ニューカレドニアのコーヒーの歴史(3):ポール・フェイエのユートピア
スポンサーリンク

ニューカレドニアのコーヒーの歴史 ポール・フェイエのユートピア

ポール・フェイエ

Paul feillet.jpg
ポール・フェイエ 出典:Wikipedia

ポール・フェイエ(Paul Feillet, 1857 - 1903)が、1894年4月21日にニューカレドニア総督に任命されたとき、彼はまだ37歳だった。1894年6月10日、この若い総督はヌメアに到着した。この場所の楽園のような穏やかな気候は、彼の持病の右坐骨神経痛には良いものだった。

彼はその後8年にわたってニューカレドニアを支配し、この国の歴史において非常に重要な時期を担うことになった。彼は自由植民地としてのニューカレドニアの先駆者となり、その国の生活と将来を大きく変えることになった。

ポール・フェイエは、1857年4月4日にパリ11区で、国防総省の管理下にある臨時郵便局の局長を務めた歴史家アルフォンス・フェイエ(Alphonse Feillet)とその妻ジュリエット・シャリエ(Juliette Charrier)の間に生まれた。 彼は大学で法律の研究をし、1882年にフランス内務省の行政職となる。彼はこの時からすでに、その思慮深さと高い管理能力が評価されていた。

フェイエはカトリックの家系だったが、ルーヴル美術館のプロテスタント教会(l'Oratoire du Louvre)の礼拝堂の牧師の娘であるマリー・ローラ・ルイーズ・ロニオン(Marie Laure Louise Rognon)と結婚したことによって、プロテスタントに改宗した。

フェイエは、セーヌ県(La Seine)知事ウジェーヌ・プベル(Eugène Poubelle, 1831 - 1907)の内閣官房長に任命され、この役職を4年間務めた後、1888年6月26日にグアドループの内務長官に就任した。彼の権威主義的な性格は、ここで災難をもたらした。1890年にフェイエは、彼に反感を持った地元選出の政治家キケロ(Cicéron)との決闘によって負傷した。彼はこの時に負った右坐骨神経痛に生涯苦しむことになった。

フェイエは、1891年にサンピエール島およびミクロン島(Saint-Pierre-et-Miquelon)の総督に任命されるが、この場所の靄と寒さの続く気候は、彼の持病には耐え難いものだった。これらの島々では、当時ジフテリアが流行していた。彼はこの疫病に対抗するために精力的な措置を講じた。伝染病対処の宣言、消毒、そして病人を隔離する措置のために、内務大臣の意見に反して高価な療養所を建設した。反発を招いた彼の強権的な対策はしかし、ジフテリアの死亡率を80%近く減少させたために、1893年11月7日に医学アカデミーの会合で高く評価されることになった。

ニューカレドニアの総督として

その後まもなく、ニューカレドニアの総督に任命されたフェイエは、彼の母親と妻、そして2人の子供、ジャック(Jacques)とジャクリーヌ(Jacqueline)を連れ立って、ヌメアにやって来た。彼が到着したとき、ニューカレドニアは洪水やバッタの被害に苦しみ、富の源泉であったニッケル鉱山は不況のために閉山していた。財政も赤字で、いわば破産の状態にあった。しかし、この国の温暖な気候、その経済的および農業的可能性を目の当たりにした彼は、それまでの国外追放者の流刑地から自由移民の国として、10年以内には再建できると考えた。彼は到着後すぐに立て直しを図り、1894年11月15日の第二回評議会でニッケル鉱山、畜産、コーヒー生産の繁栄の3つの柱に掲げた。他方で、鉱山や大規模プランテーションの開発には、かなりの資金が必要だった。

フェイエ以前のニューカレドニアの経済は、1863年以来の流刑者の労働による経済と、1880年以来のニッケル鉱山の2つの柱でなり立っていた。ニューカレドニアはそれまで流刑地として不当に評価されていたため、この国の開発のためにフランス本国や企業が資金を投じることはなかった。そこで彼が最も重視したのが、巨大資本を必要としない小規模農家によるコーヒー生産だった。

それはフェイエの理想とする「農村民主主義(La Démocratie Rurale)」を実現するのに、最適な産業でもあった。彼はこの国を、フランス本国とは異なった美しく民主的な南方のフランスとして再建可能であると考えた。ニューカレドニアは、フランスのアンティポデス(Antipodes)(対蹠地)といっていい場所に位置している。彼はフランスの真裏に位置するこの国で、フランスのような大都市主体の大きな政治とは反対の、地方主体の民主的で小さな政治を実現しようとしたのだった。

彼は測量学者エングラー(Engler)に調査させ、約15万ヘクタールの耕作可能な土地を見つけ、9万トンのコーヒーが生産可能であると推定した(しかし、これは調査に基づく現実的な計画というよりも、フェイエの単なる印象によって作られたものだった)。彼は新しい入植者ひとりひとりに土地を与えるために、これらの土地の区画整理を急いだ。

ニューカレドニアでのコーヒー生産は、入植者の定住を促す最初の方法だった。彼は不当に評価されていたニューカレドニアに関する正確な情報を広め、移住を促すためのパンフレットを作成した。そこではコーヒー栽培は、「最低資本金5,000フラン用意」 、「経費は最小限」、「相当量の作業」をすれば、「最も利益が上がる」仕事と喧伝されていた。コーヒー生産のための新しい入植者には、資本金として5,000フランとコーヒー生産のための25ヘクタールの土地が与えられた。

同時期に、ニューカレドニア農業組合(Union Agricole Calédonienne)の設立者で、ニューカレドニア開拓のパイオニアであったシャルル・ドゥヴァンベ(Charles Devambez)が、農業の仕事を望む新しい入植者の支援をしており、また、フランス本国では、ジョゼフ・シェレ(J. Chailley-Bert, 1854 – 1928)によって設立されたフランス植民地連合(L'Union Coloniale Française)が自由入植者を募集していたのもそれぞれ有利に働いた。

フェイエはまた、フランスの商船会社メサジュリ・マリティム(Messageries Maritimes)による海上輸送の整備、物資調達のための信用の供与、新しい入植者に与えられた土地への交通アクセス、選別した種子の分配など、入植者に対する手厚い補償を行った。

自由植民地の始まり

1895年の自由植民地化の開始から1889年までの4年の間に、約500の農園が設けられ、148人の若者、379の家族での移民がやって来た(しかし、彼らのうち約10%はフランスに帰国した)。また、フェイエの呼びかけによって、退官した役人、退役軍人、フランス本国に戻ろうとしていた入植者、または貿易業者の息子たちが定住するようになった。1902年のフェイエの辞任までには、「フェイエの入植者たち(Les Colons Feillet)」と呼ばれる532の家族がフランスから移住した。

重要なことは、彼らがフランス本国から強制的に送られてきた不名誉な人々ではなく、自発的な移民であるということだった。フェイエはニューカレドニアの人口の流れを変えた。こうして「新しい」カレドニアは、名誉ある健全な人々の集まりとなった。

他方で、耕作可能な新しい土地を生み出すためには、カナクの土地を整理する必要があったために、自由移民に土地を配分することは、先住民族のカナクから土地を奪うことを意味していた。フェイエのドクトリンは、次のようなものだった。法律では、ニューカレドニアのすべての土地はフランスの占有地であり、先住民族から土地を奪うことは、フランスが先住民族から土地を取り戻すことである。新しい入植はその周辺の土地に一種の付加価値をもたらし、先住民族も入植者の「隣人」となることによって容易に仕事を見つけることができ、彼らにとってもより有益な結果をもたらす...。

この政策は、特にコーヒー栽培に最も適した土地であった沿岸部に住んでいたカナクの被害を広げた。これは「大きな隔離(Le Grand Cantonnement)」と呼ばれている。

カナクは、入植者たちのために労働することを余儀なくされた。当時の労働契約の一例を挙げると、「受け入れたこの土地(300ヘクタール)と引き換えに、男女を問わず健常者の先住民族は、成人男性25フラン、成人女性15フラン、子供6フランの月額報酬と1日1kgの米の配給を受けて、1年のうち4ヶ月間、必要とされる労働者を提供することを約束する。(En échange de ce terrain (de 300 ha) qu'ils acceptent, les indigènes valides de tout sexe, s'engagent, moyennant une rétribution mensuelle de vingt-cinq francs pour les adultes hommes, quinze francs pour les adultes femmes et six francs pour les enfants, plus une ration journalière d'un kg de riz, à fournir pendant quatre mois de l'année les travailleurs qui leur seront nécessaires.)」、「若者については、10歳から、雇用主と家事労働者として5年間の契約を結ばなければならない。(Quant aux jeunes gens, à partir de dix ans, ils devront contracter (chez l'employeur) un engagement de cinq ans comme domestiques.)」、「すべての先住民族は雇用主のためだけに働くことができると理解される。(II est entendu que tous les indigènes ne pourront travailler que chez M (l'employeur) .)」

東海岸にあったフェイエの旧植民地の中心地であったニンベイ(Nimbaye)渓谷の河口のポンエリウーアン(Ponérihouen)

1895年から少なくとも1900年までは、フェイエの政策は非常に上手く機能し、ニューカレドニアの植民化はコーヒー栽培の拡大によって急速に進展した。もしコーヒーがなければ、ニューカレドニアがこのような急速な植民化を成し遂げることはできなかっただろう。コル・ダミュー(Col d'Amieu)の山腹に一台のピアノを持ち込んだ入植者がいたという。日の光に輝くこのピアノの音色が彼らの入植者の成功のシンボルだった。しかし、入植者たちは、彼らの資本を少しづつ消費していった。そして、1900年を境に、彼らの希望は急に幻滅に変わった。

フェイエの重大な誤りは、単位面積当たりの収穫量は少ないが、栽培に手間がかかり、より人手が必要なカフェ・オンブラージュ(Café Ombrage)(日陰栽培のコーヒー)を推進したことと1897年の流刑者の処罰制度の廃止による労働者不足との間の齟齬にあった。コーヒー生産は拡大してゆくが、1898年に流刑者の輸送が完全に終わり、深刻な労働者不足に陥った。人件費は4年間で2倍になった。ジャワ人やインドシナ人など、アジアからの数少ない契約労働者たちがやって来たが、まったく不十分だった(ニッケル鉱山開発のために、日本人が移民としてやってくるのもこの時期である)。

またこの時期、移民の増加によりブラジルのコーヒー生産が活況を迎えたことも、ニューカレドニアのコーヒー生産にはマイナスに作用した。ニューカレドニアのコーヒーの価格は、1895年の1キロ2.5フランから1903年には1キロ1.6フランにまで下落した。

フェイエの見通しの甘さは、彼がまったく予測できなかったこれらの出来事によって露呈した。1896年から1903年の間、コーヒー生産量は200トンから530トンまで、わずか330トンの成長があっただけだった。多くの農園は閉園に追い込まれ、入植者たちは仕事を求めてヌメアやニューヘブリデス諸島に流出した。

フェイエはユートピア主義者であったために、権威主義者でもあった(ユートピア主義者が権威主義者になるというのは、共産主義国で典型的に見られるパラドクスである)。彼はその権威主義的な性格とともに、迅速かつ正確な植民地計画を実現したいという欲求に動機付けられて、議会の権力を軽視した。彼が実現しようとした「農村民主主義」は、植民地総評議会とヌメアの市議会の強い反対にあった。彼の性急すぎる改革は、公的資金を消散させたと非難された。また、新たな入植者たちに与えられた土地は山の中腹や谷に置かれていたため、危険や行方不明者が絶えなかった。彼が露骨な権力でもって実行する計画は、議会や入植者たちはもとより、先住民族の保護を使命としたマリスト修道士たちの不満も招いた。

1902年、フェイエは激しいネガティブ・キャンペーンの最中、これらの失敗に責任があると考えて、ニューカレドニアを去った。1903年9月3日、彼は長年にわたってすでに彼が苦しんでいた非常に深刻な病気が原因でモンペリエで死亡した。その時、彼は名目上はまだニューカレドニアの総督だった。

フェイエの死の約10年後、1912年には彼の夢の終わりを迎えた。コーヒーノキは6,000ヘクタールにしか植えられず、コーヒー生産量は彼の計画を大きく下回った。「フェイエの入植者たち」は、立ち行かなくなっていた。

しかし、ニューカレドニアのコーヒー生産がすべて死に絶えたわけではなかった。フェイエは死んだが、彼が残したコーヒー生産の遺産はニューカレドニアにまだ生き続けた。

ニューカレドニアのコーヒーとパリ万国博覧会

ル・カフェ・ジューブ

ニューカレドニアのコーヒーは、1889年パリ万国博覧会(L'Exposition universelle de Paris de 1889)に出品され、非常に高い評価を受けたようである。また、1900年パリ万国博覧会(L'Exposition universelle de 1900)では、ル・カフェ・ジューブ(Le Café Jouve)がグラン・プリ(Grand Prix)を受賞し、その時のポストカードが数多く残っている。カフェ・ジューブとは、カナラにあったジューブ氏(M. Jouve)のコーヒー農園のことであると考えられる。

古いコーヒーノキは、若いコーヒーノキよりも大気の災害に対する抵抗力が強い。樹齢40年になってもまだ実を結ぶものもある。 カナラにあるジューブ氏の非常に美しいコーヒー農園で、その樹齢のものを見かけた。 低木は3年目まで実を結び始めない。5年目から6年目になると、本格的に実を結ぶ。

Les vieux caféiers résistent mieux que les jeunes aux fléaux de l'atmosphère. Il en est qui donnent encore du fruit à quarante ans. J'en ai vu qui avaient bien cet âge dans la très belle caféière de M. Jouve, à Canala. L'arbuste ne commence à fructilier que la troisième année. A partir de cinq à six ans, il est en plein rapport.

JEAN CAROL(1900)"LA Nouvelle-Calédonie MINIÈRE ET AGRICOLE",p.99

"En Nouvelle-Calédonie : Le Café",Carte Interactive des différentes Communes de Nouvelle-Calédonie:http://www.clocherobecourt.com/Robecourt/NC/Cafe.php

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事