コーヒーと土地改革
エルサルバドルの歴史はこの国のコーヒーの歴史と密接に結びついています。この国でコーヒーは「エル・グラーノ・デ・オロ(el grano de oro)」、つまり「黄金の豆 (the grain of gold)」と呼ばれていて、国の命運を左右するものでした。
長い間、エルサルバドルの主要な輸出品目はインディゴ(藍)でした。1880年代になるとコーヒーがインディゴの輸出量を上回り、国の発展のための重要な輸出作物となります。同時にエルサルバドルのエリートにとって、コーヒーは大きな富の獲得と支配の道具となります。
1881年と1882年にエルサルバドルで自由主義改革が起こり、国の土地所有権が劇的に変化します。国の土地は共有財産から私的所有へと移行し、人々は輸出作物などの特定の作物を栽培することで土地所有の権利を得ることができるようになりました。
エルサルバドルの先住民の共同体は一般的に共有地で耕作しており、個々に土地所有権を持っていなかったため、これらの改革は事実上エルサルバドルの人口の約半数を路頭に迷わせることとなりました。
この改革によって、「カンペシーノ(Campesinos)」という土地を持たない新しい階層が生まれました。しかし、別の法律で「放浪」が禁止されたため、彼らは劣悪な労働条件のもと奴隷のような賃金で、コーヒー、砂糖、綿のプランテーションでの労働を強いられることとなりました。
エルサルバドルを含む中央アメリカは長い間スペインの支配下にありました。1821年のグアテマラ総督領の独立に伴い、エルサルバドルもその支配から解放されます。スペインの支配から開放された中央アメリカ諸国は汎中央アメリカ主義的な「中央アメリカ連邦共和国(スペイン語: República Federal de Centro América)」を設立します。しかし、エルサルバドル派とグアテマラ派の内紛による分裂、再統合の試みなどが続き、1898年にはこの体制は崩壊します。
トマス・レガラード・ロメロ将軍
体制崩壊後の1898年、トマス・レガラード・ロメロ将軍(General Tomás Regalado Romero、任期:1898-1903)がエルサルバドルの大統領に就任します。彼とその家族は、エルサルバドルの6つの州に配分するための6000ヘクタールの土地を収用することに成功します。彼に続いた大統領たちは、エルサルバドルのコーヒー生産の拡大に成功し、富を築き上げました。
1920年代と1930年代には、コーヒーの輸出量は国全体の輸出量の90%を占めるまでになりました。しかし、この好景気は長く続きません。世界大恐慌に端を発する1930年代の世界的な不況により、好景気には賢明だった戦略は不況時には失策となりました。
コーヒー価格は以前の3分の1にまで低下し、労働者の賃金は低下するか、あるいは解雇されました。農村部での失業者が急増し、コーヒー畑は耕作放棄されます。農村部での不満は高まり、1932年1月に「エルサルバドル農民蜂起 (英語:The 1932 Salvadoran peasant massacre、スペイン語:Levantamiento campesino en El Salvador de 1932)」が発生します。この蜂起では、「ラ・マタンサ(La Matanza)」と呼ばれる虐殺で約3万人の農民が殺戮されました。
このコーヒーと農村部のプロレタリアートの強い繋がりは、1970年代と1980年代にはテロやゲリラ、内戦という形で再び姿を現します。
エルサルバドルのコーヒー産業は世界大恐慌後も生き残り、再び繁栄します。エルサルバドルは農園に最新技術とコーヒーの精製方法に洗練されたシステムを導入することで、コーヒーの先進国の一つとして知られることになります。
エルサルバドルでは土地所有とコーヒー生産においてはスペイン移民の子孫が、コーヒーの精製と輸出の分野ではイタリアとイギリスの移民がその地位を確立します。この流れはやがて、ラス・カトルセ家族(las catorce families、「14家族」)と呼ばれるエルサルバドルの少数のエリート家系を二つの派閥に分けることになります。つまり、低賃金労働によるプランテーション開発を行う土地所有貴族の古いタイプの支配者層と、エルサルバドルの経済を産業化し、世界経済に打って出ようとした近代的なコーヒー生産者と輸出業者の新しいタイプの支配者層です。
小規模生産者と労働者にとっては、コーヒーはほとんど唯一の生活手段でしたが、彼らは産業構造を変える力を持っていませんでした。彼らはやがて市場経済に飲み込まれ、農村部の農民から農村部のプロレタリアートへと変貌します。彼らは賃金労働者となったわけです。
1970年代までに、エルサルバドルは世界で第4位のコーヒー輸出国になります。しかし新旧の支配者層のどちらも、このコーヒーに関連する貧困と混乱に対処することに関心を示しませんでした。
内戦とエルサルバドルコーヒーの没落
このようにエルサルバドルのコーヒー産業は成長しましたが、1960年代から1970年代にかけて農村部での不満は高まりました。1969年にホンジュラスとの間で「サッカー戦争」が発生して以降、エルサルバドルの情勢は不安定になります。エルサルバドル国内での格差の拡大による階層の分化と内政の不安定化は、農村部を中心としたゲリラによる反体制運動を生むことになります。解放神学の教義に影響を受けた進歩的なカトリック聖職者たちは、農村部の解放のために協同組合を組織し、農村部の農民の支援を始めました。
エルサルバドルのエリート層、特にコーヒーで成り上がった貴族たちは、準軍隊的な様々な自警団を結成するか、あるいは国家警備隊を使って彼らの運動を弾圧しました。これらは「死の部隊(英語: death squads、スペイン語: escuadrones de la muerte(EM、暗殺部隊))」と呼ばれる極右テログループです。運動の指導者たちは殺害されました。この時に殺害された有名な指導者の一人が、エルサルバドルのカトリック司祭、オスカル・ロメロ(Óscar Romero)です。
一方でこの弾圧から逃れ、地下に潜った指導者たちは、「ファラブンド・マルティ民族解放戦線(英語:Farabundo Marti National Liberation Front (FMLN))」というエルサルバドルの共産主義化を目指す反米・左翼ゲリラに加わりました。アメリカは中央アメリカでの共産主義のドミノ効果(一国が共産主義化すると、その隣国もドミノ倒しのように次々に共産化するという理論の実現)を恐れて、1970年代後半から80年代に軍事援助と軍事顧問の派遣を強化し、ゲリラと対抗しました。当時のアメリカの合衆国大統領は「エルサルバドル死守」を外交の命題に掲げたロナルド・レーガン(Ronald Reagan、任期:1981-1989)です。
ロメロの死後、1980年になるとエルサルバドルは内戦状態に入ります。この1980年に行われた土地改革によって、何百ものコーヒー協同組合が設立され、コーヒーは高値で取引されるようになります。しかし、コーヒーで成り上がった貴族たちは暴力的な手段でこの改革に反対し、この土地改革に協力していた数百人の人々と2人のアメリカ合衆国の土地改革の専門家が「死の部隊」によって暗殺されます。このような暴力から、エルサルバドルのコーヒーは「死の部隊のコーヒー」として人権活動家からボイコットの対象になりました。
川島良彰とエルサルバドル
このような混乱の時期に、エルサルバドルに単身留学していたのが、「コーヒーハンター」として知られる現・「ミカフェート(Mi Cafeto)」代表のホセ(Jose.)・川島良彰氏です。彼の実家は「コーヒー乃川島」というコーヒー会社で、子供の頃から彼の身近にはコーヒーがありました。彼は駐日エルサルバドルのワルテール・ベケネ大使の仲介により、静岡星光学院高校の卒業式を待たずにエルサルバドルへと旅立ちます。1975年1月25日のことです。
川島氏はベケネ大使の紹介によってエルサルバドルの大学に入学しますが、彼の留学の目的はコーヒーの勉強です。そこで彼が門を叩いのは、国立コーヒー研究所(Instituto Salvadoreño de Investigaciones del Cafe(ISIC))という当時ブラジル、コロンビアの研究所と並ぶ世界屈指のコーヒーの研究所です。彼はこの研究所の唯一の研究生としてコーヒーについて学ぶことになります。
しかし、エルサルバドルの内戦は川島氏から研究の機会を奪います。また、彼の恩人であったベケネ大使は暗殺されてしまいます。ベケネ大使はラス・カトルセ家族の出身であったため、ゲリラの標的になったのだと思われます。その後、川島氏はエルサルバドルを離れ、その後は様々な国でコーヒー栽培に挑むことになります(このあたりは、川島良彰氏の著作『私はコーヒーで世界を変えることにした』に詳しいです)。
内戦の終結と復興
1980年代後半までに、コーヒー生産者や精製業者、輸出業者を含むエルサルバドルのモダニストエリートは、エルサルバドル経済の支配領域をさらに拡大し、多様化することを求めました。彼らは経済の新しい分野にも進出し、内戦の和解の交渉を押し進めました。グローバルな経済政策によってエルサルバドルの経済発展をさらに進めるためには、内戦を終結させる必要があったからです。
1989年になると、著名なコーヒー生産者であり銀行家でもあった右翼のモダニスト、アルフレッド・クリスティアーニ(Alfredo Cristiani、任期:1989-1994)が大統領に選出されました。彼はラス・カトルセ家族出身で、大学卒業後に医薬品やコーヒー、綿を扱う家族経営の会社で仕事をしていた人です。
アルフレッド・クリスティアーニは、エルサルバドルの内戦の和平交渉に成功した大統領です。1992年1月16日にエルサルバドル政府とファラブンド・マルティ民族解放戦線は、国連の仲介によって「チャプルテペック和平協定(Chapultepec Peace Accords)」を取り結びます。
内戦がエルサルバドルにもたらした被害は壊滅的でした。12年間におよぶ内戦で約5万5千人が命を失いましたが、この和平協定はこの国の未来の平和と繁栄を約束する新しい時代の到来を告げました(アルフレッド・クリスティアーニに関しては、マーク・ペンダーグラスト(Mark Pendergrast)の『コーヒーの歴史(原題:Uncommon Grounds: The History of Coffee and How It Transformed Our World)』に記述が見られます)。
内戦後のエルサルバドルは、絶対的な貧困、高い対外債務、低水準の教育といった、国の発展における様々な問題に直面します。そのような国にとって、コーヒーは社会全体に富を分配する手段となりました。
内戦中の1988年の時点でもまだ、コーヒーはエルサルバドルのGDPの約半分を占めていました 。1990年代までにコーヒー農園の78%と総面積の40%が小規模生産者に渡り、コーヒーは約15万5千人のエルサルバドル人に労働の機会を提供しました。 そして、コーヒーノキは森林破壊が進んだこの国の森林地帯の大部分を占めるようになりました。
エルサルバドルの政治は寡頭支配から文民政治へと道を譲りましたが、経済では新しい問題に直面することになります。1989年以降の「第一次コーヒー危機」と「第二次コーヒー危機」です。国際コーヒー協定(ICA)の経済条項(輸出割当制度)の停止に端を発する「第一次コーヒー危機」と、ブラジルとベトナムのコーヒー生産の大幅な拡大による「第二次コーヒー危機」は、コーヒーの市場価格を暴落させました。これによりエルサルバドルの8万人以上の小規模生産者と収穫労働者が職を失いました。
何千もの人々が職を求めて都市に雪崩れ込みました。彼らは路上の物売りや織物のスウェットショップ(Sweatshop、搾取工場の意味)で不法労働者として働き、不法占拠のコミュニティを住まいとしました。密航者はアメリカやメキシコに渡る越境の過程で、その多くが命を落としました。
故郷に留まった人々の現実は厳しいものでした。ユニセフは、コーヒー生産地域のアワチャパン(Ahuachapan)、ソンソナテ(Sonsonate)、サンタ・アナ(Santa Ana)、ラ・リベルタード(La Libertad)において、コーヒー危機により約3万世帯が飢餓に苦しんだと報告しています。 またエルサルバドルの保健省は、たった1年のうちにコーヒー生産者を両親に持つ5歳未満の子供4千人が栄養失調で病気になり、 52人の子供が亡くなったと記録しています。
コーヒー危機と協同組合運動
このコーヒー危機は、1980年の土地改革によって生まれた生産者組織や協同組合の運動を後押ししました。
エルサルバドルには、アメリカのフェア・トレード会社であるイコール・エクスチェンジ(Equal Exchange)が支援する2つのフェア・トレード組合があります。一つ目はエル・ピナル(El Pinal)で、エルサルバドルの前大統領ピオ・ロメロ・ボスケ(Pio Romero Bosque(任期:1927-1931))から収用したエルサルバドル南西部のラ・リベルタ県(La Libertad province)の土地に設立されました。
二つ目はラス・コリーナス(Las Colinas)で、エルサルバドル西部のアワチャパンに位置しています。アワチャパンはコーヒー危機から最も影響を受けた県の一つでしたが、2013年頃から中央アメリカで流行したコーヒーさび病菌の被害も深刻でした。
2013年頃から中央アメリカで広まったコーヒーさび病菌は、エルサルバドルに特に深刻な被害をもたらしました。中でもアワチャパンは風が強いため、被害がより広まったようです。エルサルバドルでは、このコーヒーさび病菌によって、80%のコーヒーノキが枯れる被害が出ました。
アメリカ全国協同組合(National Cooperative Business Association Clusa International(NCBA CLUSA))はこの深刻な被害からの立ち直りを目的として、アメリカ合衆国農務省(United States Department of Agriculture(USDA))の資金提供を受け、エルサルバドルのコーヒー再生プロジェクトを立ち上げました。
7,500人のコーヒー生産者、50の生産者組織と協同組合、政府機関と民間部門が、このプロジェクトから支援を受けています。さび病耐性の強い品種への植え替えや、低コスト技術の導入によって、エルサルバドルのコーヒー生産は着実に回復の兆しを見せています。
<参考>
川島良彰(2013)『私はコーヒーで世界を変えることにした』,ポプラ社.
「History of Coffee in El Salvador」,Equal Exchange<https://equalexchange.coop/history-of-coffee-in-el-salvador>
「Jan. 22, 1932: La Matanza (“The Massacre”) Begins in El Salvador」,Zinn Education Project<https://www.zinnedproject.org/news/tdih/la-matanza>
「El Salvador: USDA Coffee Rehabilitation and Agriculture Diversification」,NCBA CLUSA<https://ncbaclusa.coop/project/el-salvador-usda-coffee-rehabilitation-and-agriculture-diversification/>
「El Salvador: Coffee crisis - thanks to God and fair trade we're not starving」,reliefweb<https://reliefweb.int/report/el-salvador/el-salvador-coffee-crisis-thanks-god-and-fair-trade-were-not-starving>
妹尾裕彦(2009)「コーヒー危機の原因とコーヒー収入の 安定・向上策をめぐる神話と現実ー国際コーヒー協定(ICA)とフェア・トレードを中心に」,千葉大学教育学部研究紀要 第57巻 203~228頁<https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900066951/13482084_57_203.pdf>