ニューカレドニアのコーヒーの歴史(1):発見と支配

ニューカレドニアのコーヒーの歴史 発見と支配

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ニューカレドニアとジェームス・クック

ニューカレドニア(英語:New Caledonia、フランス語:Nouvelle-Calédonie)は、ニューカレドニア島(フランス語で「本土」と呼ばれるグランド・テール島(英語:Grande-Terre Island、フランス語:île de Grande-Terre )およびロイヤルティ諸島(英語:Loyalty Islands、フランス語:îles Loyauté)からなるフランスの海外領土である。首都はヌメア(Nouméa)。ニッケル産業が有名で、日本では「天国にいちばん近い島」として知られるリゾート地である。

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ジェームス・クック 出典:Wikipedia

ヨーロッパ人のニューカレドニアおよびロイヤルティ諸島到達は、18世紀後半のことだった。イギリスの探検家ジェームズ・クック(James Cook, 1728 - 1779)が、1774年9月4日、英語で「決断(Resolution)」を意味するレゾリューション号での第二回航海で、ニューカレドニア(グランド・テール島)を発見し、山の多いスコットランド(カレドニア)を思わせる眺めから、ニューカレドニアと名付けた(カレドニア(Caledonia)は、ローマ帝国が名付けたグレートブリテン島の北部の古称である)。同じ航海で、彼はニューカレドニア北方の島にニューヘブリデス諸島(英語:New Hebrides、フランス語:Nouvelles-Hébrides)(現在のバヌアツ(Vanuatu))と名付けている(ヘブリデス諸島あるいはヘブリディーズ諸島(英語:Hebrides)は、スコットランド西岸に広がる諸島である)。

ロイヤルティ諸島は、イギリスの探検家たちが乗っていたロンドン船ロイヤルティ(Loyalty)にちなんで名付けられたと考えられているが、これをフランス人がそのまま仏訳したものである。

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イギリスとフランスの植民地闘争

ジェームス・クックによる発見後、フランスのアントワーヌ・ブリュニー・ダントルカストー(Antoine Raymond Joseph de Bruni d'Entrecasteaux, 1737 - 1793)とジャン=ミシェル・ユオン・ド・ケルマデック(Jean-Michel Huon de Kermadec, 1748 - 1793)が、1792年6月7日にリル・デ・パン(フランス語:L'île des Pins)に上陸する。しかし、ニューカレドニアに関する詳しい調査が行われるのは、ジュール・デュモン・デュルヴィル(Jules Sébastien César Dumont d'Urville, 1790 - 1842)のラ・コキール号(La Coquille)による第二回航海を待たなければならない。

ジェームス・クックによる太平洋航海は、イギリスのキリスト教界に強い関心を呼び起こすこととなった。1840年にロンドン伝道協会(London Missionary Society)の宣教師たちはロイヤルティ諸島に定住し、先住民族に福音伝道し、彼らをプロテスタントに改宗させた。その一環として、フランスのマリスト修道士(Les Maristes)たちが国家と軍の支援を受けて、1843年12月20日に島に定住し、先住民族をカトリックに改宗させようとした(マリストは、19世紀前半にリヨンで生まれた宗教的家族で、マリアのように福音に生きることからそう呼ばれる。ニューカレドニアにコーヒーの苗木をもたらしたのは、このマリスト修道士である)。それからロイヤルティ諸島は、プロテスタントの宣教師とカトリックの宣教師の激しい権力闘争の場となった。 このようにして、オセアニアもイギリスとフランスの植民地支配をめぐる闘争に巻き込まれることになるのである。

ニューカレドニアおよびニューヘブリデス諸島の植民地化の先駆者は、イギリスの商人ジェームズ・パッドン(James Paddon, 1811 - 1861)*である。彼は1841年から1842年頃に、ニューヘブリデス諸島の白檀の噂を聞きつけ、ここを植民地化しようと計画した(当時、白檀は中国人に人気のある商品だった)。白檀貿易によって、イギリスと先住民の間での不和と緊張は高まった。実際にニューカレドニアおよびニューヘブリデス諸島の植民地化に成功するのは、これらの島々を発見したイギリスではなくフランスである。1845年にジェームズ・パッドンが買い取ったヌー島(フランス語:l'île Nou)も、1857年にはフランスに売却されることとなる。

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フェブリエ・デスポワント 出典:Wikipedia

1853年9月24日に、オセアニアおよび西アメリカ沿岸のフランス海軍司令官であったフェブリエ・デスポワント(Fébvrier Despointes, 1796 - 1855)が、ナポレオン3世(Napoléon III, 1808 - 1873)の名の下にニューカレドニアの領有を宣言する(これには、ナポレオン3世のイギリスのオーストラリア・ニュージーランドの領有に対抗する目的があった)。これはジェームス・クックの発見から約1世紀後のことであり、ちょうどフランス本国では、ルイ=ナポレオンによるクーデター(フランス語:Le coup d'État du 2 décembre 1851)によってフランス第二共和政(フランス語:Deuxième République)が崩壊し、フランス第二帝政(フランス語: Second Empire Français)が成立したばかりだった(ナポレオンの単なる甥にすぎなかった男が、ナポレオン3世としてフランス皇帝に即位するまでの過程を笑劇として分析した有名な評論が、カール・マルクス(Karl Marx)の『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日(ドイツ語:Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte)』である)。

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フランスによる植民地化

ここからニューカレドニア諸島のフランスによる植民地化が始まる。この世界の果てにある島々は、最初は流刑地として植民地化された。それは1855年から1894年まで続いた。フランスは、1895年からニューカレドニアの先住民族であるカナク(Kanak)の土地を収容し、自由な土地として少しづつ植民地化を進めていった。先祖伝来の土地を奪われたカナクは、フランスの植民地政府によって定められた「保留区(Réserve)」に押し込められることとなった。

それは抵抗なく進展したわけではなかった。植民地化の拡大を妨げるためカナクによる反乱が頻発し(1858年から1868年、1878年、1917年等)、多くの血が流れた。フランスによる植民地化は、カナクの反乱が起こるごとに過激化していった。フランス植民地帝国においては、フランス植民地領土での例外的な法体制である「先住民体制(フランス語:Le régime de l'indigénat)」が樹立されたが、ニューカレドニアに対しては1887年7月18日にデクレ(フランス語:Décret)が発行され、戦後の1946年まで廃止されることがなかった(フランス法におけるデクレとは、日本による政令に当たる。これは法律(フランス語:Loi)とは異なり、国民議会や上院による審議の必要がない。デクレは命令制定権(フランス語:Pouvoir Réglementaire)を行使する首相が制定し、大統領が署名する)。

フランス植民地支配下における先住民体制

先住民体制とは、19世紀中頃から第二次世界大戦後までの間、第二のフランス植民地帝国(Le second empire colonial français)の領土で使用されていた例外的な法律と慣行の集合体である(第二のフランス植民地帝国とは、1815年から始まるナポレオン戦争後のフランス植民地の回復と新たな領土の征服のことである)。先住民体制は、1944年2月のブラザヴィル会議(フランス語:La conférence de Brazzaville)で廃止が勧告されるが、いくつかの慣行は植民地の独立まで続いた。

1875年2月9日に、アルジェリアの一部地域に適用された先住民に対する法律が、1881年6月28日にアルジェリア全体に修正および拡大された。そこから他のフランス植民地領土にも適用されるようになり、1881年5月25日にコーチシナ(Cochinchine)(現在のベトナム南部)に、1887年7月18日にニューカレドニアに、さらにフランス領西アフリカ(AOF)(Afrique occidentale française)、フランス領赤道アフリカ(L'AEF)(Afrique équatoriale française)、マダガスカル(Madagascar)、フランス領ソマリ(La Côte française des Somalis)、その他のフランス植民地に適用されるようになった。

一口に先住民体制といっても、適用される植民地によってその有様は様々だったが、先住民族と定義された人々は、一般的に仕事、商業、居住などの自由と政治的権利を奪われ、宗教または慣習に関する個人的な権利のみが維持された。先住民体制においては、フランスの法律の一般原則を守る必要がなかった。法律によって禁止されていない制裁行為を許可することによって、抗弁も上訴の権利もなく集団的制裁を加えることができた。これは南アフリカ共和国のアパルトヘイトに似ていた。そして、ニューカレドニアにおけるこの体制は、コーヒー生産においてはカナクの強制労働という形で現れたのである。(ニューカレドニアの先住民体制については、Isabelle MERLE , Adrian MUCKLE"L'indigénat : Genèses dans l'Empire français. Pratiques en Nouvelle-Calédonie"に詳しい)。

ジェームズ・パッドンの子孫に、ニューカレドニアの政党であるラヴニール・アンサンブル(L'Avenir ensemble)の議員がいる。

 和解の時代に出現したラヴニール・アンサンブル議員のオーレンは、カレドニア人あるいはカルドシュであろうとかまわないと言い、その家系に自由移民と流刑囚の両者の血が流れていることもオープンに語っている。彼女のニューカレドニアにおける祖は、白人移民の中で最も古く、植民地化以前の 1843 年にヌメアに近いヌー(Nou)島(現在のヌーヴィル)にやって来た英国商人J. パッドン(James Paddon)にある。彼はビャクダンやナマコ取引で富を築いたが、オーレンの父方のルーツはこの自由移民で、イギリスからヴァヌアツを経て、ニ = ヴァヌアツの妻を伴って来たという。当初ポール = ド = フランス (Port-de-France) と呼ばれていたヌメアに仏植民地政府が置かれると、代わりに彼は西海岸パイタの土地を、それを開拓する入植者を連れて来る条件で譲渡された。オーストラリアのシドニーからドイツ人家族らが入植者として呼び寄せられて、パイタに小さな村が築かれ、現在パイタはヌメア近郊の町として発展している。

江戸 淳子 (2015)『ニューカレドニア カナク・アイデンティティの語り――ネーションの語り・共同体の語り・文化の語り』,明石書店.p.530-531
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