鳥目散帰山人とは何者なのか?

鳥目散帰山人とは何者なのか?

鳥目散帰山人(とりめちる・きさんじん)と号する変わった男がいる。
まるでうがい薬みたいな雅名で、思いっきり「ガラガラガラ、ペーッ!」
とやったらさぞ気持ちがいいだろな、と思わせたりもするが、
実際に会うとなかなかの曲者で、「トリセツ」でもないと火傷しそうな
雰囲気を全身に漂わせている。

この帰山人、コーヒーの業界では〝超うるさ型〟で通っている。
コーヒー卸しとか喫茶店やカフェを経営しているわけではない。
ただのコーヒーフリークで、コーヒーにまつわることなら誰にも負けない
博覧強記、というのが大方の見方で、コーヒー関連のイベントや講演会には
ヒマでもあるのだろう、足繁く顔を出す。そして最後の質疑応答の場面では
われ先に手を挙げて、なんとも答えにくいような難問を投げかけては悦に入る、
という困った性格で、ギョーカイ内では世に聞こえた講演者泣かせの男なのである。

「生身の友より「ネト友」が好き」,「嶋中労」の浅酌低唱,2018年6月7日.

これはこの投稿から約半年後、2018年12月1日に7年ぶりの再開を果たすことになる嶋中労(しまなかろう)氏の言である。

帰山人、化学変化する

鳥目散帰山人(とりめちるきさんじん)氏とは何者なのか?

帰山人氏はコーヒーに狂ったせいで、カフェインそのものと化してしまった人物である。

カフェインとは何か?言うまでもなく、鳥目散帰山人である。

「玄呂玄さんとは?」,帰山人の珈琲漫考,2014年6月1日.

カフェインの別名は、1,3,7-トリメチルキサンチン(1,3,7-Trimethylxanthine)である。それがこのコーヒーに狂った人物によって、鳥目散帰山人へと化学変化してしまったのである。しかし、脳までが「コーヒー」に化けてしまったわけではない。

私の頭の中は「99パーセント」が「コーヒー」だと自認している。
脳がコーヒーの豆・粉・液などで構成されている意味では無いが、
「コーヒー」関連で思考連鎖が行なわれることは日常茶飯事である。

「嗜好の連鎖」,帰山人の珈琲漫考,2009年6月13日.

自らがカフェインのパロディと化した帰山人氏の思考連鎖はパロディである。パロディとは、つまり相手を風刺するためにその相手を真似る手法である。鳥目散帰山人の帰山人は、日本で早くにコーヒーを飲んだ蜀山人(しょくさんじん、大田南畝(おおたなんぽ))のパロディなのか?あるいは、「美・食の巨人」北大路魯山人(きたおおじろさんじん)のパロディなのか?

《「料理の美味不味は、十中九まで材料の質の選択にあり」と解してよい》こと、コーヒーやタバコでも同様であるが、この当然も声高に重ね過ぎれば鼻について鬱陶しい。北大路魯山人だろうがジョージ・ハウエルだろうが脳味噌まで湿気て腐った連中には、タバコとコーヒーを喫しながら「ウルサイ、バカヤロウ」と怒鳴りつけてやりたい。

「乾いた酩酊」,帰山人の珈琲漫考,2016年8月8日.

コーヒーの「超うるさ型」といっても、北王路魯山人のように、大上段から「美と食」を説くのではない。コーヒー狂いといっても、ましてジョージ・ハウエル(George Howell)のような「究極の審美家(The ultimate aesthete)」(マーク・ペンダーグラスト(Mark Pendergrast)) でもない。

料理に「究極」はない。それはセンチメンタルな道化だ。とどのつまり、料理人についても同じことがいえる。至高の料理人という考えそのものがばかげている。死んだ料理人は料理をつくらない、そのことを驚くにあたらない。料理人には志向や思考や嗜好がある者もいるのだろうが、料理人に「至高」はあり得ないのだ。

「料理人に至高なし」,帰山人の珈琲漫考,2018年8月13日.

「執心も技量も魯山人には及ばないが、大愚であることは倣いたい帰山人(「パラ魯山人」,帰山人の珈琲漫考コメント欄,2011年10月17日)」氏である。博覧強記だとか、歩く百科事典だとか評され、また自ら「珈琲狂」と称するように、コーヒーに関しては他の追随を許さないほどの知識と見識を持っている帰山人氏であるが、彼はコーヒーに「美」も「究極」も求めない。このあり方が、他のコーヒ狂いと一線を画しているのである。

何かに拘泥しているケチくさい人間の作るコーヒーなど欲しくない。
終わり無き精進を目指す私の珈琲は「いれこみの珈琲」でありたい。

「私的珈琲論序説〜はじめる前に」,帰山人の珈琲漫考,2009年2月5日.

「終わり無き精進を目指す」帰山人氏は、しかし苦行僧ではない。苦行僧のように究極を求めれば、それはすなわち迷走にいたる。それゆえに、価値を固定せざるを得なくなるのだ。

「珈琲の迷走は、喫茶体験の中で味覚が喫するという行為に優越するようになる、この瞬間に始まった。喫するということが、飲用をする理由であることをやめてしまったのだ。最も重要な段階は、口に入れるその瞬間になった。そして、飲み込んだ後にくる、感覚の融合や統合という価値観は、喫茶の地平からは消え去ってしまった。 こうした傾向は、珈琲が後追いしている。20世紀半ばまで優勢だった、珈琲が飲み手に及ぼす効果を含み込んだ、珈琲と覚醒の文化から、珈琲への関心が味覚の次元に集中する感のある、珈琲の香味の文化へと移行してしまった。だから、今日の珈琲分野での危機の大部分は、味覚の迷走に関わるものだ。」

「美食の迷走」,帰山人の珈琲漫考,2017年4月21日.

これは辻調グループ辻静雄料理教育研究所の研究顧問でコーヒー研究家でもある山内秀文(やまうちひでのり)氏が翻訳したジャン=ピエール・プーラン、エドモン・ネランク共著『フランス料理の歴史』(角川ソフィア文庫,2017年刊)の一節を、帰山人氏が書き換えたものである。

ワインや料理に遅れた文化であるコーヒーは、それらの価値体系を模倣した。そして、コーヒーも「試飲の際にも、最も重要な段階は、口に入れるその瞬間になった」ために、コーヒーは飲み込むものではなく、吐き出すものとなった。スペシャルティコーヒーの「カッピング」と称される審査は、そのようになされるのである。

さて、そのように嗜好品が審査される世界はどうなるのか?

私自身に関しては、現在の品質認証モノや品評会モノについて、
懐疑的な姿勢を残した「否定・消極」に近い立場である。
但し、それは世代感覚的に受け入れないこと以外にも理由はある。
嗜好性飲料の原材料たる農産品質を、ある特定の価値基準で
捉えることに加えて、その特定の価値基準がファディズムと化して、
肥大し迎合される風潮を醸成しているからである。

「卓越しないカップ」,帰山人の珈琲漫考,2009年2月19日.

これは単なる反権威・反権力ではない。巨大な力を行使して特定の価値基準を押し付けることは、衆愚政治の反転した形なのだ。

「民意」が誰なのか、私にはわからない。権力者も庶民も、ある一部はデモや声明で群れ、また一部は反対のデモや反論の声明で群れ、他の一部はそれらの群れを嘲って群れる。どの群集も、自らを「民意」と驕る‘群れ’である。私は、「民意」に気色悪さをおぼえて吐き気をもよおす。むやみやたらと同調して断定する、その「民意」自体が、感性も悟性も理性も失ってどれほど低落しているかに気がつかない、それを反転させようともしない、「民意」の気色悪さこそ白紙撤回させるべきである…あゝそれなのに。

「あゝそれなのに」,帰山人の珈琲漫考,2015年9月13日.

権力者も庶民も、ある一部はデモや声明で群れ、また一部は反対のデモや反論の声明で群れ、他の一部はそれらの群れを嘲って群れる。どの群集も、《絶望することを回避するあまり、現実から目をそらしてしま》った‘群れ’である。私は、「落差」を想う。‘群れ’に気色悪さをおぼえて吐き気をもよおすからだ。むやみやたらと同調して断定する、その‘群れ’自体が、感性も悟性も理性も失ってどれほど低落しているか…そこに気がつかない、それを反転させようともしない、《しかるべき絶望を感じるべき》時代の「落差」を想う。

「ラクサを想う」,帰山人の珈琲漫考,2015年1月19日.

帰山人氏は上からであれ下からであれ、特定の価値基準を押し付けようとする独善性を嫌う。

そもそも、人間が関与しない限りはコーヒー自体にスペシャルティもコモディティも区分がなかったのですから、そのような人間の都合と所業によって「コーヒーの良し悪し」を区分することを安易に好しとしません。

「CCAJ2018」,帰山人の珈琲漫考,2018年10月1日.

帰山人氏の好きな言葉は善悪不二と邪正一如である。彼にとって、自らが善と思っているやつは悪なのだ。

この鳥目散帰山人が最も好きな事のひとつは自分が正しいと思ってるやつに「NO」(ノー)と断わってやる事だ。

「徐徐に奇妙な暴言」,帰山人の珈琲漫考,2017年7月23日.

帰山人、遊ぶ

では、善悪の彼岸はどこなのか?遊戯の世界である。ヘラクレイトスと子供のサイコロ遊びである。帰山人氏は珈琲に戯れ、遊ぶのである。

私自身は明日起きてみたら、珈琲が大嫌いになっているかもしれません。でも、今は珈琲が好きです。珈琲に生きて、珈琲で遊んできました。明日も嫌いになっていなければ、珈琲を喫して、珈琲に戯れましょう。

帰山人の珈琲遊戯ホームページ

「嗜好」が、善悪の彼岸に「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人間)」を導く。

「嗜好の嵐がもたらすのは、知識でもなければ、善悪を区別する能力でもなければ、美醜を見分ける力でもない。帰山人が望むのは、思い及ぶことで自らが強くなること。危機的状況にあっても破滅に至らぬようにするためには、考え抜くことや思い巡らすことよりも前に、思い付くことや思い及ぶことが必要なのだ」

「Feels Like HELL」帰山人氏のコメント,帰山人の珈琲漫考,2014年2月6日.

フロイトは、「遊び」の反対は「真剣」ではないー「現実」である、といった。珈琲に「遊ぶ」のが帰山人氏なら、コーヒーの「現実」と向き合うのがホセ川島良彰(かわしまよしあき)氏である。

この1975年頃、当時小学生だった私は、初めて‘ウマイ’と思えるコーヒーに出会った。私の父が勤務先近くの店で豆と抽出器具を買ってきて、自宅でレギュラーコーヒーを淹れたのである。‘ウマイ’、だがもっともっと‘ウマイ’コーヒーがあるのではないか?…ホセが「コーヒー乃川島」を営む実家を出て‘コーヒーハンター’への歩みを踏み出した頃に、そんなこととは露知らぬ私は、「コーヒー乃川島」のコーヒーを喫して‘珈琲狂’への歩みを踏み出していたのである。

「珈琲への扉」,帰山人の珈琲漫考,2013年5月11日.

のちにコーヒーハンターとして有名になる川島氏の実家は、コーヒー乃川島というコーヒー会社である。コーヒー豆がうず高く積まれた倉庫で遊んでいた少年が、まだ見ぬコーヒーの世界を追い求め、静岡星光学院高校の卒業式を待たずに中米に旅立った頃、そこで「ウマイ」コーヒーの味を覚えた少年は、珈琲狂への歩みを踏み出したのである。

帰山人氏はこうして珈琲狂への歩みを踏み出した。彼が狂った道を歩みだしたのか?それとも狂っているのは世界のほうなのか?

ブンナ・カル(Bunna Qalu/Buna Qalla)という「屠殺されたコーヒー」が、姿と場を変え、世界中に伝播されていった都度に、コーヒーは消費地としてのイスラム社会を変え、ヨーロッパ社会を変え、アメリカ社会を変え、今やアジア社会を変えつつある。また、コーヒーの‘殺し’の‘負性’は、南アジア・東南アジア・カリブ海・中南米・アフリカの共同体を解体し、民族固有の文化と言語を破壊し、コーヒー生産地と称する土地へと変貌させてきた。つまりは、過去から現在に至るまで、確かにも‘コーヒーで世界は変えられた’のである。であるならば、現在から未来に至っても、十分に‘コーヒーで世界は変えられる’であろう。但し、例えば、コーヒーのテイスティング(カッピング)をする際、《味を知り、違いが分かるという満足感》のみに浸るのであれば、世界を変えるべきコーヒーは必ず滅びるであろう。例えば、コーヒーに《何が起こっているのかを知る》際に、《目の前に存在するこれこれのコーヒー豆がどこの土地でどれだけの大地を殺し、どれだけの水を殺したか》を読み取らなければ、人人はコーヒーも世界も滅ぼしてしまうだろう。「コーヒーで世界は変えられる」…それはコーヒーの‘殺し’の‘負性’から決して目を逸らさないサスティナビリティによる。

「謎解きはサロンの後で 後篇」,帰山人の珈琲漫考,2013年8月25日.

「日本サステイナブルコーヒー協会」 理事長でもある川島氏は、未来へと目を向け、コーヒーをサステナブル(Sustainable,持続可能な)なものにすることによって世界を変えようとする。それに対して、帰山人氏はサステナブルな世界を絶えず破壊してきたコーヒーの暗い歴史に目を向けるのである。

彼らは同じ場所から枝分かれしたのか?いや、そうではない。川島氏の原点は実家のコーヒー豆の倉庫だった。しかし、帰山人氏の原点は牧之原台地の茶畑である。

「あなたに、大切な香りの記憶はありますか?」と訊ねられたならば、私は「茶とコーヒーの香り」と答えるだろう。生まれ故郷では牧之原台地の茶畑で遊びながら育ち、長じて後はコーヒーに生きているのだから。

「香りへの道2」,帰山人の珈琲漫考,2018年7月23日.

この茶畑に遊んだ少年は、その後どのような道を歩んだのか?

私は静岡大学人文学部人文学科を、アメリカスペシャルティコーヒー協会(SCAA)が設立され(2月)、エルチチョン山が爆ぜた(3月)、その1982年の春に入学して、ブラジルでの前年の干魃による相場急騰により国際コーヒー協定(ICA)のクォータ(輸出割当枠)が停止され(3月)、チェルノブイリ原子力発電所が爆ぜた(4月)、その1986年の春に卒業した。

「あの時代を忘れない」,帰山人の珈琲漫考,2015年10月31日.

帰山人氏は大学で日本史学を専攻した。研究室には、湯之上隆(ゆのうえたかし)氏をはじめ、教官5名がいた。大学卒業後は、コーヒーとは無関係な職につき、玄人はだしの道を歩み続ける。

帰山人氏が珈琲に狂いはじめた1980年代、コーヒー界では、生豆ではなく、焙煎や抽出に重点が置かれ、「コーヒーの味は、焙煎8割、抽出2割で決まる」などと言われていた。しかし、帰山人氏は「生豆〜割、焙煎〜割、抽出〜割」などという評価はしない。

いったいコーヒー屋やコーヒーマニアが「美味(おい)しさの7割は生豆で決まる」と言ったならば要注意だ。必ず後に「焙煎や抽出にも手は抜けない」と続けるからだ。「生豆7割・焙煎2割・抽出1割」などと得意気に語る者のコーヒーが不味(まず)かったならば、「この不味さはどの段階が何割で不味いのか?」と訊いてやれ。菅原文太は蕎麦の味の良し悪しを「素材四分に人柄六分」と言っていた(季刊『新そば』97号/『そばと私』 文春文庫に収載)。コーヒーの香味の良し悪しを割や百分率で言い表す者は、人柄が理(わり)無い。日本珈琲狂会はこう言う…「美味しさは素材と技術と人柄を乗法(掛け算)した積で決まる」。

「珈琲駄物」,帰山人の珈琲漫考,2017年2月6日.

帰山人氏が説くのは、すべてのプロセスが同様に重要である、という至極まっとうなことである。

コーヒーの味に関して、加工技法と素材品質のいずれが影響し、
また重視されるべきか、は結論がでないし、でるはずもない。
そのどちらも、そしてそれ以外の要素も、皆重要であるからだ。
それ以上に大きな課題であるのは、
時代によって論点や視点そのものが偏重し過ぎるにも関わらず、
それに巻き込まれて偏狭な視座でコーヒーを語ってしまうこと、である。

「私的珈琲論序説〜章結」,帰山人の珈琲漫考,2009年2月6日.

帰山人、走る

帰山人氏は狂った世界を歩むのか?いや、走るのである。

「走るために生まれた」のは「私」だったのだ!全ての現世人類は「長く走るために進化した」!

「明日への快走」,帰山人の珈琲漫考,2010年5月8日.

帰山人氏が朝の一杯に、ネルドリップで淹れたマンデリンを喫するのは、定宿「ほていや」である。それから朝の遊びの走りへ。「ほていや」から泪橋交差点から明治通りを東へ進み、白鬚橋の直前で折れ、隅田川右岸の河川テラスを走る。そして、東京スカイツリーの直下へ。「ほていや」へと戻り、シャワーを浴びて行き着く先は、「ほていや」から徒歩3秒にある「カフェ・バッハ」である。

「カフェ・バッハ」の田口護(たぐちまもる)氏とママ(田口文子(たぐちふみこ)女史)に挨拶。カフェバッハでの二杯目、ドイツ風りんごのタルトを共にして。「ああ、バッハの朝は好い朝だ」。その後は、トレセンに寄ってセンター長、中川文彦(なかがわふみひこ)氏と談議である。

帰山人氏の談義はトレイルランニングのように長い。彼の談義は、田口氏をはじめ、時にはホセ(川島良彰氏)を、山内氏を、労師(嶋中労氏)を伴って延々と続く。談義でも帰山人氏の疾走は続く。それは時に何時間にも及ぶ。

帰山人氏の談義は、あるときは数少ない「日本珈琲狂会」会員の大坊勝次(だいぼうかつじ)氏を伴う。大坊氏の「大坊珈琲店(2013年に閉店)」は、帰山人氏が静岡県藤枝市の「コーヒーの苑」と並んで評価する店である。

「日本国内の珈琲店であと1回だけコーヒーが飲めます。選んでください」
と言われたならば、「大坊」か「その」店か、迷うなあ。
私にとっては、そういう空間でそういう至福の一杯を味わえる店である。
静岡県藤枝市にあるコーヒーの「苑」(その)、美味い店である。

「その美味い店」,帰山人の珈琲漫考,2009年6月2日.

また別のときには、コーヒー研究者(本職は微生物研究者)の旦部幸博(たんべゆきひろ)氏を伴う。

1969年 長崎県生まれ。京都大学大学院(薬学)修了。滋賀医科大学で学究するオヤジ。日本コーヒー文化学会を堪忍(タンニン)できず見限り、田口護に与した。知性派の中道。

「熱い方程式を解く2」,帰山人の珈琲漫考,2014年3月1日.

理系の科学者らしく、緻密で厳密な分析と論証によって一分の隙もない考察を企てるが、その正確性に縛られ蛮勇を振るうことのない旦部氏と、持ち前の諧謔精神により緻密な分析や論証も途中でなし崩しにしてしまうが、狂人のふりをすることによって向かう所敵なしといった帰山人氏との掛け合いが延々と続くのである。

コーヒー業界に重宝されるエリートな紳士の旦部氏が、コーヒーの謎解きをするシャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes) だとすれば、コーヒー業界から煙たがられる諧謔精神満載の帰山人氏は、ユーモアで本質を穿つモンティ・パイソン(Monty Python)といったところか。帰山人氏は『バカ歩き省(The Ministry of Silly Walks)』で、お盆の上でコーヒーをひっくり返した秘書のように、コーヒー業界の転覆を画策しているのか。

「まあ、簡単に言うと…」と言ってちっとも簡単じゃない話を長広舌する旦部ナントカ氏やナントカ帰山人氏のような愛好家は危険です。焦らないでコーヒーの勉強に励んで下さい。

「今週、妻が植木します」,帰山人の珈琲漫考,2014年4月22日.

しかし、談義の疾走も長すぎるのは良くない。

あまりやりすぎるとナントカ帰山人氏のように業界から煙たがられかねませんので、ほどほどにしておいた方がいいでしょう。 

「今週、妻が植木します」のコメント欄の旦部氏のコメント,帰山人の珈琲漫考,2014年4月22日.

帰山人氏はなぜコーヒー業界から煙たがられるのか?鳥目散帰山人がカフェインだからである。コーヒーの実が木から落ちて、その種に含まれるカフェインが土のなかに広がると、他の植物の発芽を抑制する。カフェインと化した帰山人氏も、不健全な芽を広げようとする他人のでしゃばりを打ち砕くのである。

会場には世に言う〝YKT48〟という「闇の御三家」のうちの「Y氏」と「T博士」が顔を
揃えていた。一番の大物と呼ばれる「K氏」こと鳥目散・帰山人(トリメチル・キサンジン)氏は
幸いにも欠席。講演者は一様にホッと胸をなで下ろしていた。なぜって、帰山人氏は
講演後の質疑応答では必ず質問に立ち、難問をぶつけては講演者を立ち往生させるからだ。
それが帰山人氏の隠微な、嗜虐的楽しみの一つなのである。

とにかくコーヒーおたくの〝くるくるぱー度〟がTOEICでいえば990点の最高点
という御仁なのだからいいかげんにあしらったら逆に火傷してしまう。
いつも難題を持ちかけ、講演者の困り果てた顔を見るのが人生最高の快事、
という男なのだから始末に悪い。

アマチュアがプロを完膚なきまでやっつける。こうした対決は見世物としては最高だろう。
だから講師陣の側はいつだって戦々恐々。コーヒー関連の催し物で、帰山人氏が
聴講しているか否かは、主催者側や講師陣の大きな関心事の一つなのである。

「恐怖の質疑応答」,「嶋中労」の浅酌低唱.

不用意に近づくと火傷するかもしれない。火傷をしそうなら、蜀山人の狂歌をさらなるパロディによって転倒させた内田百間の狂歌を突きつけてやるといい。

世の中に人が来るこそうれしけれとは云うもののお前ではなし

内田百間

帰山人、孤軍奮闘する

コーヒー業界から遠ざかったのか、遠ざけられたのか。ともかく、帰山人氏は一人戦う。

帰山人氏は自らの誕生日であり、婚姻記念日でもある2010年2月6日、日本珈琲狂会(Coffee Lunatic Club of Japan:略称CLCJ)を発足させ、2010年10月1日、日本コモディティコーヒー協会(Commodity Coffee Association of Japan:略称CCAJ)を創設した。日本コモディティコーヒー協会は日本珈琲狂会内に位置付けられるが、それぞれの活動内容の違いは不明である。

なお、2014年4月1日に日本コモディティコーヒー協会が一部分裂し、日本プレスティージコーヒー協会(Prestige Coffee Association of Japan:略称PCAJ)が発足した。初代会長に帰山人氏が就任したが、こちらはプロフィールにも記されておらず、知る人ぞ知る存在である。

また、日本珈琲狂会によるキャンペーン「破廉恥プレス」は、2011年4月1日にスタートしたが、こちらはその後の活動状況が不明である。

日本珈琲狂会の推薦図書

日本珈琲狂会推薦図書一覧は次のとおりである。

  1. 『旅のラゴス』 筒井康隆:著
  2. 『珈琲相場師』(原題:The Coffee Trader) デイヴィッド・リス(David Liss):著
  3. 『大どろぼうホッツェンプロッツ』(原題:Der Räuber Hotzenplotz)
    オトフリート・プロイスラー(Otfried Preußler):著
  4. 『もの食う人びと』 辺見庸:著
  5. 『JAMJAM日記』 殿山泰司:著
  6. 『コーヒーの店 -大阪-』 キダ・タロー:著
  7. 『珈琲店』(原題:La bottega del caffè) ゴルドーニ(Goldoni):作

なお、推薦図書の番外編として、『美味しい珈琲BOOK』 SEIBIDO MOOK (成美堂出版)が挙げられているが、こちらは帰山人氏が寄稿しているので、お手盛りである。

CCAJ賞とヴェルジ賞

毎年帰山人氏の独断にて、日本珈琲狂会と日本コモディティコーヒー協会により、名誉な賞である「CCAJ賞」(CLCJ Award 、または日本珈琲狂会アウォード)と、不名誉な賞である「ヴェルジ賞」(Verde Award)が発表される。帰山人氏により、「CCAJ賞」の受賞者には賞賛の拍手が、「ヴェルジ賞」の受賞者には哀哭の罵声が贈られる。

CCAJ賞ヴェルジ賞
2010年『コーヒー栽培の基本 アラビカ編』DVD (川島良彰)『ネスカフェ 香味焙煎』 (ネスレ日本株式会社)
2011年「CCAJ賞」(CCAJ Award)
『田口護のスペシャルティコーヒー大全』(NHK出版:刊)及びその「関連事象」:
(田口護/中川文彦/旦部幸博/岡崎俊彦)
「SCAJ ワールドスペシャルティコーヒーカンファレンス アンド エキシビション 2011」
(SCAJ World Specialty Coffee Conference and Exhibition 2011):
(一般社団法人 日本スペシャルティコーヒー協会) 
2012年『モカに始まり』(手の間:刊):(森光宗男)『エスプレッソーダ』:(サントリー食品インターナショナル株式会社) 
2013年『トウモロコシの先住民とコーヒーの国民 人類学が書きえなかった「未開」社会』
(有志舎:刊):中田英樹
『レギュラーソリュブルコーヒー』:ネスレ日本株式会社 
2014年『コーヒー おいしさの方程式』(NHK出版:刊):田口護・旦部幸博・嶋中労「日本におけるブルーボトルコーヒー及びサードウェイブコーヒーの狂騒」
:関連するメディアの発信者とコーヒー業界の関係者
2015年『森は消えてしまうのか? エチオピア最後の原生林保全に挑んだ人々の記録』
(佐伯印刷:刊) : 松見靖子
「コーヒーサンバ」 : 一般社団法人全日本コーヒー協会
2016年『コーヒーの科学 「おいしさ」はどこで生まれるのか』(講談社:刊) : 
旦部幸博
缶コーヒー「ダイドーブレンド うまみブレンド」 & 缶コーヒー「キリン ファイア」 : 
ダイドードリンコ株式会社 & キリンビバレッジ株式会社
2017年『深煎りの魔女とカフェ・アルトの客人たち ロンドンに薫る珈琲の秘密』
(宝島社:刊) : 天見ひつじ
「SCAAによるSCAEの併呑 と RAによるUTZの併呑」:
スペシャルティコーヒー協会(SCA) & レインフォレストアライアンス(RA)
2018年「トータル・バリスタ 盛伸市」(クリエーターズ・ファイル) : 秋山竜次「プラスチック製ストローの廃止計画を発表」 : スターバックスコーヒー
2019年『熱狂と幻滅 コロンビア和平の深層』(朝日新聞出版:刊) : 田村剛「20周年を迎えたカップ・オブ・エクセレンス」 : Alliance for Coffee Excellence(ACE)

CCAJ賞受賞者はすべて個人であり、帰山人氏と親交のある人物が多い。それに対して、ヴェルジ賞受賞者はすべて巨大組織である。

帰山人氏の現在の主張として、コーヒー産業のアメリカの策謀、支配からの解放、コーヒーの反普及、スペシャルティコーヒーに代表されるコーヒーの格付けの廃止、ワインとコーヒーの比較の廃止、コーヒーの健康論争の抹消などがある。

帰山人氏はスターバックスのサードプレイスをヒトラーの第三帝国と同一視し、ブルーボトル(青瓶)をISIL(イスラム国)と罵り、特にアメリカに対しては手厳しい。それはアメリカが自国の利害を最優先にし、コーヒーの世界を絶えざる混乱に陥れるためである。

また、帰山人氏の最近の成果として、スペシャルティコーヒー協会に対抗して作成した日本コモディティコーヒー協会のコーヒーホイールがある。

CCAJのコーヒーホイール

帰山人氏作成のCCAJ(日本コモディテイコーヒー協会)認定コーヒーホイール

いったいコーヒー屋やコーヒーマニアが「ミルクや砂糖はご自由に」と言ったならば要注意だ。必ず後に「良いコーヒーはブラックで味わえ」と続けるからだ。「お好みでどうぞ」と言われても、ミルクや砂糖を入れる者は邪道の辱めを懼(おそ)れ続ける。口では自由を唱えておきながら本意は違う、その余計を重ねる不自由さが実に腹立たしい。舌先と腹の中が異なる連中のコーヒーは、舌が痺れて腹を壊す。日本珈琲狂会はこう言う…「コーヒーをシュガーポットにぶちこんで、ミルクをおかわりしろ」。

「珈琲駄物」,帰山人の珈琲漫考,2017年2月6日.

帰山人、苦味が人生である

帰山人氏にとって、コーヒーの味とは何か?苦味である。

私には、旦部さんのようにブラックコーヒーを《格好付けて少し我慢しながら飲んだ》記憶がない。コーヒーを飲むより先に、幼少期に苦味の強い漢方薬を浴びるほど飲まされていたからだろうか? もしも、《苦味への慣れと認容》があの漢方薬の体験の上に成り立っているならば、私が《コーヒーの味の中核は、何といっても苦味である》と思えること自体が、まさに「人生の味」と言えるだろう。

「凄日の雑香」,帰山人の珈琲漫考,2018年10月6日.

帰山人氏にとって、苦味は死と隣り合わせの「人生の味」なのか。

体力も運動能力も「人並み以下」という自己認識が私にはある。
強度のアレルギー体質で、2歳の時から喘息を発症していた。
幼少時ながら、無理やり飲まされる漢方の煎じ薬を嫌い、
三輪車で逃げ回っていた記憶や、夜中の大発作でかつぎこまれ、
医院の冷たいベッドで聞いた壁掛時計の秒針の音が
自分の命のダウンカウントに感じた記憶がハッキリとある。
学生時代より社会人に至っても、運動系の部活動やクラブ活動に
籍を置いたことは一度も無く、スポーツとは全く無縁であり、
「虚弱さ」を斜にかまえて誇っていたきらいすらあった。

「サブフォーへの道程」,帰山人の珈琲漫考,2009年1月1日.

幼少期に無理やり飲まされた漢方の煎じ薬の苦味を嫌っていた喘息持ちの帰山人氏が、タバコを好み、コーヒーの苦味を好むようになったのはいかなる理由か?

カフェインと化した帰山人氏ゆえに、毒を以て毒を制すのか。

コーヒーには単に自然の苦みばかりではなく、社会や歴史の苦みも溶け込んでいる。それがいい。大人が生きていく上で必要な認識など、苦しみからしか生まれてこないのである。

臼井隆一郎「世界の動きとコーヒー豆」/陶磁郎編集部『珈琲の本 焙煎を味わう』/双葉社:刊/1998年,「謎解きはサロンのあとで 後編」,帰山人の珈琲漫考,2013年8月25日.より孫引き

帰山人氏の次の言葉に、『俺に今一杯のコーヒーが飲めたら世界はどうなっても構わぬ』と絶叫したドストエフスキーと同じ叫びを聞くことができる。

孤往独邁の珈琲狂として、コーヒーのすべてを徹底的に追究する。たとえ世界を滅ぼしても、「コーヒーに生きる」…

「Feels Like HELL」,帰山人の珈琲漫考,2014年2月6日.

最後の一杯まで、帰山人氏は珈琲に遊ぶのか、狂うのか?狂気とは「遊びの堕落」(ホイジンガ著『ホモ・ルーデンス』)ではなかったか。

帰山人氏の歩みは、遊びと狂気のキワに立つ。

*ここに登場する人物はすべて実在の人物であるが、物語はフィクションである。

『追記』

いつも手厳しい帰山人氏が、コーヒーで世界を変えられるかもしれないと褒め称えた、川島氏のコーヒーアミーガ「優依ちゃん」は現在16歳か17歳か。

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