ジャマイカ コールド・スプリングとマシュー・ウォーレン
マシュー・ウォーレン
コールド・スプリング(Cold Spring)は、ジャマイカ(Jamaica)サリー郡(Surrey County)セント・アンドリュー教区(St Andrew Parish)ニューキャッスル(Newcastle)に位置していた農園です。コーヒー生産地域としては、ブルーマウンテン・エリア(Blue Mountain Area)に区分されます。
マシュー・ウォーレン(Matthew Wallen)は、1746年にジャマイカにやってきました。彼はアイルランドの海軍士官であり、博物学者で、現在一般的なクレソン、タンポポ、リンゴ、ピーチ、イチゴなど、多くの植物をジャマイカの山岳地帯に紹介しました。彼はまた、お茶や竹も栽培していました。1748年、ロバート・フィリップ大佐(Colonel Robert Phillip)の娘であるキャサリン・フィリップ(Catherine Phillip)と結婚し、1749年から1759年の間に4人の子供をもうけました。キャサリンは、1762年に亡くなりました。マシューはその後再婚し、2番目の妻サラ(Sarah)との間にさらに2人の子供をもうけました。ウォーレンは、ポート・ロイヤル教区(Port Royal Parish)の議会議員でした。
ウォーレンは、セント・ジョーンズ教区(Saint George Parish)に2つのコーヒー用地を所有していました。その2つとは、300エーカーのコールド・スプリング(Cold Spring)と、そこから数マイル離れたウォーレンフォード(Wallenford)で、ウォーレンはこの土地に彼の名前をつけました。
コールド・スプリング
ウィリアム・ヒッキー(William Hickey)は『回想録』(原題:Memoirs of William Hickey)(1776年)の中で、コールド・スプリングの名前の由来を「岩の裂け目から出る、驚くほど冷たく、美しく澄んだ泉で、今まで味わった中で最高の水を家族に供給している。触ると氷のようだった。(a remarkably cold and beautifully clear spring that issues from a fissure in the rock, supplying the family with the best water I had ever tasted. To the touch it was like ice itself)」(45ページ)と記しています。
ウォーレンは、1797年に亡くなりました。コールド・スプリングについては、1850年にジョン・ビグロー(John Bigelow)が『1850年のジャマイカ、あるいは奴隷植民地における16年間の自由がもたらした影響』(原題:Jamaica in 1850 Or, The Effects of Sixteen Years of Freedom on a Slave Colony)のなかで言及しています。「コールド・スプリングのコーヒー畑は、ハミルトン氏によってロンドンで所有され、リバプールに持ち込まれ、1cwtあたり140シリングで取引される最高級のコーヒーを生産すると言われる。(Cold spring coffee field which is owned in London by a Mr Hamilton and is said to produce the finest coffee that is taken into Liverpool where it commands 140s per cwt.)」(167から168ページ)
現在、1778年に建てられた邸宅はもう残っておらず、現在のコテージは1920年頃に建てられたようです。しかし、バーベキュー・ガーデンやパルプ工場の廃墟、作業場、流れる池の跡は、現在ではずっと小さくなった敷地内に残っており、エレノア・ジョーンズ(Eleanor Jones)が所有しています。美しい花の庭園に囲まれた家は、結婚式、昼食会、立ち寄り客に利用されています。
Matthew Wallen:https://www.ucl.ac.uk/lbs/person/view/2146653393
'Mr Wallen's plantation in the mountains':https://jamaica-history.weebly.com/wallens-cold-spring.html