ディドロ、ダランベール編『百科全書』:カフェ(CAFFÉ)、カフェ(Caffés)、カフェティエ(CAFFETIER)
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ディドロ、ダランベール編『百科全書』

カフェ(CAFFÉ)

Encyclopedie volume 5-158. 出典:Wikipedia

ドゥニ・ディドロ(Denis Diderot)、ジャン・ル・ロン・ダランベール(Jean Le Rond d'Alembert)が中心となって編集された『百科全書』(L'Encyclopédie)には、コーヒーについての項目がある。コーヒーの植物と飲み物に関する「カフェ(CAFFÉ)」、コーヒーを使用する場所に関する「カフェ(Caffés)」、コーヒーなど様々な飲み物を販売する権利を有する「カフェティエ(CAFFETIER)」の3つの項目があり、カフェ(CAFFÉ)は「自然の歴史 植物( Histoire naturelle | Botanique)」、カフェ(Caffés)は「未分類(unclassified)」 、カフェティエ(CAFFETIER)は「商業(Commerce)」の項目に分類されている。

カフェ(CAFFÉ)の項目は、ドゥニ・ディドロとユルバン・デ・ヴァンデネッセ(Urbain de Vandenesse)によって執筆された。しかし、実際の記述は、ド・ジュシュー(de Jussieu)の1713年の科学アカデミー所蔵の論文からの引用であるため、ここに見られるのは1713年時点の情報である。

当時のフランスでは、果実全体を乾燥させたものは「カフェ・オン・コク(caffé en coque)」、外側の覆いを取り除いたものは「カフェ・モンデ(caffé mondé)」と呼ばれた。現在でいうところ、カフェ・オン・コクはナチュラル精製、カフェ・モンデはウォッシュト精製にあたるだろう。

また、「カフェ・モンデ(caffé mondé)」、「カフェ・ロティ(caffé rôti)」、「フルール・ドゥ・カフェ(fleur de caffé)」の3つ抽出方法があったと述べられている。カフェ・ロティは、焙煎したカフェ(CAFFÉ)から液体を抽出する方法である。フルール・ドゥ・カフェは、カフェ(CAFFÉ)の殻から液体を抽出する方法である。モカから戻ったフランス人が誤って付けた名前であり、「カフェ・ア・ラ・スルタン(caffé à la sultane)」とも呼ばれていた。ギシルやサルタナコーヒー、現在のカスカラがこれに近い。カフェ・ロティはカフェ・モンデよりも好ましい抽出方法であったが、カフェ・モンデがどのような抽出方法であったかはよくわからない。

輸送中に海水に浸ったコーヒーは、「カフェ・マリーン(Caffé mariné)」と呼ばれていた。カフェ(CAFFÉ)の項目に塩分に関する記述があるのは、輸送中に海水に浸ることがあり、「海水の塩辛さは、焙煎によって取り除かれないため」、液体からも塩味を感じることがあったからかもしれない。しかし、カフェ・マリーンはあまり人気がなかったようである。

カフェティエ(CAFFETIER)

"Habit de cabaretier, habit de limonadier et habit d'épicier", gravure de Nicolas II Larmessin, l'aîné (1638-1694). 出典:Paris, musée Carnavalet.

カフェティエ(CAFFETIER)は、カフェ(CAFFÉ)、茶、チョコレートなどの販売する権利を有する者のことである。

ニコラ・ド・ラルメサン2世(Nicolas II Larmessin,1638 - 1694)のこの版画には、中央のリモナディエ(Limonadier)にカフェ(CAFFÉ)の文字が読み取れる。そのため、17世紀頃までカフェ(CAFFÉ)を含めたあらゆる飲み物は、リモナディエ(Limonadier)によって販売されていたと考えられる。

Habit de Caffetier 出典:Victoria and
Albert Museum

カフェティエ(CAFFETIER)はリモナディエ(Limonadier)のコミュニティから派生して生まれ、カフェティエ(CAFFETIER)が非アルコール飲料を、リモナディエ(Limonadier)がアルコール飲料を販売するように役割が分担されるようになったと思われる。

『百科全書』に関する日本語の文献で、コーヒーに関する項目に触れているものに岩切 正介「ブルボン王朝下のコーヒーとカフェ(1)」があり、抄訳が挙げられているが、それ以外には見当たらない。『百科全書』それ自体については、岩波文庫の『百科全書―序論および代表項目』が手に取りやすい。

 フランスは、その農業や、第一次的または第二次的必要の製造業を没落に委ねたところで、なお豊富な商業の分野をもつだろう。インドの胡椒、植民地の砂糖とコーヒー、油やブドウ酒などは外国にあたえる交換物となるだろうし、そこからフランスは奢侈の一部を引き出すであろう。長い間、ヨーロッパから讃美されていたこの国民は、今日もなお模倣されている。かりに、奢侈が土地や、第一次的または第二次的必要の製造業の生産物に比較して過大であるとしても、この奢侈は自分自身に対する緩和剤となり、たくさんの流行品労働者を養って、国家の崩壊を遅らせるであろう。

ディドロ、ダランベール編『百科全書―序論および代表項目』,桑原 武夫訳編.p.262

L'Encyclopédie:https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k50533b/f3.item

カフェ「自然の歴史 植物」ドゥニ・ディドロ、ユルバン・デ・ヴァンデネッセ

カフェ

*カフェ「自然の歴史 植物」は、 1715年にド・ジュシュー氏が述べたように、「カフェ」がヨーロッパで知られるようになってから約60年間、非常に多くの人がその起源を知らずにカフェについて書いてきたので、我々に残された記述に基づいてカフェの歴史を書こうとすると、誤りの数が非常に多いため、1つの論文ですべてを報告することはできないだろう。

我々が今から述べることは、「1713年の科学アカデミー所蔵」の論文からの引用である。この論文はド・ジュシュー氏によるもので、著者の名前は事実を保証するのに十分である。ド・ジュシュー氏によると、ヨーロッパでこの木が栽培されるようになったのは、モカからバタヴィアへ、バタヴィアからアムステルダムの庭園へ持ち込んだ、オランダ人のためであった。フランスは、砲兵の中将であり、植物学のアマチュアであるド・レソン氏の熱意に感謝している。彼は王の庭園のために、オランダから取り寄せたこの木の若い苗を贈った。今ではごく普通に見られるようになり、次々と花や実をつける姿が見られるようになった。

この木は、ド・ジュシュー氏が報告したときに、王の庭園にあった状態で、高さは5ピエ、大きさは1プッス程度であった。枝は幹の全長に沿って空間から空間へと伸び、常に2つずつ向かい合っており、1対が他の対を横切るように配置されている。それらはしなやかで丸みを帯びており、間隔を置いてこぶがあり、幹と同様に非常に細かい白っぽい樹皮で覆われているが、乾燥するとひび割れる:その木は少し硬く、味は甘さがある;下部の枝は通常単純で、幹の終わる上部の枝よりも水平に伸び、葉の脇(枝と枝から生える葉の境目部分)から始まる他の小さな枝に分かれ、幹の枝と同じ順序を保つ。あるものも他のものも、常にすべての葉を支えており、その輪郭には葉の縁(ふち)のぎざぎざがなく、両端が鋭く、枝の節から出ており、普通の月桂樹の葉に似ているものが、2つずつ向かい合っている;この違いは、それらがより乾燥していなく、厚みが少なく、通常はより幅が広く、端がより尖っていて、しばしば片側に傾いていることである; それらは明るく美しい緑色で上面は光沢があり、下面は淡い緑色で、生えたてでは黄緑色であることがわかる;縁(ふち)が波打っているのは、栽培によるものかもしれないが、結局は味は香りがなく、草っぽいだけである。その葉の最大のものは、その幅の大きいところで約2プッス、長さは4から5プッスである;尾は非常に短い。ほとんどの葉の脇から、5つまで花を咲かせ、それを短い茎で支える;茎が短く、切り口が狭いことを除けば、大きさや形はスペインのジャスミンとほぼ同じで、すべて白色の一体型であり、我々のジャスミンでは2本しかないところに、上部が黄色がかった5本の白い雄しべが付いている:これらの雄しべは、花の茎から溢れ出て、緑色の萼の底にある胚または雌しべを、大小2つずつの点が、交互に配置された4つの点で超える分岐した型を取り囲む。これらの花は、非常に早く枯れ、甘くて素晴らしい香りがする。胚または若い果実は、およそビガローほどの大きさと形になり、先端はへそになっていて、最初は薄緑色、次に赤みがかった色、次に美しい赤色、完熟すると最終的に暗赤色になる。その果肉はぬるぬるしていて、嫌な味がするが、乾燥させると、我々の知っている乾燥した黒いプルーンのようになり、この果肉の大きさは月桂樹の果実のそれにまで小さくなる。この果肉はしっかりと結合した、楕円形の、2つの薄い殻を覆う役割を果たしている、背面は丸く、結合する場所で平らになり、黄色がかった白色をしており、それぞれに硬い種子が含まれている。いわば楕円形で、背面はアーチ型で、反対側は平らで、中央と同じ側の全長にわたって、かなり深い溝でくぼんでいる。その味はアラビアから持ち込まれる「カフェ」の味に非常によく似ている:2つの種子のうち1つが損じると、残った1つは通常、より大きな体積を獲得し、2つの側面はより凸状になり、果実の中央部だけを占めるようになる。

この果実全体を乾燥させたものは「カフェ・オン・コク」と呼ばれ;そして種子を自身(パーチメント)と共有(果肉と外皮を含んだ全体)の覆いから取り除いたものは「カフェ・モンデ」と呼ばれる。

植物の説明の後のこの記述によって、「カフィエ」と呼ばれる、「カフェ」の木は、その花の形状、果実の構造、葉の配置を考慮すると、ジャスミンよりも適した属に分類することはできないと容易に判断できる。

この木は、原産国ではもちろん、バタヴィアでも、40ピエの高さにまで成長する;幹の直径は4から5プッスを超えない:それは丁寧に栽培される;季節を問わず実を結び、ほとんど常に花を咲かせる。年に2から3回、非常に豊かな収穫が得られる。発芽後3年目または4年目から実り始め、若木に比べ、老木は実りが少ない。

フランス語の「カフェ」、英語やオランダ語の「コーヒー」は、どちらもこの植物から作った飲み物にトルコ人が与えた名前、「カウエ」に由来する。

栽培に関しては、他の多くの植物の種と同様に、「カフェ」の種子をごく最近植えたのでなければ、発芽が見られることを期待してはいけないことは確実である。王室の庭園で1年間栽培された木の種子は、収穫してすぐに植えたところ、6週間後にはほとんどすべての芽が出ていた。この事実は、「カフェ」が栽培されている国の住民が、外国人に販売するカフェをすべて沸騰したお湯に浸したり、火で乾燥させたりするために、彼らに帰属された悪意を正当化するものであると、ド・ジュシュー氏は述べる。

これらの種子の発芽には何も共通点がない。

この植物を保存可能な場所については、この植物が元々生まれ、冬に強く影響されない国に関係しなければならないため、これまではオランダのような温室で、適度な火を焚き、穏やかな熱を保つことで、気温や気候の不足を補わざるを得なかった;また、この植物の乾燥を防ぐために、時々適度な水を与える必要があることが観察される。

これらの予防法が栽培を困難にしているのであれ、トルコ人が生来から怠惰であるのであれ、それらの支配下にある他の国で増やすことを怠ってきた;アラビアのイエメン王国以外よりも、それが豊かに成長するのが見られるという利点がある国を我々はまだ知らない;このことが16世紀以前にはその使用法がほとんど知られていなかった原因であると思われる。

アラビアのある修道院の院長が、この果実を食べたヤギに効果があったという報告を受けて、夜通しの合唱の礼拝で眠気に襲われていた修道士たちを目覚めさせようと、彼らにこの果実の抽出液を飲ませたことが、この現象の最初の経験であるべきかどうか機会を与え、調査することの真実を報告することは他の人に任せる;あるいは、この発見をあるムフティの敬虔さに帰属する必要があるとしたら、彼らはより長い祈りをし、最も敬虔なダルヴィーシュよりも集中力を高めるために、最初にそれを使用したことになった。

この時以来、トルコ人、ペルシャ人、アルメニア人、さらにはヨーロッパの様々な国の人々の間で、その使用は非常によく知られるようになったので、その準備や、使用する容器や器具の品質に関しては、これ以上広げることは無意味である。

「カフェ・モンデ」と自然な状態の形にあるもの、「カフェ・ロティ」、モカから戻った我々フランス人が誤って「フルール・ドゥ・カフェ」と名付けた、この物質自身と共有の覆いだけを使うという、3つの抽出方法があることを知っておくのは良い観察者である;これらの方法の2番目は1番目の方法よりも好ましく、3番目の方法は「カフェ・ア・ラ・スルタン」とも呼ばれている。

モカから運ばれてくる大きく白っぽいものと、メッカのキャラバンによってカイロから運ばれてくる小さく緑っぽいものとの間で、こちらのものは最も熟していて、味が素晴らしく、痛みの少ないものが選ばれていなければならない。

鉄や青銅の容器がそれに伝達できるという印象を避けるために、焙煎するためのすべての容器の中で、最もふさわしいものは、釉薬をかけた磁器である。

十分に焼けた、あるいは焙煎された印は、紫色に近い色であり、これは開放されている容器で焙煎されなければ見ることができない。

それは抽出したい時だけ粉砕する必要がある:この目的のために、2つまたは3つの部品で構成される小さな携帯型のミルを使用する;焙煎した「カフェ」を入れるホッパーの役割をするネック部分があり、穴の開いた蓋で閉じられている;ナットは、それを隠しているミルの小箱や本体の木に支持および固定されていて、その中でそれ自体によって動く:ナットに相当する軸の部分は鉄でできており、歯でカットされる;ナットの下には挽いている最中の「カフェ」を受け取る小箱がある。「タイの図参照」。 3 コーヒーミル、r s はすべて組み立てられている; 図4 m m l、k、o p p、n、他のミルとその詳細。 図4はr s ミルから分離された木である:m m l、他のミル;;m、その木;k、その基礎部分;n、中央部の断面; o、そのナット;図 r s、rはホッパーである。

そして沸騰した水に入れると、まず冷たい水で淹れたときよりも、抽出はより素晴らしくなり、その揮発性成分の散逸も少なくなる。

その作用と利点の方法については、「カフェ」から分離し、焼いたときにその表面に現れる油状の物質、そして節約のために「カフェ」の代わりに使われるライ麦、大麦、エンドウ豆、豆、その他の種子と区別される特有の匂いが、その効果を如実に示しているに違いないが、これは加熱によって引き出される油との関係から判断すると、塩分と同様に硫黄の、揮発性成分も、同じくそこに含まれているからである。

その塩分の分解と、血液への硫黄の混入によって、覚醒状態を保つという主な効能があり、抽出液の最も重要な効果として常に指摘されてきた。食後に摂取することで、消化を早め、栄養吸収を促進し、肉の生成を防ぎ、嫌な刺激を消し去るという特性はここから来ている。

これにより血液中に発酵が起こり、太っている人たち、大食漢、粘質物、偏頭痛のある人たちには有効であるが、痩せている人たち、胆汁質、非常に頻繁に使用する人たちには有害となる。

そしてこれがこの飲み物に利尿作用がある理由でもある。

実験では、この抽出液の飲み方については、非難されないよういくつかの予防措置が講じられた:それを下剤にするために、事前に1杯の水を飲むというようなことである;不快感を与える苦味を砂糖で調整し、それを混ぜたり、硫黄を消し、塩分を阻害し、栄養価を高めるために、時にはミルクやクリームでそれを作る。

ともあれ我々が知っているような確かな美徳がなくとも、口の中に不快な臭いが残らず、精神の乱れを引き起こさないというワイン以上の利点が常にあると、「カフェ」を支持することについて述べることができる;それどころかこの飲み物は、ホメロスによって賞賛された有名なネペンテスのように、人を元気づけ、仕事により適した状態にし、再生させ、憂鬱を消し去ることを容易にするようである。「王立科学アカデミーの回顧録、1713年、299ページ。」

パリ大学医学部の医学博士である、大ロルテ氏は、「カフェ」の抽出液に関する観察を行ったが、ここで報告することは無駄ではない。ヤブ医者から、長い間苦しめられてきた頑固な咳を止めるのに、適切な組成物の使用を勧められたある男が、そこに含まれる成分を知らされることなく、その治療薬を服用した:この男性は突然、眠気とかなりの息苦しさに襲われ、それに伴って通常の排泄がすべて抑制され、唾液も尿も出なくなった。ロルテ氏が呼ばれ、この男性が服用した薬の性質を知らされ、すぐに瀉血を命じた:しかし、毒物が血液を凝固させていたため、この方法では腕からも足からも血液が出てこなかった:医師は、砂糖を含まない「カフェ」の強力な抽出液を数杯飲むように命じた、すると5時間から6時間もしないうちに、4つの切開部から出血するほど血液が相当十分な動きを取り戻し、この患者は回復した。

デンマークの医師、シモン・ポーリは、これは男性を酔わせ、生殖能力を失わせると主張した。トルコ人もこれに同様の効果を認めており、彼らがそれを大量に使用していることが、彼らが占める地方が以前は非常に人口が多かったにも関わらず、今では非常に少ない原因であると考えている。しかし、デュフールは彼の「カフェ、茶、チョコレートに関する論考」の中で、この意見に反論している。

マールブランシュ神父は科学アカデミーで、彼の知人の男性が「カフェ」の数回の浣腸の方法によって脳卒中を治したと紳士諸君に断言した:他の人々は同様の方法を用い、激しく日常的な頭痛から解放されたと述べた。

「カフェ」の取引はかなりの量に及ぶ:イエメン王国の住民だけで年間数百万の「カフェ」を取引していると断言される;その膨大な消費量を考慮すれば、信じるのに難しくはないだろう。

「カフェ・マリーン」:輸送中に海水に浸ったカフェのことはこのように呼ばれる:海水の塩辛さは、焙煎によって取り除かれないため、あまり人気がない(あまり関心を持たれない)。

*un pié=1 feet=12 inch、un pouce=1 inch

CAFFÉ   [ Histoire naturelle | Botanique ]   Diderot, Denis & Vandenesse, Urbain de 

CAFFÉ

* CAFFÉ, s. m. (Hist. nat. bot.) Depuis environ soixante ans, disoit M. de Jussieu en 1715, que le caffé est connu en Europe, tant de gens en ont écrit sans connoître son origine, que si l'on entreprenoit d'en donner une histoire sur les relations qu'on nous en a laissées, le nombre des erreurs seroit si grand, qu'un seul memoire ne suffiroit pas pour les rapporter toutes.

Ce que nous en allons dire est tiré d'un mémoire contenu dans le recueil de l'Académie des Sciences, année 1713. Ce mémoire est de M. de Jussieu, le nom de l'auteur suffit pour garantir les faits. L'Europe, dit M. de Jussieu, a l'obligation de la culture de cet arbre aux soins des Hollandois, qui de Moka l'ont porté à Batavia, & de Batavia au jardin d'Amsterdam. La France en est redevable au zele de M. de Ressons, lieutenant général de l'Artillerie, & amateur de la Botanique, qui se priva en faveur du jardin du Roi, d'un jeune pié de cet arbre qu'il avoit fait venir de Hollande. Il est maintenant assez commun, & on lui voit donner successivement des fleurs & des fruits.

Cet arbre dans l'état où il étoit au jardin du Roi, lorsque M. de Jussieu fit son mémoire, avoit cinq piés de hauteur & la grosseur d'un pouce ; il donne des branches qui sortent d'espace en espace de toute la longueur de son tronc, toûjours opposées deux à deux, & rangées de maniere qu'une paire croise l'autre. Elles sont souples, arrondies, noüeuses par intervalles, couvertes aussi bien que le tronc, d'une écorce blanchâtre fort fine, qui se gerse en se desséchant: leur bois est un peu dur & douçâtre au goût ; les branches inférieures sont ordinairement simples, & s'étendent plus horisontalement que les supérieures qui terminent le tronc, lesquelles sont divisées en d'autres plus menues qui partent des aisselles des feuilles, & gardent le même ordre que celles du tronc. Les unes & les autres sont chargées en tout tems de feuilles entieres, sans dentelures ni crenelures dans leur contour, aiguës par leurs deux bouts, opposées deux à deux, qui sortent des noeuds des branches, & ressemblent aux feuilles du laurier ordinaire ; avec cette différence qu'elles sont moins seches & moins épaisses, ordinairement plus larges, plus pointues par leur extrémité, qui souvent s'incline de côté; qu'elles sont d'un beau verd gai & luisant en-dessus, verd pâle en-dessous, & verd jaunâtre dans celles qui sont naissantes ; qu'elles sont ondées par les bords, ce qui vient peut-être de la culture, & qu'enfin leur goût n'est point aromatique, & ne tient que de l'herbe. Les plus grandes de ses feuilles ont deux pouces environ dans le fort de leur largeur, sur quatre à cinq pouces de longueur ; leurs queues sont fort courtes. De l'aisselle de la plûpart des feuilles naissent des fleurs jusqu'au nombre de cinq, soûtenues par un pédicule court ; elles sont toutes blanches, d'une seule piece, à peu près du volume & de la figure de celles du jasmin d'Espagne, excepté que le tuyau en est plus court, & que les decoupures en sont plus étroites, & sont accompagnées de cinq étamines blanches à sommets jaunâtres, au lieu qu'il n'y en a que deux dans nos jasmins : ces étamines débordent le tuyau de leurs fleurs, & entourent un style fourchu qui surmonte l'embryon ou pistil placé dans le fond d'un calice verd à quatre pointes, deux grandes & deux petites, disposées alternativement. Ces fleurs passent fort vîte, & ont une odeur douce & agréable. L'embryon ou jeune fruit, qui devient à peu-près de la grosseur & de la figure d'un bigarreau, se termine en ombilic, & est verd clair d'abord, puis rougeâtre, ensuite d'un beau rouge, & enfin rouge obscur dans sa parfaite maturité. Sa chair est glaireuse, d'un goût desagréable, qui se change en celui de nos pruneaux noirs secs, lorsqu'elle est séchée, & la grosseur de ce fruit se réduit alors en celle d'une baie de laurier. Cette chair sert d'enveloppe à deux coques minces, ovales, étroitement unies, arrondies sur leur dos, applaties par l'endroit où elles se joignent, de couleur d'un blanc jaunâtre, & qui contiennent chacune une semence calleuse, pour ainsi-dire ovale, voutée sur son dos, & plate du côté opposé, creusée dans le milieu & dans toute la longueur de ce même côté, d'un sillon assez profond. Son goût est tout-à-fait pareil à celui du caffé qu'on nous apporte d'Arabie : une de ses deux semences venant à avorter, celle qui reste acquiert ordinairement plus de volume, a ses deux côtés plus convexes, & occupe seule le milieu du fruit. Voyez Plan. XXVIII. d'Hist. nat. fig. 3.

On appelle caffé en coque, ce fruit entier & desséché; & caffé mondé, ses semences dépouillées de leurs enveloppes propres & communes.

Par cette description faite d'après nature, il est aisé de juger que l'arbre du caffé, que l'on peut appeller le caffier, ne peut être rangé sous un genre qui lui convienne mieux que sous celui des jasmins, si l'on a égard à la figure de sa fleur, à la structure de son fruit, & à la disposition de ses feuilles.

Cet arbre croît dans son pays natal, & même à Batavia, jusqu'à la hauteur de quarante piés ; le diametre de son tronc n'excede pas quatre à cinq pouces : on le cultive avec soin ; on y voit en toutes les saisons des fruits, & presque toûjours des fleurs. Il fournit deux ou trois fois l'année une récolte très abondante. Les vieux piés portent moins de fruit que les jeunes, qui commencent à en produire dès la troisieme & quatrieme année après la germination.

Les mots caffé en François, & coffee en Anglois & en Hollandois, tirent l'un & l'autre leur origine de caouhe, nom que les Turcs donnent à la boisson qu'on prépare de cette plante.

Quant à sa culture, on peut assûrer que si la semence du caffé n'est pas mise en terre toute récente, comme plusieurs autres semences des plantes, on ne doit pas espérer de la voir germer. Celles de l'arbre qu'on cultivoit depuis une année au Jardin-royal, mises en terre aussi-tôt après avoir été cueillies, ont presque toutes levé six semaines après. Ce fait, dit M. de Jussieu, justifie les habitans du pays où se cultive le caffé, de la malice qu'on leur a imputée de tremper dans l'eau bouillante, ou de faire sécher au feu tout celui qu'ils débitent aux étrangers, dans la crainte que venant à élever comme eux cette plante, ils ne perdissent un revenu des plus considérables.

La germination de ces semences n'a rien que de commun.

A l'égard du lieu où cette plante peut se conserver, comme il doit avoir du rapport avec le pays dans lequel elle naît naturellement, & où l'on ne ressent point d'hyver, on a été obligé jusqu'ici de suppléer au défaut de la température de l'air & du climat par une serre à la maniere de celles de Hollande, sous laquelle on fait un feu modéré, pour y entretenir une chaleur douce ; & l'on a observé que pour prevenir la sécheresse de cette plante, il lui falloit de tems en tems un arrosement proportionné.

Soit que ces précautions en rendent la culture difficile, soit que les Turcs, naturellement paresseux, ayent négligé le soin de la multiplier dans les autres pays sujets à leur domination ; nous n'avons pas encore appris qu'aucune contrée que celle du royaume d'Yemen en Arabie, ait l'avantage de la voir croitre chez elle abondamment ; ce qui paroît être la cause pour laquelle avant le xvi. siecle son usage nous etoit presqu'inconnu.

On laisse à d'autres le soin de rapporter au vrai ce qui y a donné occasion, & d'examiner si l'on en doit la premiere expérience à la vigilance du supérieur d'un monastere d'Arabie, qui voulant tirer ses moines du sommeil qui les tenoit assoupis dans la nuit aux offices du choeur, leur en fit boire l'infusion, sur la relation des effets que ce fruit causoit aux boucs qui en avoient mangé; ou s'il faut en attribuer la découverte à la piété d'un mufti, qui pour faire de plus longues prieres, & pousser les veilles plus loin que les dervis les plus dévots, a passé pour s'en être servi des premiers.

L'usage depuis ce tems en est devenu si familier chez les Turcs, chez les Persans, chez les Arméniens, & même chez les différentes nations de l'Europe, qu'il est inutile de s'étendre sur la préparation, & sur la qualité des vaisseaux & instrumens qu'on y employe.

Il est bon d'observer que des trois manieres d'en prendre l'infusion, savoir, ou du caffé mondé & dans son état naturel, ou du caffé rôti, ou seulement des enveloppes propres & communes de cette substance, auxquelles nos François au retour de Moka ont improprement donné le nom de fleur de caffé ; la seconde de ces manieres est préférable à la premiere, & à la troisieme appellée aussi caffé à la sultane.

Qu'entre le gros & le blanchâtre qui nous vient par Moka, & le petit verdâtre qui nous est apporté du Caire par les caravanes de la Meque, cetui-ci doit être choisi comme le plus mûr, le meilleur au goût, & le moins sujet à se gâter.

Que de tous les vaisseaux pour le rôtir, les plus propres sont ceux de terre vernissée, afin d'éviter l'impression que ceux de fer ou d'airain peuvent lui communiquer.

Que la marque qu'il est suffisament brûlé ou rôti est la couleur tirant sur le violet, qu'on ne peut appercevoir qu'en se servant pour le rôtir d'un vaisseau découvert.

Que l'on ne doit en pulvériser qu'autant & qu'au moment que l'on veut l'infuser : on se sert pour cet effet d'un petit moulin portatif, composé de deux ou trois pieces ; d'une gorge qui fait la fonction de trémie, dans laquelle on met le caffé grillé, & qu'on bouche d'un couvercle percé d'un trou ; d'une noix dont l'arbre est soûtenu & fixé dans le coffre ou le corps du moulin qui la cache, & dans lequel elle se meut sur elle-même : la partie du coffre qui correspond à la noix est de fer, & taillée en dent ; il y a au-dessous de la noix un coffret qui reçoit le caffé à mesure qu'il se mond. Voyez Plan. du Tailland. 3 un moulin à caffé, r s tout monté; & dans les fig. 4. m m l, k, o p p, n, un autre moulin & son detail. La fig. 4. est l'arbre séparé du moulin r s : m m l, autre moulin ; m, son arbre ; k, son embase ; n, sa coupe par le milieu ; o, sa noix ; fig. r s, r est la trémie.

Et qu'étant jetté dans l'eau bouillante, l'infusion en est plus agréable, & souffre moins de dissipation de ses parties volatiles, que lorsqu'il est mis d'abord dans l'eau froide.

Quant à sa maniere d'agir & à ses vertus, la matiere huileuse qui se sépare du caffé, & qui paroît sur sa superficie lorsqu'on le grille, & son odeur particuliere qui le fait distinguer du seigle, de l'orge, des pois, des feves, & autres semences que l'épargne fait substituer au caffé, doivent être les vraies indications de ses effets, si l'on en juge par leur rapport avec les huiles tirées par la cornue, puisqu'elle contient aussi-bien que celles-là, des principes volatils, tant salins que sulphureux.

C'est à la dissolution de ses sels, & au mêlange de ses soufres dans le sang, que l'on doit attribuer la vertu principale de tenir éveillé, que l'on a toûjours remarquée comme l'effet le plus considérable de son infusion. C'est de-là que viennent ses propriétés de faciliter la digestion, de précipiter les alimens, d'empêcher les rapports des viandes, & d'éteindre les aigreurs, lorsqu'il est pris après le repas.

C'est par-là que la fermentation qu'il cause dans le sang, utiles aux personnes grasses, replettes, pituiteuses, & à celles qui sont sujettes aux migraines, devient nuisible aux gens maigres, bilieux, & à ceux qui en usent trop fréquemment.

Et c'est aussi ce qui dans certains sujets rend cette boisson diurétique.

L'expérience a introduit quelques précautions qu'on ne sauroit blâmer, touchant la maniere de prendre cette infusion : telles sont celles de boire un verre d'eau auparavant, afin de la rendre laxative ; de corriger par le sucre l'amertume qui pourroit la rendre desagréable, & de la mêler, ou de la faire quelquefois au lait ou à la creme, pour en éteindre les soufres, en embarrasser les principes salins, & la rendre nourrissante.

Enfin l'on peut dire en faveur du caffé, que quand il n'auroit pas des vertus aussi certaines que celles que nous lui connoissons, il a toûjours l'avantage par-dessus le vin de ne laisser dans la bouche aucune odeur desagréable, ni d'exciter aucun trouble dans l'esprit ; & que cette boisson au contraire semble l'égayer, le rendre plus propre au travail, le récréer, en dissiper les ennuis avec autant de facilité, que ce fameux Népenthe si vanté dans Homere. Mémoires de l'Académie royale des Sciences, année 1713, page 299.

M. Leaulté pere, docteur en Medecine de la Faculté de Paris, a fait une observation sur l'infusion de caffé, qu'il n'est pas inutile de rapporter ici. Un homme à qui un charlatan avoit conseillé l'usage d'une composition propre, à ce qu'il disoit, à arrêter une toux opiniâtre qui le tourmentoit depuis longtems, prit le remede, sans être instruit des ingrédiens qui y entroient : cet homme fut tout-à-coup saisi d'un assoupissement & d'un étouffement considérable, accompagnés de la suppression de toutes les évacuations ordinaires, plus de crachats, plus d'urine, &c. On appella M. Leaulté, qui informé de la nature des drogues que cet homme avoit prises, lui ordonna sur le champ une saignée : mais le poison avoit figé le sang, de maniere qu'il n'en vint ni des bras ni des piés : le medecin ordonna plusieurs tasses d'une forte infusion de caffé sans sucre, ce qui en moins de cinq à six heures restitua au sang un mouvement assez considérable pour sortir par les quatre ouvertures, & le malade guérit.

Simon Pauli, medecin Danois, a prétendu qu'il enivroit les hommes, & les rendoit inhabiles à la génération. Les Turcs lui attribuent le même effet, & pensent que le grand usage qu'ils en font est la cause pour laquelle les provinces qu'ils occupent, autrefois si peuplées, le sont aujourd'hui si peu. Mais Dufour réfute cette opinion, dans son Traité du caffé, du thé, & du chocolat.

Le pere Malebranche assûra à MM. de l'Académie des Sciences, qu'un homme de sa connoissance avoit été guéri d'une apoplexie par le moyen de plusieurs lavemens de caffé: d'autres disent qu'employé de la même maniere, ils en ont été délivrés de maux de tête violens & habituels. (N)

Le commerce du caffé est considérable : on assûre que les seuls habitans du royaume d'Yemen en débitent tous les ans pour plusieurs millions ; ce qu'on n'aura pas de peine à croire, si l'on fait attention à la consommation prodigieuse.

Caffé mariné ; c'est ainsi qu'on appelle celui qui dans le transport a été mouillé d'eau de mer : on en fait peu de cas, à cause de l'acreté de l'eau de mer, que la torréfaction ne lui ôte pas.

CAFFÉ   [ Histoire naturelle | Botanique ] :https://artflsrv03.uchicago.edu/philologic4/encyclopedie1117/navigate/2/4622/

カフェ「未分類」

カフェ「未分類」

カフェ
カフェ:それはカフェが使用されるようになった場所である:そこではあらゆる種類の飲み物が飲まれる。それはまた良かれ悪しかれ精神の工場でもある。

Caffés   [ unclassified ]

Caffés
Caffés: ce sont des lieux à l'établissement desquels l'usage du caffé a donné lieu : on y prend toutes sortes de liqueurs. Ce sont aussi des manufactures d'esprit, tant bonnes que mauvaises.

Caffés   [ unclassified ]:https://artflsrv03.uchicago.edu/philologic4/encyclopedie1117/navigate/2/4623/

カフェティエ「商業」

カフェティエ「商業」

カフェティエ
カフェティエ(商業)は、カフェ、茶、チョコレート、およびあらゆる種類の冷たいまたは温かい飲み物を公に販売する権利を有する者のこと。 「カフェティエ」はリモナディエのコミュニティから生まれた。リモナディエを参照。

CAFFETIER   [ Commerce ]

CAFFETIER
CAFFETIER, s. m. (Commerce.) celui qui a le droit de vendre au public du caffé, du thé, du chocolat, & toutes sortes de liqueurs froides & chaudes. Les Caffetiers sont de la communauté des Limonadiers. Voyez Limonadier.

CAFFETIER   [ Commerce ]:https://artflsrv03.uchicago.edu/philologic4/encyclopedie1117/navigate/2/4624/

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