ニューカレドニアのコーヒーの歴史(5):フェイエのユートピアからムニエのディストピアへ

ニューカレドニアのコーヒーの歴史 フェイエのユートピアからムニエのディストピアへ

コーヒーの繁栄と衰退

1919年から1965年までのニューカレドニアのコーヒーの輸出量

1920年から第二次世界大戦の前夜まで、収穫の不規則性から生じる毎年の変動は別として、コーヒーの生産量は着実に増加した。30年代に入ると急速に生産量が増加し、第二次世界大戦の前夜に生産量はピークを迎えた。上の輸出量のグラフからは、1930年の700トンから1939年の2,350トンまでコーヒー輸出量が急増し、戦時中にほぼ消滅するのが見て取れる。

1930年代以来のコーヒー生産量の増大の決定的な要因は、1925年以降に政府が公式にコーヒー栽培に乗り出し、コーヒー栽培がカナクの間に急速に拡大したことだった。1928年の時点で、ニューカレドニアは952トンのコーヒーを輸出しており、フランスの植民地下では、マダガスカルに次ぐ2番目の輸出量だった。

ニューカレドニアは当時アラビカ種とロブスタ種を生産しており、ニューカレドニア産の高級アラビカ種はモカに匹敵する高品質のコーヒーとして知られていた。また、ニューカレドニアでロブスタ種が栽培されるようになってから、歩留まりは悪いが味は改善したとも報告されており、ニューカレドニア産のロブスタ種は、ジャバ・ロブスタよりも高品質なものとして知られていた。

カナクのコーヒー栽培それ自体は、新しい現象というわけではなかった。一部の地域では、入植者がカナクの地域でコーヒー農園を設立するため、コーヒーの苗木を探すこともあった。これは1893年に入植者がオート・ファタヌエ(Haute-Fatanoué)のカナクからコーヒーノキを購入して以来、特にヴォー(Voh)で見られたことだった。ヴォーのコーヒーはおそらく、東海岸のイヤンゲーヌ(Hienghène)またはワガプ(WagapまたはOuagap)から伝えられたものである可能性が高い(1)。

フェイエはカナクを貨幣経済に統合するためにコーヒー栽培を推奨したが、その夢は道半ばで終わった。コーヒーに限らず、ニューカレドニアで換金作物による植民地開発に成功したのは、憲兵隊の大尉であり、土着民経済管理(Le service des affaires indigènes)の長官、ギュスターブ・ムニエ(Gustave Meunier)である。

ギュスターブ・ムニエ

ギュスターブ・ムニエは、1931年にニューカレドニアにやってきた。彼は、傷病兵として送還された第一次世界大戦の退役軍人であった。モロッコと7年間フランス領ギアナに滞在していた彼は、ニューカレドニア植民地の状況を素早く把握することができた。彼はニューカレドニアの先住民であるカナクを「近代化」するための政策を作り上げた。

1887年に始まったニューカレドニアの「土着民体制」は、1900年からはグランド・テール島の農村地帯を管理する憲兵隊に引き継がれた。そのためこの時点では、憲兵隊の大尉であるムニエがカナクの指導的立場となった。

1931年から1934年まで在任したムニエは、1925年から1932年までニューカレドニア総督であったジョセフ・ギュイヨン(Joseph Guyon)が、カナクの社会的・経済的状況を改善するために始めた「新しい先住民政策(Nouvelle politique indigène)」の主要な立役者のひとりで、保留区でのコプラやコーヒーの生産を発展させたり、また彼らに公的教育の門戸を開いたりした。

ムニエはコーヒーの生産に関するすべてを整理し、成文化し、規則化した。彼はコーヒー生産を促進するために、カナクに必要資材の輸入と農業技術を指導した。彼はカナクが彼の政策に同意する限りにおいて彼らを保護し、同意しない場合には彼の政策を「強制」した。カナクは彼らの住居である丸い藁小屋を燃やし、その土地でコーヒー栽培をすることを強制された。もし従わない場合は、カナクの小屋は強制的に燃やされ、カナクは刑務所へ送られた。

グランド・テール島の北から南まで憲兵隊が動員され、カナクは憲兵隊の厳密な監視の下に置かれた。憲兵隊のそれぞれの旅団は成果評価され、コーヒーを栽培するカナクは成果次第で報酬が与えられるか処罰された。

カナクの貨幣経済への統合

カナクを貨幣経済へ統合することを目的に、1930年頃からニューカレドニアでは、カフェ・オンブラージュ(Café ombrage)(木陰栽培のコーヒー)を積極的に推進していった。カナクは保留区でのコーヒー栽培を強制された。このコーヒー栽培はカナクによる自由意志に基づくものであるという建前だったが、実際は憲兵の監督の下で強制されたコーヒー栽培であった。

カナクはタロイモやヤムイモなどイモ類を栽培する堀棒耕作の農耕民で、彼らの伝統的な生活様式はコーヒー栽培とは相容れないものだった。しかし、「カフェ・オンブラージュ」での労働は、1年または2年に1度の剪定と雑草の刈り取りなどの清掃、収穫が必要とされる集まりに近い比較的楽な労働であったため、この栽培方法はカナクの間である程度成功を収めた。科学的な方法によらない、野生のまま放置するようなコーヒー栽培方法では、コーヒー栽培は収穫期のみ栽培地に入ればいいため、これはカナクの伝統文化を親和性の高いものだった(2)。

1934年にはカナクは2,000ヘクタールでコーヒーを栽培し、コーヒー生産量が増加したおかげで(入植者は同時期に2,800ヘクタールでコーヒーを栽培していた)、多くのカナクは当時としてはそれなりの金銭的収入を得ることができた。コーヒー栽培はカナクにとって重要な収入源となった。この当時の政策は、カナクのコーヒー栽培を促進したため、入植者のコーヒー栽培と競合することとなった。

1920年から第二次世界大戦の前夜までの約20年は、ニューカレドニアの転換点となった。カナクを貨幣経済に統合することで、彼らを経済的に支配し、伝統的な生活文化を変えた。これは戦後の社会的、あるいは政治的な混乱を用意した。

第二次世界大戦の前夜に、コーヒー生産量は最大2350トンに達した。 しかし、遠からずやってくる戦争はコーヒー生産の衰退をもたらし、その輸出を困難にした。

慣習主義と資本主義

コーヒー栽培の範囲

1952年、南太平洋委員会(La Commission du Pacifique Sud)とイギリスのキャドバリー社(Cadbury)は、ゴールド・コースト(Gold Coast)の元農務局長D・H・アーカート(D. H. Urquhart, Duncan Hector Urquhart)を、フィジー諸島に派遣し、人口30万人のイギリス領フィジー諸島でカカオの工業栽培が可能かどうかを調査した。アーカートはフィジーに6週間ほど滞在した。任務を終えた彼は、ニューカレドニアに向かい、コーヒーノキの栽培条件とその発展を研究した(3)。

アーカートの調査結果は、1953年にニューカレドニアの農林局長であったP・サーリン(P. Sarlin)のコーヒーノキに関するレポートとともに発表された。

この「ニューカレドニアのコーヒー栽培(La culture du Caféier en Nouvelle-Calédonie. )」というレポートでは、ニューカレドニアのコーヒーの現状と改善方法が報告されている。当時のコーヒー生産の拡大は鈍く、労働力不足とコスト、相応しい気候条件のもとでコーヒー栽培に適した土地がないことであった。さらにニッケル鉱山に労働力が集中しているため、ニューカレドニアのコーヒーのほとんどはカナクによって栽培されていた。コーヒー生産の60パーセント以上がカナクによって供給されていると推定されており、農村における人口で優位にあるカナクにニューカレドニアのコーヒーの未来がかかっていると述べられている。労働力不足のために、一部の入植者は、作物の3分の1を土地所有者に、3分の2を労働者に分配するメタヤージュ(Métayage)という仕組みを採用していた。

しかし、そのためには、栽培の技術などで遅れをとるカナクに支援する必要があった。このレポートの「カナクを教育するのは我々の義務(C'est notre devoir de faire leur éducation.)」というオーギュスト・シュヴァリエ(Auguste Chevalier, 1873 - 1956)の前文や、「ヨーロッパからの入植者は、合理的な搾取方法を実践して道を示す近代プランテーション経営者という重要な位置を占め、土着民族が従うべき模範となり、彼らの水準を引き上げるだろう。(Le colon européen occupera la position importante du planteur moderne qui montre la voie en pratiquant des méthodes rationnelles d'exploitation, et sera un exemple que les indigènes pourront suivre, élevant ainsi leur niveau.)」というアーカートの記述は、植民地主義時代の西洋近代人の典型的な発想が見て取れる。

戦後に土着民体制が崩壊するまで、カナクは保留区(Réserve)で生活せざるを得なかった。これは国土の10%以下の土地でしかなかった。保護区の狭い範囲で自給自足の生活をしなければならなかったカナクは、彼らの慣習(Coutume)によって生存可能だった。

近代社会を生きる人々とカナクのような先住民族では、仕事のあり方が根本的に異なっている。カナク社会は、土地と密接に結びついた慣習があり、焼畑農業や漁業などによって人々の生活は成り立っている。カナクは、ヤムイモやタロイモ、バナナなどの生産に費やす時間を計算せず、余剰から利益を得ようとする発想がないために、捨ててしまったり、腐らせたりすることが多い。そして、わずかな余剰生産は社会的な交換を成り立たせるが、それは経済的な意味を持たない。

西洋人から見ると、カナクの乱雑な畑は、生産性を上げるために改善されなければならない貧困と同義として評価される。伝統を慣習とみなすとき、それは教育、改善、保護されるべきものとして積極的な介入の対象となる。低開発/開発、発展途上/発展、先進/後進の図式は、慣習主義(Coutumisme)/資本主義(Capitalisme)が土台にあり、資本主義にとって不合理な慣習主義は絶滅すべきものであるという実質を、貧困状態にある人々は教育、改善、保護されなければならないという倫理によって合理化するものである(フランス語の「クチューム(Coutume)」は「慣習」と訳されるが、これが資本主義体制から見て、その発展の弊害となるという非難の意味を含んでいることから、「因習」と訳すこともできるだろう)。

カナクにとって、ヤムイモのような伝統的な生活と結びついた作物は、彼らの家族的愛の一部となる。しかし、彼らの生活の外部にあるコーヒーは、積極的に世話をしようという動機付けを与えない。すぐに実りをもたらすわけではなく、必ずしも生産した場所で消費されるものではないコーヒーのような多年生植物の換金作物は、交換と贈与に基づいているカナクのような先住民族から(あるいは、それ以外の非西洋のコーヒー生産国においても)、利潤と蓄積に基づく近代社会の価値観を内面化させ、彼らの生活を作り替えるのにふさわしかったかもしれない。

 古いヤムイモは新しいヤムイモを生む。新しいヤムイモは男の肉を強化し、男の男らしさは世界を力づける。そして男が死ぬと、死は彼を土のなかに戻し、古いヤムイモ、すなわち彼の祖先たちとひとつにする。男の生の在り方のサイクルはヤムイモのサイクルのなかに包みこまれているのである。

 このサイクルという表現はメタファーだと思われるかもしれないが、そうではない。このサイクルは人間の在り方をヤムイモの上に投影したものである。人間は自分自身の在り方を知らず、それをとらえることができない。そのかわり彼らはヤムイモをあたかも劇場の暗がりのなかのスクリーンのようにして、そこに映って見えるイメージをとおして、自分の在り方を見て取るのである。彼らの目には、自分の在り方はヤムイモの在り方と同一のものである。そして自然とのあいだにある同一性について彼らが実感している深い感情が、このサイクルが現実と一致していることを追認する。

モーリス・レーナルト(1990)『ド・カモ メラネシア世界の人格と神話』坂井 信三訳,セリカ書房.p.112-113

 同様にメラネシア人もポリネシア人も、古い神話的枠組みを更新し、そこに新しい内容をもたらす宗教を求めたが、それも同じ心の動きからであった。かくしてメラネシアのキリスト教徒は、彼らの言語に古くからあるルシュワというひとつの語に、聖別、献身、信心、聖化といった諸観念を詰めこむ。この語はトーテムへの服従と交感に向かって、存在がまったく身を投げ入れることを意味するもので、訳すとすれば「トーテムする」とでもいったらいい語である。キリスト教的リアリティーは神話的な装いの助けで知性によって把握されたわけだが、その神話的装いは彼らを困惑させるものではない。というのも彼らは現実を把握しており、神話的装いをそのようなものとして見なしているからである。

 こうした熱狂のなかで、彼らが誤ったリアリティーをつかまえてしまうことも起こる。それは例えば、白人に同化の神話を吹きこまれたりする場合である。行政府に後押しされた酋長たちや憲兵たちは、きそって愚にもつかないことをしてカナクの美的感覚を破壊し、そのあげく兵営の芸術とでもいうべき、陳腐な俗悪さが幅をきかせることになってしまう。ある現地人は熱狂のあまり、昔からの耕作の習慣を捨て、現代的なやり方で、つまり賃金労働者を雇ってトウモロコシを栽培しようとした。彼は親族のものをときふせて、クーリーのような人々に仕立て上げようとしたのである。じきに彼はすっかり資本に行き詰まり、強力なプロレタリア階級をまえにあえなく破産した。彼はだまされたものの失望を味わったのである。

 こうした残念な事態ではあるが、われわれがさきに指摘したプロセスを経て認識が可能であることは明らかなので、認識の感激の価値は少しも減ずるものではない。メラネシア人が、解剖学的、生物学的真理を具体的に明らかにしてくれる解剖や、歴史的あるいは神話的物語にこめられた霊的啓示をまえにして経験する驚きを表現する仕方に耳を傾けてみるとよい。ノ・カ・ド・ノ、つまり「本当の言葉である言葉」と彼らは書いているのである。

モーリス・レーナルト(1990)『ド・カモ メラネシア世界の人格と神話』坂井 信三訳,セリカ書房.p.319-320

キリスト教の「救済」の観念は、ウワイル語の「ナウィ」という語で説明された。これは戦いの流血や災厄によって呪われた土地に小さな木を植えるという慣習を指す言葉である。レーナルトがカナクにコーヒー栽培を促したのは、この観念をより現実的なものにするためであったかどうかは定かではない。

国民/先住民族の問題系における国民は、近代以前の生活様式を捨て、近代人になることができた。しかし、先住民族は近代人になり切ることができなかった。これは伝統と生活の結びつきが、国民と先住民族で異なることが理由として挙げられる。国民において、伝統は好みによって選択される趣味として生き延びる。これは資本主義下の国民には、生活がないからであろう(伝統社会の人々には、生活があって労働がなく、資本主義社会の人々には、労働があって生活がないと言えるだろう)。しかし、先住民族の伝統は、生活と不可分な結びつきを有しているため、慣習は決して絶滅させられることはなかったのである。

(1)2010年に、ニューカレドニアコーヒーのエコ・ミュージアムが、ヴォーに設立された。

"WÉARI ! - À l'ombre des caféiers",CALEDONIA 2017年6月26日.

(2)これは、エチオピアにおけるセミ・フォレスト・コーヒーに近いだろう。

(3)アーカートは、1955年に『ココア(Cocoa)』という本を出版している。

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