中国 上海のコーヒーの歴史と上海のコーヒー王 チャン・パオ・ツンの栄光と悲惨

中国 上海のコーヒーの歴史と上海のコーヒー王 チャン・パオ・ツンの栄光と悲惨

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中国へのコーヒーの紹介

第1の波

ルウェリン・アンド・コー・ドラッグストア

上海は、世界で最も多くのコーヒー店が存在する都市である。その数は東京の3,826軒に対し6,913軒である。日本の喫茶店が1981年の15万4千軒をピークに減少の一途を辿っていることに対し、中国のコーヒー店の数は急増している。

1843年に上海租界が設立された後、コーヒーはホテルでヨーロッパ系の住民や旅行者に提供された。最初に中国人にコーヒーを提供したのは、パーク路一番地(現在の南京路)に開業したルウェリン・アンド・コー・ドラッグストア(Llewellyn & Co Drugstore)(老德记药店)だった。イギリスの薬剤師ジョン・ルウェリン(J. Lewellyn)は、咳止め薬として地元の中国人に売るつもりで持ってきたが、医学的な利点だけでは顧客を納得させることができず、ドラッグストアの品揃えに加えてコーヒーやペストリーを定期的に販売するようになった。この店は、後にルウェリン・ウエスタン・レストラン(Llewellyn Western Restaurant)(老德记西餐馆)として知られるようになった。

1886年、上海禁酒協会(Shanghai Temperance Society)は、外国人船員が長時間飲酒したり、ふしだらな女性のもとを訪れたりことを心配し、コーヒーハウスを組織するための資金をプールすることを提案した。ここで提案されたコーヒーハウスは、虹口コーヒーハウス読書室(Hongkew Coffee House and Reading Room)として具現化し、おそらく上海で最初の独立したカフェとなった。ここでは、「健全な酒で慰めを得る代わりに、ビトリオール、石油、その他すべての偽和成分で毒殺される恐ろしい巣窟(horrible dens where instead of being comforted with whole-some liquor ​they are poisoned with vitriol, and petroleum, and all the other ingredients of adulteration)」から船員たちを引き離すために、「コーヒー、茶、そして酩酊しない酒(coffee, tea, and non-intoxicating liquors)」を提供した。

イギリスの素晴らしい海運業と製造業の中心で成功を収めたことが証明されているような、規則的に構成されよく運営されているコーヒーハウスほど良いものはない。

Nothing could be better than a regularly-constituted and well-conducted coffee-house, such as those which have proved so marked a success in the great maritime and manufacturing centres in England.

"North China Herald 1886.01.13"p.32

1895年11月、サントス・コーヒー・ストア(Santos Coffee Store)(三道司咖啡庄)が開業し、後に四川路と南京路の111 セントラル・アーケードに移転した。 1935年に40周年を迎え、オールド上海で最も長く続くコーヒー店の1つとして知られた。このコーヒー店は、戦後まで営業を続け、1947年の上海電話帳にまで記載されていた。

1897年、上海最古のレストランであるデダ・ウェスタン・レストラン(Deda Western Restaurant)が虹口に開業した。第一次世界大戦後は、中国の所有権が移り、德大西菜社として現在も営業している。20世紀の初めまでに、上海の独立したカフェの数はまだ非常に少なかった。近くにはトーマス・ハンバリー・コーヒーハウス(Thomas Hanburry Coffee-House)があり、1914年に虹口の2番目のカフェであるカフェ・ディ・ローマ(Cafe di Roma)が開業した。

1910年にカールトン・カフェ(Carlton Café)が開業し、その後ナイト・クラブへと転身した。1922年にオーストラリア出身のフローレンス・ブロードハースト(Florence Broadhurst)がダンサー兼歌手としてここで働いた後、ブロードハースト・アカデミー(Broadhurst Academy)という音楽とダンスの学校を開いた。後に彼女は、画家兼デザイナーとして名を馳せた。

1911年に、ジョン・ジョンストン(John Johnston)がザ・リッツ・カフェ(The Ritz Café)を開業した。しかし、1914年に午前2時までの営業時間であるという営業許可の規則を破ったため、罰金を課され、1915年に破産した。このカフェでは、コーヒー以外のものも提供されていたと考えられ、カールトン・カフェのような華やかな喧騒を再び提供するために、1921年に再開した。

1913年に、ドイツ人のカール・フィードラー(Carl Fiedler)によるフィラデルフィア・カフェ・フィードラー(Philadelphia Café Fiedler)(後のカフェ・フェデラル(Café Federal))、フランス人のマグナン(Mr. Magnan)によるカフェ・リッシュ(Café Riche)、1915年にC・シェパード(C. Shepherd)によるシェパーズ・カフェ(Shepherd's Café)、1918年にトリアノン・カフェ(Trianon Café)(後にカフェ・パリジアン(Café Parisien)に引き継がれる)などが開業したが、1918年の上海ガイドには、「上海には35の洋食店があり、登録されているコーヒー店は1つだけだ」と記録されている。数多くの独立した有名な洋風カフェが登場したのは、1920年代になってからだった。

オールド上海のカフェは、単にコーヒーだけを提供していたわけではなかった。1924年にジャーディン、マセソン社(Jardine, Matheson & Co)が、上海・虹口埠頭余記珈琲会社(Shanghai & Hongkew Wharf Yuji Coffee Company)(公和祥余记咖啡公司)という上海で最初のコーヒーの大量生産施設を設立した。

1928年に開業したニュー・キースリング・カフェ(New Kiessling Cafe)(凯司令珈琲館)は、上海で最初の中国人経営の洋風コーヒーハウスだった。このコーヒーハウスは、天津のキースリング・アンド・ベイダー・レストラン(Kiessling and Bader Restaurant)のドイツ人主任と、他の2人の上海のパティシエによって開業された。「司令官 K(commander K)」という武将が創業資金を提供したと言われており、この武将にちなんで中国名が付けられた。その武将は、後に名前の侵害を訴えたが、敗れたという。

作家のアイリーン・チャン(Eileen Chang)(張愛玲)が、『惘然記』に収められた短編小説「色・戒」の中でこのカフェを登場させたことにより、このカフェを不朽のものとした(この小説は、『ラスト、コーション』(原題:色・戒、英題:Lust, Caution)という題名で、2007年に映画化された)。このカフェは、現在も南京西路1001号の同じ場所にあり、上海で最も長い歴史を持つカフェとなっている。

 この喫茶店は小売りを主にしているようで、店内の席数はわずかしかなく、薄暗くて、趣がまったくない。奥のガラス製の冷蔵ケースには、各種のケーキが並んでいる。そのうしろに狭い通路があり、明るく照明が当たって、壁の下半分がコーヒー色で、でこぼこしているのが見える。一台の小さい冷蔵庫のそばに、白い作業着が掛けられていて、天井に近いところには、ボーイたちが着替えた、丈の長い中国服が行儀よく掛けられている。まるで衣料問屋のようだ。

 易の話では、なんでも天津(テイエンジン)の「起士林(チーシーリン)」(天津にドイツ人アルベルト・キスリングが一九〇八年に開店したレストラン)第一号の見習いが独立して開いた店だそうだ。彼がこの店にしたのは、知り合いに出遭う可能性が低いのと、店が交通至便なところにあるので、万一、知り合いに遇っても辺鄙(へんぴ)なところと違って、他人に知られてはまずいことをしているのではと疑われる恐れがないからだそうだ。

アイリーン・チャン(2007)『ラスト、コーション 色・戒 アイリーン・チャン短編集』,南雲 智訳,集英社文庫.p.18-19

第2の波

Lu Shaofei 魯少⾶.“Picture of the Tea Talk of the Literary Field” (⽂壇茶話圖 wentan chahua tu).

1928年、申報のニュースの記事で、虹口の北四川路にあるシャンハイ・カフェ(Shanghai Café)が紹介され、魯迅(ろじん)、郁達夫(いくたつふ)など、中国の芸術家や文学者が訪れた。魯迅は、彼の住まいのそばに李、左翼文化運動の発祥地となったゴンフェイ(Gongfei)というカフェに頻繁に訪れていた。現在、魯迅をはじめとする左翼知識人が集まった多倫路文化名人街には、オールド・フィルム・カフェ(Old Film Café)(老電影珈琲館)があり、当時の様子を垣間見ることができる。

第3の波

1930年代後半には、ユダヤ人難民、特にウィーンからの難民によって、独自のカフェ文化がもたらされた。これまでの間、上海のコーヒーは外国人居住者と少数の中国人エリートによって消費されてきた。しかし、1930年代に中国人起業家がコーヒー市場に登場することで、コーヒーの消費に大きな変化が訪れた。

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上海のコーヒー王 チャン・パオ・ツン(Chang Pao Cun)(张宝存)の栄光と転落

上海のコーヒー王 チャン・パオ・ツン(Chang Pao Cun)(张宝存)

1935年、浙江省出身のチャン・パオ・ツン(Chang Pao Cun)(张宝存)は、妻とともにデシァン・コーヒー(Desheng Coffee)(德胜咖啡行)を開業した。これは中国人所有者による上海初の大規模なコーヒーの焙煎業者および流通業者だった。海外から生豆を輸入して焙煎し、ブリキ缶に詰めて洋食店やカフェに"C.P.C."の登録商標で販売した。

1937年の盧溝橋事件から始まった日中戦争により、チャンは会社を移転させることを余儀なくされ、彼はC.P.C. コーヒーハウス(C.P.C. Coffee House)(別名:デシァン・カフェ(DeshengCafé) (德胜咖啡馆))を開業した。このコーヒーハウスは、西洋のライフ・スタイルを取り入れたホワイトカラーの中国人労働者、いわゆるラオ・ケレ(Lao Kele)(老克勒)が頻繁に訪れる上海で最も有名なコーヒー店の1つになった。そして、コーヒーを飲むことは、台頭する中国の中間層の間で、貴族性、地位、味の象徴となった。

チャン自身もまた、典型的なラオ・ケレだった。1913年に、彼は家族の末っ子として、舟山市定海区の近くで生まれた。両親は彼がまだ7歳のときに亡くなり、彼は英語教育をしていた聖芳濟書院(St. Francis Xavier's College)に入学するために、14歳で上海に送られた。彼は16歳で、コーヒーと果物の取引を主な事業とする外資系のパワーズ有限会社(Powers Co., Ltd.)(鲍尔斯洋行习业)で最初の仕事に就いた。この見習い期間は、彼のその後の成功の土台を形成した。18歳のときにチャンは香港に移り、デパートを運営するスパイク・グループ(Spike Group)(または、スパークス(Sparks))(史派克洋行、史帕克洋行)に参加した。2年後に上海に戻った後、彼は最初の事業であるホノルル・フード・カンパニー(Honolulu Food Company)(檀香山伙食公司)を設立した。しかし、1932年1月28日から始まった第一次上海事変により、同じ年に彼は会社をたたまざるを得なくなった。その後、彼は彼の義理の兄弟が働いていたヘーゼルウッド・アイスクリーム(Hazelwood Ice Cream)のアメリカ合衆国の製造業者であるヘニングセン・プロデュース社(Henningsen Produce Co.)に加わった。

1934年、チャンはファン・フイキン(Fang Huiqin)(方慧琴)と結婚した。 1917年、浙江省寧波市鎮海区の貧しい家庭に生まれたフイキンは、8歳で上海に引っ越した。彼女は教育を受けておらず、西馬路(現在の陝西北路)の小さな野菜市場で働き始め、そこでチャンと出会い、2人でデシァン・コーヒーを設立した。彼らはブラジルやインドネシアのコーヒーを研究し、東洋人好みのレシピを探求した。デシァン・コーヒーのC.P.C. コーヒーは、当時の他の企業の製品を上回り、チャンは業界のリーダーとなった。

企業を成功させたことにより、チャンは中国人自身による上海コーヒー産業の創始者として認められ、10年連続で上海コーヒー協会の代表を務めた。当時の中国の新聞は彼を「コーヒーキング」(咖啡大王)と呼び、「上海のコーヒーショップ10店のうち、7店がC.P.C. コーヒーを使用している」と評された(「コーヒーキング」という称号は、レヴィース・コーヒーハウス(Levy's Coffee House)とヴィーナス・カフェ(Venus Café)のオーナーであるS.H. レヴィー(S.H. Levy)が、日本の占領下の混乱でパレスチナへ姿を消すまで、英字の報道機関で争われた)。1944年12月、チャンは旧フランス租界の泰山路(現在の淮海路(Huaihai Road))に2番目のC.P.C. コーヒーハウスを開店した。このカフェを収容していた建物は現在も存在しており、日本のNO COFFEE 上海店の入る建物の通りの真向かいにある。

1920年代と1930年代のブームの後、日中戦争期の不況により、とりわけ輸入コーヒーとS&W コーヒー(S&W Coffee)のようなアメリカ合衆国のブランドのコーヒーの不足と価格の上昇が起こった。 チャンは、価格操作、未払いの輸入請求書、会社の再編、およびその他の不正行為に従事したと言われており、この状況を自分の利益のために利用した。

にもかかわらず、戦後間もなく、都市のコーヒー文化は大きな復活を遂げ、1946年までに上海に186のカフェが登録され、合計で500を超える場所でコーヒーが提供された。 1949年までにデシァン・コーヒーは繁栄し、その流通事業を香港に拡大し、九龍に支店を開設する計画を立てた。デシァン・コーヒーは旧フランス租界のラファイエット通りで、上海の3番目のコーヒー店を管理していた。伝えるところによると、この店は、1930年代の映画スター、ランゲン・コン(Langen Han)(韩兰根)が開店したらしい。彼はそれをうまく運営できず、友人のチャンに引き継ぐように頼んだそうである。

チャンは、自身の会社に加えて、1944年にトンチョン・バンク(Tongcheng Bank)(同成钱庄)、1945年にフォーチュン・バンク(Fortune Bank)(福莱钱庄股份有限公司)に投資して事業を多角化した。コーヒー製造工場に加えて、パン、キャンディー、月餅、チョコレート、缶コーヒー、缶詰を製造するチャイニーズ・ユナイテッド・ベーカリー(Chinese United Bakery)工場と、殺虫剤である合成DDTを製造するチャイニーズ・ユナイテッド・ケミカルズ(Chinese United Chemicals)工場を開設した。また、チャンが学校への寄付や学生への支援活動を行なったことは、彼とC.P.C. コーヒーの知名度をさらに高めることに役立った。

C.P.C. コーヒーは、このブランド名を模倣する企業が現れるほど、知名度が高まっていた。チャンが上海で最初のキャデラック・セダンを所有したのもこの時期である。この車は、ブラジル大使館の助けを借りてアメリカ合衆国から輸入された。1940年代後半には、C.P.C. コーヒーの知名度はコカ・コーラに次ぐものと報じられた。

コーヒーの歴史的な反革命罪

盛者必衰、チャンの栄光に暗い影が差す。1946年、チャンは有名なダンサーを口説いたが拒絶され、訴訟に敗れたと伝えられている。同じ年、泰山路のC.P.C. コーヒーハウスが閉店した。1949年5月の上海解放から、政治的・社会的意識が変化し、コーヒーを飲むことは資本主義社会のブルジョアの娯楽として蔑視されるようになっていった。

1950年、香港での出張から上海に戻った後、チャンは「歴史的な反革命罪」で逮捕され、3年の刑を宣告された。彼の妻のファンは、10人の子供の養育のために放免された。チャンは釈放後まもなく、その時点で国営企業の公務員になっていた元従業員の1人に個人ローンを提供したとして、1958年にさらに12年の刑を言い渡され、青海省の刑務所と労働収容所に送られた。チャンは最終的に、24年間にわたって投獄されることとなった。

同じ1958年、C.P.C. コーヒーはシャンハイ・ブランド(Shanghai Brand)(上海牌)として、C.P.C. コーヒーハウスはシャンハイ・カフェ(Shanghai Café)(上海咖啡馆)として政府の管理下に置かれた。1959年、デシァン・コーヒーは完全に国有化され、国営のシャンハイ・コーヒー・ファクトリー(Shanghai Coffee Factory)(上海咖啡厂)に改名された。

続く数年と、1966年に始まった文化大革命の時代を通して、コーヒーの消費は事実上禁止され、シャンハイ・コーヒー・ファクトリーで生産された缶入りコーヒーは、洋風ホテルでしか購入できなくなった。外貨兌換券を持っている顧客だけが、豆売りや挽き売りコーヒーを購入することができ、一般人がそれを購入することはできなかった。選ばれた一部の上海人が利用できた最大の贅沢が、シャンハイ・ブランドのコーヒー・ティー(Coffee Tea)(咖啡茶)だった。これは挽いたコーヒー豆の残りを砂糖と混ぜて立方体にプレスしたものであった。

シャンハイ・ブランドのコーヒーは、1970年代後半から1980年代初頭の文化大革命が終結した時代に、最も有名な「上海製」ブランドの1つとなった。シャンハイ・ブランドのコーヒー、人気のウェディング・ギフトであり、地元の人々にとって、リビングルームの棚にシャンハイ・ブランドのコーヒーの光沢のある赤い缶があることは、差別化の徴だった。

死後に生きる夢

"Hogood Coffee",heiven ho 2017年2月15日.

チャンは釈放後も、更なる余波を恐れて、1979年まで上海に戻らなかった。彼の帰国とデシァン・コーヒーの運命を知った雲南省開拓局は、1983年に地元のコーヒー産業の発展のために、技術コンサルタントとして彼を招いた。

69歳から73歳までの間、チャンは雲南コーヒー会社(Yunling Coffee Company)を設立するために、雲南省で3年間を過ごした。この会社は、雲南省の地産コーヒーの原点となった。しかし、彼の会社は原因不明の火事で破壊され、彼は悲しみの中で雲南省を去り、わずか6,000元(1,000ドル未満)の支払いで上海に戻った。しかし、チャンは、彼の設立した施設とそこで訓練を受けた人々から、最終的にホウグー・コーヒー(Hogood Cofee)という会社が生まれたことを知った。現在この会社は、中国国内最大のインスタントコーヒー製造業者であり、ネスレへの供給業者となっている。

何年にもわたる苦闘の後、チャンは1985年に正式に名誉回復し、押収された資産の一部が返還された。彼の妻のファンは、カリフォルニアに移住した子供たちの1人に続いて、1987年にアメリカ合衆国に移住したが、チャンはもう一度チャイニーズ・コーヒー・ドリームを実現するために、上海に留まった。彼は74歳の時、新しいパートナーとともにコーヒー工場を設立するために、全財産を注ぎ込んだ。しかし、計画は失敗に終わった。無一文となった彼は、1991年10月に上海を離れて、やむを得ずカリフォルニアに向かうことになった。

チャンは、好機を逃すこととなった。1990年代初頭、海外ブランドのコーヒーとインスタントコーヒーが市場に浸透し始め、シャンハイ・コーヒー・ファクトリーはシャンハイ・ブランドの缶入りコーヒーの生産を停止することになった。1988年から、シャンハイ・コーヒー・ファクトリーはメイリン有限会社(Meilin Co., Ltd.)(上海梅林正广和股份有限公司)の一部となった。1864年に上海に設立されたジョージ・スミス社(George Smith & Co.)を、1882年にイギリスの事業家であるE. J. カルドベック(E. J. Caldbeck)とジョン・マグレガー(John Macgregor)が買収した。1882年に彼らはアクエリアス・ソーダ(Aquarius Soda)(正广和)を設立したが、メイリン有限会社はこの会社の所有者でもある。

2001年、南京西路にあるシャンハイ・カフェ(C.P.C.コーヒーハウス)は完全に閉鎖された。C.P.C.コーヒーの名残は、2016年頃まではシャンハイ・コーヒー・ファクトリーのショールームで見つけることができたが、その場所も閉鎖され、現在はメイリン有限会社のウェブサイトにいくつかのコーヒー関連製品が表示されているのみである。しかし、創業者のチャンとファン、C.P.C. コーヒーへの言及はない。

晩年のチャン・パオ・ツン

チャンは、アメリカ合衆国に移住した後も、上海でコーヒー事業を始めることを夢見続けた。1992年5月に、チャンは脳卒中を患い入院した。彼は看護師たちに英語でC.P.C. コーヒーの物語や、中国でコーヒー事業を再開する計画を話し、彼らを楽しませた。しかし、チャンが夢を実現する機会を持つには遅すぎた。1992年7月に、彼はカリフォルニアで亡くなり、2015年に妻のファンは98歳で亡くなった。

彼らの残した遺産は、世界最大規模となった現在の上海のコーヒー文化に、雲南省のコーヒー生産に、そして、アメリカ合衆国で大手食品飲料会社を設立した息子のチャールズ・チャン(Charles Zhang)に受け継がれている。

<参考>

"Shanghai’s Original Coffee Brand: The bitter-sweet History of C.P.C. Coffee",The Little Museum Of Foreign Brand Advertising In The ROC<https://www.mofba.org/2021/05/05/shanghai-s-original-coffee-brand-the-bitter-sweet-history-of-c-p-c-coffee/>

"The rise and fall of Shanghai’s ‘coffee king’",SupChina<https://supchina.com/2021/09/10/the-rise-and-fall-of-shanghais-coffee-king/>

Zhuyuan Han"Gentility in Drinking: Chinese Intellectuals and Tea/Coffee Culture in Republican Shanghai (1920s-1930s)", Critical Asian Humanities Duke University<https://dukespace.lib.duke.edu/dspace/handle/10161/20809>

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