アブドゥル・カーディル・アル=ジャジーリー『コーヒーの合法性の擁護』(ド・サシー訳)(2)

ド・サシーがフランス語に翻訳したアブドゥル・カーディル・アル=ジャジーリーの『コーヒーの合法性の擁護』の日本語訳である(アラビア語部分を除く)。試訳の修正が完了した部分を、日本語訳だけ載せておく。

フランス語との対訳は以下を参照。

(1)は以下を参照。

本文

原文:https://archive.org/details/chrestomathiear01sacygoog/page/n448/mode/2up

 「カウア」という言葉について、アブ・イェジドの息子で、学者であるファフル・アッディーン(10)・アブー・バクルは、彼が「コーヒーの勝利(11)」という題名で出版した作品の中で、「抵抗」を意味する「イッカ」、または同じ句の中で「カッダ」のために「アクア」と言われるように、「カアダ(控える)」の意味で同じ言葉に由来すると言っている:"Akha arradjoul analsekey "は「この男はこのことを控えた」を意味する。あることに嫌悪感を抱くことと、またはそれを控えることは、ほとんど同じことに帰着する。このお酒の効果を知っていた人々が教えたように、ワインは「カウワ」(13)と呼ばれるようにもなった。なぜなら、それは食べ物に対する嫌悪感を呼び起こし、そして食べることを控えるようになるためである。コーヒーが嫌悪感を抱かせ、睡眠を断つゆえに、この場合の「カウア」という言葉の意味についても同じことが言える。 そしてそれは、原則として、人々が夜更かしする必要がある宗教活動のために(14)、眠りを消し去るために使われていた。絶対的な用語として使われる単語「ナドゥム」も同じ言葉であると、彼は付け加えた。 なぜなら、この単語に「統合」、「結合」の意味を与えることによって、この単語の意味は一般化されるからである。しかし、 本来の意味として、それは「絹の上に真珠の刺繍をすること」を意味する。その後で、それは「詩人」と「クルアーン」のために比喩的に捉えられた。その上で、ワインよりもコーヒーのほうがはるかに、「カウア」の名前に値すると言うことができる。スーフィーたちはその名前で遊んだ; 彼らはそれを「愛」を表すために頻繁に使用した、それはカウワが「情熱」と「ワイン」、他の類義語を意味する言葉であるような、この点であった。そういうわけで、ファレドの息子、シャイフ・シェレフーエディン・オマルは、彼の詩の一つで次のように語った:「愛に酔わせるワインは私を潤した」、(アラビア原語)(15)と他のそのような表現を用いた。 これはまたシディ・アイイ・ワファ(16)の言葉にも見ることができる。

 スーフィーの話を聞いたことがある人は誰でも、私たちが言うことが真実だと知る。 (ここでこの著者の言葉を終わらせる。)そのうちの何人かは、ワインとコーヒー、この名前の2つの飲み物の間に区別を設けるために、「カフ」、「ケスラ」で母音を与えることで、「キウワ」とコーヒーの名前を発音する習慣があった。コーヒーの自然の性質に関しては、数多くの医師と最も博識な男性たちが、それは温と乾であると言っている:他の人はそれが寒と乾であると主張している;これはこの飲み物の使用に反対する人々が採用している意見である。

 コーヒーの使用を与えることの最も重要な利点の1つは、それが睡眠を消し去ることである。例えば少しだけ食事をすること、日中のすべての疲労を避けること、昼寝をすること、またはスーフィーの本の中で公開されているその他の習慣など、夜更かしの容易にする方法が他にもいくつかないわけではない。

 ここに「ヒジャーズ」州の長官(17)、ヤコブの息子、彼の世紀の最も碩学の人、タジェディン・アブドゥル・アルワッハブ・メッキ・マレキによるカディルコダトゥのレシピがある。(神が彼に憐れみを施されますように!)私はメッカで、「ソワイカ」(18)と名付けられた場所にある彼の家で、聖なる祭りの時(つまり、巡礼の時)に彼と一緒にいることでそれを学んだ。私は毎年、聖なる夜の間、そしてそれらが過ぎた後に、特に彼とともに集う習慣があった(19)。なので彼は私にコーヒーの前に冷たい水を飲むこと以上に有益なことはないと教えた。なぜならそれは自然な乾の性質を和らげる湿の性質をコーヒーに伝えるからである;そして人がそれをこのように用いる時、不眠にとても強く耐えることはない。私は彼がこの目的でまさにこのレシピを実践するのを見た。彼はよく教育を受けた経験豊富な人であった:彼はあらゆる種類の事柄に関して優れた知識と技能を持っていた。彼の研究の勤勉さと彼の才能は、ヒジャーズで、彼が生きている間にすべての人に知られていた、シャイフのアフメドの息子で、アドジアン(20)の息子、ハサンの息子、ベレカトの息子、モハメッドの息子、ベレカトの息子、メッカのシャイフであるネドジム・エドゥーニャ・アブ・ネミ・ホセイニのそばに、最も傑出した地位へと彼を導いた。ムハッラム960の9日に彼が亡くなるまで、私は何年もの彼との友情、交際、そして会話を楽しんだ。彼の死の時はアラビア語の次の文で構成されている手紙のなかにある:「永遠の喜びの庭は彼の家であり、彼の住処である」(21)。 彼は彼の後に彼と比較することができる後継者を誰も残さなかった。 神が彼の家に天国の栄光を与えることを願ってくださいますように!

原文:https://archive.org/details/chrestomathiear01sacygoog/page/n482/mode/2up

 (10)この文章には「アルファフル」 (アラビア語原語)がある。 しかしそれは (アラビア語原語)「ファフル・アッディーン」の略語である。「アラビア語」という単語の間にある綴りのなかの名前では、それはしばしば削除される; それから時々 「アラビア語」のように冠詞がつけられる; 「アラビア語」のための 「アラビア語」でのように、時々それは省略されることがある。時にはまたこれらの省略表現は「アラビア語」の形で与えられる、あるいは「形容詞に関する性」は、「アラビア語」の場合は 「アラビア語」のように、それゆえ「アラビア語」の場合は「アラビア語」と続くのが見つかるだろう、このことはすべての人のために一度指摘しておけば十分である。

 これは、(アラビア語原語)「宗教」という言葉が入るあだ名の使用がいつの時代、そしてどのような場合に導入されたかを示す、「アラビア語」という題名のソヨウティの小さな本の一節をここで報告することは無駄ではないだろう。

 「それは、そのうちの2番目は宗教である2つの単語からなるあだ名が導入され始めたのはヒジュラの4世紀のうちである、と彼は言った。これがこの使用法の起源が何であるかである。ハーリファ(カリフ)の法廷で全力を尽くしたトルコ人は、「シェムス・エドゥーラ 」(帝国の太陽)、「ナシル・エドゥーラ」(帝国の擁護者)、「ネドジム・エドゥーラ」(帝国の星)、などの愛称を得た。それから、無学の通常の人々は、彼らに偉大で非常に名誉あるように見えた、これらのあだ名を切望した。彼らは政府にとってまったくの異邦人であったために、彼らはそれを何も主張することができなかったために、彼らはそれを宗教に関するあだ名を置き換えた。この用途はすぐに広がり、そして一般的になり、何人かの学者たちはそれに慣れ、そしてそれを普及させるために意見が一致した。サファディの年代記で読まれることには、多くの人に「エドゥーラ」(帝国)、または「エディン」(宗教)という言葉を入れたあだ名を多くの人々に与えた最初の人物は、ワズィール(宰相)のアブドゥル・アルメリックであった:彼は彼自身でシェレフ・エディン(宗教の名誉)というあだ名を持っていた。彼は439年に亡くなった。」(アラビア語原文)

 王室文庫のアラビア語写本、441番、次の194。

 (11)この作品の題名を文字通りに翻訳することは非常に困難である:一語一語が意味する、「誇りの蜂起、コーヒーの正当性への影響」、つまり、私が思うに、コーヒーの正当性の、著者によって与えられた証明の後で、それを使用する人々は、頭を上げて歩くことと、彼らの敵対者を軽蔑することができる。

 (12)私は写本の中に読まれ、確実に間違いである「アラビア語」を置き換えた。「カモス」の著者は次のように言う:「アラビア語長文」

 「シハ」では、同じ意味で、併せて次のように読まれる:「アラビア語長文」

 (13)ドゥカンジェ(シャルル・ドゥ・フレスネ)の(グロッサリウム(Glossarium)写本 med. et inf. ラテン語、第二巻、28集)に続き、マテーウス・シルヴァティクスでは「カウア(cahua)」は「白くて軽いワイン」のために用いられた。14世紀のこの医者はおそらく、アラブの医者たちのなかで、幾人かの他の人のように、この言葉を採用した。

 (14)この文章はここでは少し曖昧に見える。著者は「アラビア語」と言うべきであったように思える、なぜなら形容詞 「アラビア語」はそれに先行する 「アラビア語」と、そして「アラビア語」の名前と、またはその名前を置き換える代名詞「アラビア語」に、二重一致の報告がある、そして著者は、私が思うに、暗示すべきではなかったように思える。「アラビア語」との一致の理由で、形容詞は属格であり、そして冠詞によって決定される;「アラビア語」との一致のために、それは単数形で女性形である。(この二重一致については、私のアラビア語文法、第2巻、377番以下、219ページ以降を参照。)さらに、アブドゥール・アルカーディルは同じことをもう少し大声で言った:「アラビア語」の代わりに「アラビア語」、それはもっと正確であった。

 「アラビア語」の言葉では、「アラビア語」の接辞は「アラビア語」に関係する。

 (15)ここでアブドゥール・アルカーディルによって引用された、ファレドの息子、オマルの一節は、「アラビア語」またはこの詩全体があるこの撰集のなかに含まれるであろう、イブン・アル・ファリドの詩の抜粋に関しての私の注で私が話すであろう「アラビア語」という題名の有名な詩の最初の句から引かれている:(アラビア語原文)、すなわち、「愛に酔わせるワインは私に深い眠りを与えた、それは私の重いまぶたを奪い去り、私の杯は比類なき光彩で輝く美のその顔である。」

 二つ目の半句では、「アラビア語」はドジェワリがはっきりと言うように、「顔」を意味し、動詞「アラビア語」は女性形である、なぜなら「アラビア語」は元来この種の人に示すからである。

 ゴリウスとカステルにおいて(アラビア語原語)「顔」が読まれる;しかし、それは間違いである、「アラビア語」と読まなければならない:ギッゲイウスは「アラビア語」と書いた。

 アラブシャーの息子、アハメドによる、「ティムールの人生」の一節は、「スーフィー」または瞑想によって特定の言葉に付随する神秘的な意味を知ることがどれほど頻繁に必要であるかを示している。この著者は、彼に向かって投げられた石にも、彼に与えられた打撃にも、ほとんど注意を払っていなかったように見えた戦士について語った、「ティムールの人生となされた事、M.マンガー版、第二巻、366ページ」で言う: (アラビア語原文); つまり、「彼は彼が受けた石の打撃にも、鉄が彼に与えた傷にも、気付きさえしなかった:彼が虜になり、神の合一の配慮の中で互いに消滅するようなその瞬間、死は驚くべきものとなり、彼は神の敬虔な崇拝者として連れて行かれた。」この一節を耳にしていないM.マンガーは、「アラビア語」を「アラビア語」と不適切に印刷した。このテキストの意味は、スーフィーたちが「アラビア語」という単語に与える意味と「アラビア語文」の著者がこのように定義した意味によって異なる:「アラビア語文」この定義を理解するためには、スーフィーたちの言葉で、「アラビア語」を知っておく必要がある、それは「意味の下に横たわるすべてから成る世界である」(アラビア語原文)、そして(アラビア語)、「隠された、または霊と魂としか関係がない無感覚の世界である。」(アラビア語原文)したがって著者がこの定義で言おうとしたことは、スーフィーたちの文体では、死という言葉(アラビア語原語)は、「霊的な人間の状態がこれらお互いの世界で異邦人であることを意味するということである、なぜなら彼は創造者の偉大さと真実の直感の虜になっているためである。」

 (16)「アラビア語」の代わりに、私は初版で「アラビア語」と印刷した、しかし私は今日写本に「アラビア語」があると確信している:それは「アラビア語」という単語と結びつく。

 アブドゥール・アルカーディル・「シディ・アリ・ワファ」(アラビア原語)で読めば、ソヨウティの「アラビア語題」(王室文庫、アラビア語写本、第791版、次の210)にある、「シャデリテの号、ワファの息子、シディ・アリ」(アラビア語原語)と名付けられた同じ人物であることは疑いない。彼の父は「モハメッドの息子、シディ・モハメッド」という名前である。シディ・アリは759年にカイロで生まれ、807年の終わりに亡くなった。彼はマリキスム派を宣誓し、スーフィーの間で傑出した身分を保持している:なぜならソヨウティは彼が「アラビア語」であると言っているからである:彼は数多くの詩を作った。

 (17)「アラビア語」という言葉は、私が思うに、「すべてのスーフィーの卓越者」、またはヒジャーズのすべてのスーフィーの間でその長所により最も傑出したもの、を意味する。

 (18)「ソワイカ」は「小さな市場」を意味する。それは私がメッカの歴史、注釈の第4巻と写本の抜粋、543ページ、で与えた抜粋のなかのその場所で言及されている。「ムシュタリク」の著者によると、「ソワイカ」 (アラビア原語)は時として (アラビア原語)「市場」の指小辞であり、そして時として (アラビア原語)「脚」の指小辞であり、後者の場合ではそれは「人の脚のように見える、伸びた形の、砂漠の土地」(アラビア語原文)を意味する。 王室文庫、アラビア語写本、番号なし。

 (19)トルコ人は、一年中、彼らが多くの厳粛さでもって祝う、そして彼らが「アラビア語」と名付ける、7つの夜を観察する。これらは、「モハメッドの誕生の」(アラビア語原語)夜、最初のレビの12日目、「彼の受胎の」(アラビア語原語)夜、レッドジェブの最初の金曜日、「彼の昇天の」(アラビア原語)夜、同月の27日目のことである; 死の天使と、人々の行動を記録し、彼らの記録を綴じ入れて、シャアバーン15日に新しく再開する保護者の天使たちがいる「バラートの」(アラビア語原語)の夜:すべての生命のない存在が神を崇拝する「運命の」(アラビア語原語)夜、ラマダンの27日; そして最後に、一方は「アラビア語」と呼ばれる前夜祭、または断食の中止、そして他方で「犠牲」(アラビア語原語)祭の、「アラビア語」と名付けられた、シャワールの最初の2日の夜とドゥリジャの10日。しかし、私はこれらの夜の問題がここで言及されているとは思わない、なぜなら、それは彼が立て続けに夜について語り、それら(夜)は「巡礼祭」(アラビア語原語)に属している、「アラビア語」という著者の表現に関することに見えるからである。したがって、これらの夜はドゥリジャの7日の前日の夜に始まり、同じ月の13日から14日の夜に終わると私は推測する。私の推測は、「アラビア語」と名付けられた演説と、正午の祈りの後に、イマームによってなされた発表によって、この月の祭りが7日に開かれること、そして、巡礼者がメッカに戻る日、13日の終わりまでそれらの夜が続くことに基づいている。(ムラジャ・ドーソン「オスマン帝国全覧」第一巻、260ページ、第二巻27ページ以下参照)

 私は、「アラビア語」を「アラビア語」の複数形として見る:これが「アラビア語」、複数形にすると「アラビア語」である。もしこの単語が「8」を意味するならば、私が最初に考えたように、「アラビア語」と書かれるべきだった。この作品が引用された写本が必ずしも正確であるとは限らない; しかし、著者が「聖なる」、「祝福する」、「尊ぶべき」のような、いくつかの形容語句を加えなかったならば、帰依の実践に捧げられた夜の話をすることは、驚くべきことであると、「アラビア語」という単語に与えた意味を確認するために、付け加えることができるかもしれない。

 (20)917年には、メッカのシャイフは、モハメッドの息子ベレカットであったということが、後に述べられていること(433ページ)からわかる。ここで問題にしているアブ・ネミが、ベレカットの息子であることは間違いない。それはアブ・アル=フィダの年鑑で言及されている、702年に、「アブ・ネミ・モハメッド」と名付けられたメッカのシャイフに、彼の後の子供たちがメッカの政府に論争を挑んだことに。アブドゥール・アルカーディルによって言及されたのが、その子孫であるかどうか私は知らない。(アブ・アル=フィダ「モスレム年鑑」第五巻、181ページ参照)。

 私はアル=マクリーズィーの「アラビア語」(王室文庫、アラビア語写本、672番と673番)のなかに、ヒジュラ740年から760年まで、「アドジラン」「アラビア語」と名付けられたメッカのシャイフの言及を頻繁に見つける。私はここで問題となっているのは、「アドジラン」の名前の人物だと思う; 彼とアドジランの間で、ベレカットの家系でここである程度省略されたことがあるかもしれない。

 (21)この写本に読まれる:「アラビア語」これらの単語の文字は1003の値を与える; これを認めることはできないと、アブドゥール・アルカーディルは996年に書いている。「アラビア語」の代わりに、必ず、「アラビア語」と読む必要がある、意味を何も変えないこと、そしてそのためこのクロノグラムの文字は963年を与える。したがって、著者が「963年に」 (アラビア語原文)と書いたこと、そして代書屋が 「アラビア語」の「3」を省略したことはほとんど確実である。私は「アラビア語」を印刷することに躊躇しなかった。

 「アラビア語」または「アラビア語」と呼ばれるものは、ヘブライ語のような、アルファベットの文字による数値の表記法である。 (M.ランスデン「ペルシャ語の文法」、第一巻、37ページ参照)

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