紹介した。この本は1987年に、フランス語、英語、スペイン語の3カ国語版で翻訳された。彼はスペシャルティコーヒーの最初期に知られた存在となり、1991年にはティー & コーヒー・ジャーナル(Tea & Coffee Journal)で、「メン・オブ・ザ・イヤー。(Men of the Year.)」に選ばれた。

フィリップ・ジョバンの活動は、スターバックスに対抗したサードウェーブのマイクロロースターたちの早い実践のように見える。さらに彼の高品質なマイクロロットを求める活動の発端は、ポール・ジョバンのニューカレドニアのコーヒーに遡ることもできるだろう。

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フランスへのブルボン・ポワントゥ(ルロワ)の輸出

ブルボン・ポワントゥ(ルロワ(Leroy))は、1875年頃レユニオン島からニューカレドニアに持ち込まれたと考えられる。だが、ルロワの普及は、ポール・フェイエの自由植民地化の試みから始まった。その後、ドチオ(Dothio)、ナンバイユ(Nimbaye)、イヤンゲヌ(Hienghène)など、グランド・テール島の東海岸のほとんどのコーヒー生産地域では、ルロワが既存のアラビカ種を上回って栽培されるようになった。しかし、1911年のコーヒーさび病菌の流行で大きな被害を受け、ティンデア(Tindéa)やオート・クアウア(Haute-Kouaoua)といったターブル・ユニオ山塊(Table-Unio)の麓の、地理的に限定された場所に残るのみとなった。ルロワの輸出は、1942年にレユニオン島からフランス本土に輸出されたのが最後の記録となり、それは永久に姿を消してしまったものと思われた。しかし、ルロワは1967年の段階で、「現実のものというよりも、遺物である(Plus qu'une réalité, c'est une relique.)」と報告されており、ニューカレドニアの地元の通(つう)によって消費される世界最高品質のコーヒーとして評価されていた。

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ロブスタ種とレジオン・ドヌール勲章

フランスの植物学者オーギュスト・シュヴァリエ(Auguste Chevalier, 1873 - 1956)は、フランス領ウバンギ・シャリ(L'Oubangui-Chari)の森に自生する丸豆を持ち帰った。ル・アーブル植民地実習学校(EPC)(l'École Pratique Coloniale du Havre)に届けられた一部の豆は、コートジボワールに向けて出発する学生に託された。彼らはロブスタ種の最初のテスト・サンプルを送ってきて、ポール・ジョバンが評価を担当した。こうして植民地では、高地で栽培されるアラビカ種に加え、低地で栽培されるロブスタ種が栽培される種に加わった。ロブスタ種の栽培を広めたポール・ジョバンの努力は、フランス領西アフリカでも活かされた。1932年にポール・ジョバンはコーヒー文化の発展に寄与したことが評価され、レジオン・ドヌール勲章を受章したが、これは彼がロブスタ種の発展に貢献したことが大きい。

先ほど行ってきた中央アフリカへの旅行を機に、アフリカの野生のコーヒーノキの研究を再開し、その栽培状況を調査した。 これらの新しいコーヒーノキについて述べると、フランス領西アフリカだけでなく、フランス領赤道アフリカでも大きな改善が必要である。 我々が最近行った観察によると、改善された集約的な栽培というよりも、拡散的な栽培である。 国際競争が非常に大きくなり、熱帯農業の進歩が非常に効果的になり、商業がよく選択された上質なコーヒーだけを受け入れるようになる日は、間違いなく近づいてる:他のコーヒーはもはや販売されない; それらはもはや買い手が見つかることはないが、人為的な手段によって保護される可能性はある。(Le voyage que nous venons de faire en Afrique centrale nous a amené à reprendre l'étude des Caféiers africains sauvages et à examiner l'état dans lequel est leur culture. Disons de suite que ces Caféiers nouveaux ont grand besoin d'être améliorés aussi bien en Afrique Equatoriale qu'en Afrique Occidentale Française. C'est bien plutôt d'après les observations que nous avons faites récemment, une culture extensive qu'une culture intensive améliorée. ​Il viendra sans doute un jour proche où la concurrence internationale sera si grande, où les progrès d'agriculture tropicale seront si effectifs que le commerce n'acceptera plus que de beaux cafés bien triés : les autres ne se vendront plus; ils ne trouveront plus d'acheteurs, si protégés qu'ils soient par des mesures artificielles.)

Auguste Chevalier(1951)"Les Caféiers de l'Oubangui-Chari et du Congo français et l'amélioration de leur culture."p.353-354

オーギュスト・シュヴァリエは、上シャリ(Haut-Chari)でエクセルサ種(Coffea excelsa A.Chev.)を発見したが、このエクセルサ種はその後淘汰され、現在はほとんど栽培されていない。

このコーヒーノキは、1903年にオーギュスト・シュヴァリエ氏によって、標高500m以上の地域の拠水林に入る上シャリで発見された。 この標高では、コーヒー生産する場所としてますます重要性を増している;その栽培はインドシナと同じようにマレーシアにも広がっている。 丈夫で、病気に耐性があり、生産性が高く (良質な土壌では、商品化可能な収穫量は1ヘクタールあたり最大1500kgに達することができる。)、素晴らしく、率直で、十分に鋭い味のコーヒーを提供する 、/エクセルサは最も起伏に富んだ地形に適応し、海抜1,400mで繁栄する。それは偉大な栽培と偉大な未来の植物である。 その発見の価値はいくら誇張してもしすぎることはなく、それはコーヒーの歴史で日付を記すものであり、その著者の著名な科学者に最高の名誉を与えるものである。(Ce Caféier, trouvé en 1903 par M. Auguste Chevalier dans le Haut-Chari où il entre dans la composition des galeries forestières des régions situées à plus de 500 m. d'altitude, se classe de plus en plus comme producteur de café; sa culture se répand tant en Malaisie qu'en Indochine. Robuste, résistant aux maladies, d'une grande productivité (dans les bonnes terres fumées le rendement peut atteindre jusqu'à 1500 kg. de café marchand à l'ha.), donnant un café de goût agréable, franc et suffisamment nerveux, /'Excelsa s'accommode des terrains les plus variés, prospère au niveau de la mer comme à 1400 m. d'altitude. C'est une plante de grande culture et de grand avenir. On ne saurait exagérer la valeur de sa découver te, elle marque une date dans l histoire du café, et fait le plus grand honneur à V eminent savant son auteur.)

Auguste Chevalier(1929)"Comment s'est comporté le Coffea excelsa au Brésil"p.23
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