今しがた、啜って置いた
MOKKAのにほひが、まだ
何処やらに
残りゐるゆえうら悲し。
木下杢太郎「珈琲を讃えた詩」,詩集『食後の唄』
和田 義雄『札幌喫茶界昭和史』と和田 由美『さっぽろ喫茶店グラフィティー』は、北海道札幌市の喫茶史を知る上での重要な資料です。
和田 義雄『札幌喫茶界昭和史』と和田 由美『さっぽろ喫茶店グラフィティー』
和田 義雄『札幌喫茶界昭和史』
和田 義雄
和田 義雄(1914 - 1984)は、児童文学者として知られています。主な作品に『白い劇場』、『かぜをひいたくま』などがあります。
和田は1946年3月から児童雑誌『北の子供』に関わり、終刊の1950年1月まで財団法人・新日本文化協会に所属していました。彼は1952年に設立された日本児童文学者協会北海道支部の創設会員の1人です。1961年4月創刊の『森の仲間』を主宰しました。そして、1983年発刊の『北海道児童文学全集』(立風書房)の編集委員となりました。
和田はまた、人形劇、紙芝居、口演童話等の実践家でもありました。
サボイア
和田は児童文学者の顔の他に、喫茶店経営者の顔を持っていました。南四条西四丁目にあった「りどう」の経営者であった矢野茂と彼の友人の設計家である前田敏雄との交流から、「サボイア」が誕生しました。
かくて冗談から駒のたとえ、とうとうサボイア<経営・和田義雄>が生まれる羽目になった。北一条西五丁目、昭和二十八年十二月。ビルと官庁街のドまん中、おまけに札幌中央警察署のまン前である。喫茶店づくりのジンクスを無視した場所である。業界はもとよりコーヒー族の、興味のまととなったようだ。
和田 義雄(1982)『札幌喫茶界昭和史』,沖積舎.p.70
1953年(昭和28年)に開店した「サボイア」は、1970年(昭和45年)にビルの建設のために閉店しました。
豆本
サボイアは、札幌におけるPR誌のはしりといわれる「窓」を創刊しました。
戦時中は軍・報道部に籍をおいたり、戦後は子供雑誌の編集長もした和田が、その経験にものをいわせて、PR誌”窓”を創刊した。昭和三十年秋。総合雑誌の編集方針をとり入れて、道内外の作家や詩人が、きら星の如く名をつらねた。B7判32ページという超小型の雑誌。人びとは「メンコイ本」と愛称して、次号が出るのを待ちわびた。
和田 義雄(1982)『札幌喫茶界昭和史』,沖積舎.p.70-71
和田は、1961年(昭和36年)から1973年(昭和47年)まで、『ぷやら新書』(新書刊行会)という豆本を編集、出版していました。北海道の文学、風土、文化、自然、人物についての本を豆本にしたもので、全50巻あります。
「ぷやら」はアイヌ語で「窓」という意味です。『ぷやら新書』は、1981年(昭和56年)に『窓』という名前で沖積社から新装復刻版が出ています。
また和田は、1977年(昭和52年)に『喫茶半代』(ぷやら新書刊行会)、1984年(昭和59年)に『コーヒー物語』(ぷやら新書刊行会)という豆本を刊行しました。
喫茶店点検で巡ってたら、これ安く発見。家にいくつもあるけど新品だったからまた購入。札幌の喫茶店好きには絶対的お薦めの二冊。ものすごく小さい、マッチサイズだもの。喫茶半代。虫メガネ用意。 pic.twitter.com/sqvexuMd5P
— 純喫茶ヒッピー (@JunKissaHippie) October 4, 2016
和田は、1973年(昭和48年)に札幌市の喫茶店の歴史をまとめた『札幌喫茶界昭和史』(沖積舎)を刊行しました。1971年(昭和46年)1月から1972年(昭和47年)12月まで2年間にわたって雑誌「月刊さっぽろ」に連載したものをまとめたものです。この本は、1982年に再刊されました。
広川 十郎と広川 雄一
『札幌喫茶界昭和史』は、1994年に広川 雄一(廣川 雄一)によって復刻され、1994年6月24日の北海道新聞で取り上げられました。
広川さんが復刻を思い立ったのは、父親で先代社長の十郎さん(八〇)から社長を引き継いだのがきっかけ。十郎さんは一九三六年から札幌で喫茶店経営を手掛け、終戦後は中央区南一西四(現在の4丁目プラザ)に店を構えてきた。広川さんは父の半生をまとめようとしたところ、この本の存在を知った。
「懐かしうれし あの店この店 73年出版「喫茶界昭和史」 札幌の広川さん復刻」,北海道新聞 1994年6月24日.
広川 雄一の父親である広川 十郎(廣川 十郎)は、「西林(にしりん)」の創業者です。
酒は涙かため息か—と頽廃的なメロディーがようやく日本の空を覆いはじめたとき、あたかもそれを吹き飛ばすかのように、上海事変がはじまった。昭和七年。その夏、七師団が北支に向かった。日の丸の旗が眼につく日の続く秋、銀の壺が開店した。南四条西五丁目、新川通り。
舞台装置をやっていた内山某の、片手間仕事。断髪の奥さんが、時折りは店に現れたりしたが、昭和十一年この店を広川十郎(現、にしりん社長)に譲った。
和田 義雄(1982)『札幌喫茶界昭和史』,沖積舎.p.16
札幌喫茶界の揺籃期から、いまに続くそのながい歳月を、この道ひと筋に歩み続け、常に業界の指導的役割を努めて、人びとの鑽仰のまととなった男、大御所広川十郎を、ふたたびここに登場させなければならない。にしりんの誕生である。南一条西四丁目、いま四丁目プラザの位置。昭和二十二年四月のこと。(中略)
昭和四十六年九月、四丁目プラザ開店まで、にしりんは業界に君臨、いまはプラザのなかに在って。往時の面影は求めるべくもないが、依然活況を呈して、広川健在を窺うことが出来る。
和田 義雄(1982)『札幌喫茶界昭和史』,沖積舎.p.64-65
広川 十郎の「にしりん」があった「4丁目プラザ(4プラ)」は、息子の広川 雄一に引き継がれています。広川 雄一は現在、4丁目プラザ(4プラ)の社長を務めています。
ちなみに、和田 義雄『札幌喫茶界昭和史』は、2002年に沼田 元氣『一杯の珈琲を飲むためだけに行きたくなる札幌・小樽カフェ喫茶店案内―ここではない別の場所に行きたい人の為のガイドブック』のなかで、札幌市と小樽市の喫茶店・カフェの紹介とともに復刻されました。
4丁目プラザ(4プラ)
1971年(昭和46年)に開業した4丁目プラザ(4プラ)は、2021年1月末をもって閉館しました。2021年12月4日から2022年1月30日まで、半世紀の歴史を振り返るポスター展が開催されました。
はっぴいえんど
コーヒープラザ 西林
4丁目プラザ(4プラ)には、株式会社西林の経営する「コーヒープラザ 西林」がありました。「コーヒープラザ 西林」は、1946年(昭和21年)に開業した「茶房 にしりん」に由来します。
喫茶 西林の歴史
当店「コーヒープラザ西林」の原点は、1936年(昭和11年)に創業者の廣川十郎が苦労して貯めたお金を元手に経営者から譲り受けた小さな喫茶店「銀の壺」(南3西5)。店は大繁盛するが、戦争の影響で1944年(昭和19年)に閉店。
しかし、戦後間もない1946年(昭和21年)に、家具店(現・4丁目プラザの場所)の奥まった一角を借りて、再び喫茶店「茶房 西林」を開業。店名の由来は、家具店の屋号「西野林産」からきており、現在の「コーヒープラザ 西林」に受け継がれている。
「コーヒープラザ西林」,ごまそば八雲.
*「茶房 にしりん」の開業は、コーヒープラザ西林の説明では昭和21年、ごまそば八雲の会社概要では昭和22年になっています。
広川十郎は「ブラジルレイロ」も経営し、これを「北のブラジルレイロ」としていた時期もあります。
コーヒープラザ 西林の「カツライス」は、1949年(昭和24年)からある西林特製ソースです。カレーのように見えますが、カレーではなく、フルーツの甘味が強いソースです。
西林については、和田由美著『さっぽろ喫茶店グラフィティー』の90から91ページに記述があります。
4丁目プラザ7階には、株式会社西林の経営するCAFE NAMBAN(カフェ ナンバン)がありましたが、2019年6月10日をもって閉店しました。CAFE NAMBANの前身は、コーヒーギャラリー「南蛮倉庫」です。
「コーヒープラザ 西林」がある4丁目プラザ地下2階には、「ジェラッテリア ソッリーゾ」、三本コーヒー(株)「ポールショップカフェ 札幌4丁目プラザ店」、「おにぎりのありんこ 4丁目プラザ店」、「ごまそば八雲 4丁目プラザ店」等がありました。
ジェラッテリア ソッリーゾ
ポールショップカフェ 札幌4丁目プラザ店
おにぎりのありんこ 4丁目プラザ店
ごまそば八雲 4丁目プラザ店
札幌国際ビル店
ごまそば八雲 札幌国際ビル店
広川 雄一は、札幌市では有名な蕎麦店である「ごまそば八雲」の経営者でもあります。
老舗そば店「ごまそば八雲」を、札幌市を中心に9店舗展開している。栄養価の高いゴマを練り込んだ「ごまそば」は、札幌では親しまれているが、全国的には珍しい存在。八雲は札幌ならではのごまそぱ文化を支えている。
「にしりん」は広川雄一社長の(75)の父十郎さんが1936年(昭和11年)喫茶店「銀の壺つぼ」を現本社がある中央区南1西4の近くに開いたのが始まり。戦中の閉店を経て中央区南1西4にあった家具店「西野林産」の一角に店子として喫茶店「にしりん」を開店。店名は家具店にちなんだ。これが社名になり、54年に法人化した。
72年に商業施設「4丁目プラザ(4プラ)が南1西4に開業すると、施設内に讃岐うどん店「むぎ屋」(95年閉店)を出店した。ただ、北海道はそばの産地でもあり、まちではそば店が大繁盛。雄一さんと十郎さんはそば人気に刺激を受け、74年に最初のそば店「ごまそば八雲」を南4西4の百貨店「札幌松坂屋」(現ススキノラフィラ)に開いた。
「<札幌圏・わがまち元気企業>ごまそば老舗 人気定着 札幌ならではの味支える にしりん=札幌市中央区」,北海道新聞 2020年2月3日.
店名は「古事記にある、スサノオノミコトが平和な国づくりを願って詠んだ歌「八雲立つ」にちなんで名付けた。ごまそばの作り方は、近くにあったそば店「一茶庵」で教えてもらったという。
店内は民芸調で女性1人でも入りやすい雰囲気だ。品質、手ごろな価格で人気が定着し、中心市街に次々出店。92年には新千歳空港、2010年には北広島市の三井アウトレットパーク札幌北広島にも店を開いた。
麺は、95年に開いた白石区菊水の自社製麺所で毎朝6時から製造。つゆは自社で削るかつお節、日高昆布などを使ってい、手間暇を掛けて仕上げる。
ごまそば八雲 ススキノラフィラ店は、2020年5月17日にススキノラフィラ(SUSUKINO LAFILER)閉館に伴い閉店したため、現在は8店舗展開しています。
ごまそば八雲 札幌国際ビル店のある札幌国際ビル地下には、老舗のお店が集まっています。
珈琲プラザ コージーコーナー
ごまそば八雲 札幌国際ビル店のある札幌国際ビル地下2階には、KEN'S COFFEEの運営する「珈琲プラザ コージーコーナー」があります(銀座コージーコーナーとは無関係です)。
コージーコーナーが北二条西四丁目に開店したのは昭和三十年五月。駅前ニシムラに二十年の歳月を、支配人として勤めあげた、楠野好孝の独立だった。間口はせまいが奥行きのある、一風変わった雰囲気の店。長いカウンターの突き当たり、高い天井まで積み上げた、二メートル幅の赤煉瓦の壁が、いまも鮮やかに脳裏に浮かぶ。(中略)
昭和三十六年一月、現在の場所(北一条西三丁目)に移ってからは、旭日昇天の勢いで業界に君臨、不動の地位を築きあげた。
和田 義雄(1982)『札幌喫茶界昭和史』,沖積舎.p.79
珈琲プラザ コージーコーナーは、1955年(昭和30年)創業の老舗です。創業者の楠野好孝は2007年に亡くなり、現在は中田 健一が代表を務める有限会社ケンズコーヒーシステムに引き継がれています。
中田氏がコーヒーと出会ったのは若き日の青春時代。飲食店でバーテンダーをしていた頃にコーヒーを提供したことがきっかけだ。カウンターのなかでコーヒーを淹れ、お客様と会話をするうちに、コーヒーのことを研究したくなったという。そんな中田氏が就職先として選んだのは、1955年に創業した札幌の老舗喫茶店「珈琲プラザ コージーコーナー」だった。
同店では他社から仕入れた焙煎豆でコーヒーを淹れていたが、ある日、他店で見た焙煎に衝撃を受けた中田氏は「自分も焙煎がしたい」と焙煎機の導入を店に提案。「珈琲プラザ コージーコーナー」が自家焙煎を始めるきっかけを作った。その後、中田氏は2001年に同社の焙煎機を引き取る形で独立。有限会社ケンズコーヒーシステムを創業した。
「珈琲人名鑑 有限会社 ケンズコーヒーシステム代表取締役 中田健一」,COFFEE TOWN.
それにしても、若い頃はよく喫茶店に通った。大谷会館の北向かいに当時「イレブン」という名の小さな喫茶店があり、そこではBGMにジャズが流れ、壁のアンティークな時計に似つかわしく、いつも静謐なときが流れていた。
そこで女友だちの失恋話を聞いたり、恋人と待ち合わせたりと、青春の一頁が彩られた。当時の喫茶店は個性の強いオーナーが多く、店のサロンの役割を果たし、都市風俗の核ともなっていた。今はもうない店では、北一条のコージーコーナー(現在、札幌国際ビル地下に移転)、中島みゆきに歌われた北大前のライフ、ジャズ喫茶のBやACT、ロック喫茶の祐天堂、時代を先取りしていたバナナボートやテルサラサートなどが懐かしい。
和田 由美(1998)『日曜日のカレー』,亜璃西社.
珈琲プラザ コージーコーナーとダッチコーヒー
珈琲プラザ コージーコーナーは、創業当時からあるダッチコーヒーで有名です。ダッチコーヒーを漢字で「朶都痴珈琲」と表記しています。
店名は”小さな片隅の居心地の良い場所”という意味。当時からダッチコーヒー(コーヒー豆に水滴を垂らして抽出する水出しコーヒー)が名物だった。細長い造りを生かして壁をギャラリーとして開放、新進画家の個展を月替わりで開くなど、画廊喫茶の草分けでもあった。
和田 由美(2015)『さっぽろ味の老舗グラフィティー』,亜璃西社.p.92
珈琲プラザ コージーコーナーは、ダッチコーヒーについて、「清水の美しい国オランダでコーヒー色の聖衣を纏った修道僧達が、その水晶の様な冷水で淹れたコーヒーを愛飲したことから名付けられた」と説明しています。
札幌市の大通にある「マルセイコーヒー」も同じような説明をしていますが、真偽は不明です。
ダッチコーヒーとは、オランダ人が自国の植民地インドネシアで愛飲していたコーヒーを、オランダの修道女が世界に広く伝えたことから「ダッチ=オランダの」という名称がつけられました。
「ダッチコーヒーやってます!」.マルセイコーヒー.
「ダッチコーヒー」は、京都生まれの抽出法だと言われています。
「ダッチ(オランダ)コーヒー」という名前ですが、オランダ人に訊いても「見たことがない」と答えます。それもそのはず、じつはこのダッチコーヒーは京都生まれの抽出法です。名前にある「ダッチ」はオランダ領東インドに由来し、戦前のインドネシアの飲み方がヒントになっています。昭和30年頃、京都のサイフォンコーヒーの老舗「はなふさ」のマスターが、あるコーヒー通が書いたインドネシアの挿れ方に興味を惹かれ、たった数行の記述を元に「幻のコーヒー」の再現に取り組みました。そして京都大の化学専攻の学生に協力を仰いで、医療器具の専門店で製作したのが、この「ウォータードリップ」と呼ばれる抽出器具だそうです。
旦部 幸博(2016)『コーヒーの科学』,講談社ブルーバックス.p.264-265
「はなふさ」のマスターが「ダッチコーヒー」を発明したのは、1955年頃(昭和30年頃)だそうです。一方の珈琲プラザ コージーコーナーは、「1955年の創業時よりこのコーヒーに着目して以来一貫してその普及に努め」てきたそうです。
新しく発明された抽出法にいち早く目をつけたのか、どのようにこの抽出法を取り入れたのか不明ですが、珈琲プラザ コージーコーナーは一貫してダッチコーヒーの普及に努め、ダッチコーヒーは「お店の顔」となりました。
珈琲プラザ コージーコーナーのダッチコーヒーは、比較的さっぱりしてクリーンな味わいです。ダッチコーヒー ストロングになると、水出しコーヒーの濃厚なコクが感じられます。
珈琲工房 美鈴
札幌国際ビル地下2階には、珈琲プラザ コージーコーナーの向かいに、1932年(昭和7年)創業の「珈琲工房 美鈴」があります。喫茶の「MISUZU CAFE 札幌駅前店」と、その場で焙煎した豆を販売する「珈琲焙煎工房 函館美鈴 札幌駅前店」が並んでいます。
MISUZU CAFE 札幌駅前店の「焙煎珈琲カリー」は、コーヒーの香りと苦味を持つビーフカレーです。コーヒーの粉をスパイスのように振りかけて食します。コクのあるカレーで、コーヒー感は特に強く感じられるわけではありません。
カリーハウス コロンボ
エスカレーターを上がった札幌国際ビル地下1階には、老舗のカレー店「カリーハウス コロンボ 」があります。
コロンボのカレーは、サラサラのカレー・ルーが特徴です。濃厚な欧風カレーの人気店である円山西町の「クロック(clock)」とは対照的です。
カリーハウス コロンボについては、和田 由美『さっぽろ味の老舗グラフィティー』の48から49ページに記述があります。
味処 あずまと中島 みゆき『店の名はライフ』
札幌国際ビル地下1階の端に、「味処 あずま」があります。うどん屋ですが、豚丼で有名です。
味処 あずまの先代のお店は、中島 みゆき『店の名はライフ』に歌われています。
店の名はライフ おかみさんと娘
母娘で よく似て 見事な胸
店の名はライフ おかみさんと娘
母娘で よく似て 見事な胸
娘のおかげで 今日も新しいアルバイト
辛過ぎるカレー みようみまね
店の名はライフ おかみさんと娘
母娘でよく似て 見事な胸
中島みゆき『店の名はライフ』
北大前にあった喫茶店『ライフ』は、その後うどん屋に転業し、現在は札幌国際ビル地下1階に移転しています。「伝説の豚丼」は、喫茶店時代からあったそうです。
甘辛い豚肉が乗ったボリュームのある豚丼です。お吸い物は、うどんつゆのような味です。
和田 由美『さっぽろ喫茶店グラフィティー』
1970年以前の札幌市の喫茶店事情については和田 義雄『札幌喫茶界昭和史』に詳しいですが、それ以降については和田 由美『さっぽろ喫茶店グラフィティー』に詳しいです。
和田 由美は、1988年に出版社の「亜璃西社」を設立し、代表取締役社長を務めています。
損保会社の社員から、23歳でタウン誌編集長に転身し、仲間たちと編集プロダクションを立ち上げました。道内外の雑誌製作などを請け負い経営は順調でしたが、雑誌の仕事はどうしても、その時限りで消えてしまうもの。次第に自分の手で、後の世にも残る“本”を作りたいと思うようになりました。自主企画で76年に出版した街歩きのガイドブック「札幌青春街図」が、シリーズ化されるほどヒット作になったことも後押しになりました。
後ろ盾になる会社もなく、個人で出版社をつくるのは当時の札幌では珍しかったと思います。知り合いに声をかけ、17人から800万円を集めてのスタートでした。出版の素人で、怖いもの知らずだったからこそできたんでしょうね。バブル景気が始まる直前で、札幌もまだまだ元気でした。「5千万円までなら出資しようか」という人もいたんですよ。お金で縛られるのは嫌なので断りましたけど。
手堅い実用書で経営を安定させながら、作りたい本を出そうという作戦をとり、硬軟取り混ぜた「なんでも」出版社を目指しました。幸い「北海道樹木図鑑」といったロングセラーや「北海道キャンプ場ガイド」などの定番ヒットが生まれ、何とか軌道に乗りました。でも、どうしてもやりたくて3号限定で挑戦した文芸誌は、返本率8~9割と全く売れませんでした。自転車操業を続ける中、社会派のノンフィクションや、「地図の中の札幌」のように図版をふんだんに使った豪華本なども出すことができました。
「(6)「街は人なり」、見つめ刻む」,朝日新聞 2019年1月9日.
堀 淳一『地図の中の札幌』
『地図の中の札幌』は、2017年に亜璃西社から出版された「地図の達人」堀 淳一の名著です。『地図の中の札幌』、『地図の中の鉄路』、『北海道 地図の中の廃線』のシリーズ3部作です。
グラフィティー・シリーズ
そもそもこの本が世に出たのは、2006年。今から14年前のこと。かつてタウン情報誌やベストセラーとなった『札幌青春街図』など街の本をいくつも造ってきた私は、1970年代から80年代の喫茶店について少し詳しかった。普段から書籍編集者の井上哲に、「昔はああだった、こうだった」と無駄話をしていると、「もっと聞きたい、知りたい」という。それなら雑誌か新聞で連載しようかなとぼんやり思っていると、朝日新聞夕刊の文化面がリニュアルされることを元タイムスの論説委員で友人の宮内令子さんが教えてくれて、担当の阿部八重子さんを紹介してくれた。それからトントン拍子で連載が決まり、2003年9月からスタート。好評につき単行本化したものの、店の大半は閉店している。同世代ならまだしも、遅れた世代にも支持されるとは思っても居なかった。
「喫茶店グラフィティー余話①」,和田由美の日々雑記 2020年5月27日.
和田 由美『さっぽろ喫茶店グラフィティー』は、亜璃西社の「グラフィティー(落書き)・シリーズ」の中の一冊です。グラフィティー・シリーズは、札幌市および北海道の風俗をまとめた良書です。
グラフィティー・シリーズには、和田 由美『さっぽろ喫茶店グラフィティー』、『さっぽろ酒場グラフィティー』、『さっぽろ狸小路グラフィティー』、『さっぽろ味の老舗グラフィティー』、『ほっかいどう映画館グラフィティー』、塚田 敏信『ほっかいどうお菓子グラフィティー』、浦田 久『スケッチで見る さっぽろ昭和の街角グラフィティー』があります。
黒澤 明『白痴』と紫烟荘
グラフィティー・シリーズの『スケッチで描く さっぽろ昭和の街角グラフィティー』の出版を記念して、2014年3月8日に紀伊國屋書店札幌本店1Fインナーガーデンで催された《トークイベント》「黒澤明が愛したさっぽろ昭和の街角」で、黒澤 明監督作品『白痴』と紫烟荘について触れられました。
ところで、先だって紀伊国屋書店で、「黒澤明監督が愛した さっぽろ昭和の街角」というタイトルでトークイベントを開催。わが社の新刊『スケッチで描く さっぽろ昭和の街角グラフィティー』の著者で、映画ファンの大先輩である浦田久さんとトークショーを行った。その際、黒澤監督が丸ごと札幌をロケ舞台に撮った映画「白痴」(昭和26年)のシーンと、浦田さんの原画を重ねて、昭和20・30年代の札幌を語った。その映画の中で私が嬉しかったのは、主演の森雅之が札幌の街中を彷徨い、とある喫茶店に入る。その店が、「紫烟荘」(南3西4)という名前であることを、窓ガラスに刷り込まれた文字から発見できたこと。駅前通りに面して東向き、今の千秋庵本店の斜め向かいにあったそうで、和田義雄著『札幌喫茶界昭和史』にも登場する老舗なのだ。私がその名を知った時にはもう閉店していて、間に合わなかったのが残念で仕方がなかった。が、スクリーン上で、見ることができて感激。そんな余計な話をちょっとしてみると、意外に喜ばれた。
「仲町アラシ」,和田由美の日々雑記 2014年3月3日.
黒澤 明の『白痴』に出てくる「紫烟荘」は、1932年(昭和7年)に下山 純護が開いた喫茶店で、1969年(昭和44年)まで続きました。もともと「麗(ウララ)」というお店でした。
四丁目十字街仲小路の入り口近く麗(ウララ)という店をひらいた。物ごとすべてに熱心なこの人はミックスコーヒーを研究して、忘れられない味を人びとにすすめた。(中略)
麗(ウララ)から白百合そして紫烟荘(昭和七年)と転じ、南三条西四丁目のその店は一度人手に移って”花柳”という高級呉服の店となっていたが、これを買い戻して再び紫烟荘を開店した。入り口に飾られた船の梶が、漂う紫煙をからませて印象的な雰囲気をつくっていた。
和田 義雄(1982)『札幌喫茶界昭和史』沖積舎.p.15
主演の森 雅之が演じる亀田 欽司が、札幌の街中を彷徨い「紫烟荘」に入るのは、第一部の終わりです。亀田が手を震わせて珈琲をこぼす場面で、癲癇の発作の予兆が表現されています。
札幌千秋庵製菓本店
「紫烟荘」の下山 純護は、大東亜戦争期に配給された「規格コーヒー」に愛想を尽かし、一時的に店を休業にしました。「規格コーヒー」とは、リンゴの皮、ミカンの皮、サツマイモの皮、チューリップの根、百合の根、クズ米、燕麦ドングリ、トチの実、甲州ブドウの種子などを混ぜ合わせてつくった粉末です。
紫烟荘(下山純護)が”規格コーヒー”に愛想をつかして、しばらく店を休みますと言うので、転業でもなく、廃業でもなく、休業という組が出はじめた。千秋庵(岡部式二)もそのくち。
千秋庵は南三条西三丁目、現在の位置に大正十年、菓子舗として開業、昭和五年頃喫茶室をつくって業界入りした。岡部は戦後の札幌喫茶店組合長をながく勤め、昭和四十三年八月、北海道喫茶業環境衛生同業組合が創立されるに当たって、推されて初代理事長になった。温厚な人柄だけに、紳士の下山純護とも意気が合い、しずかに時の流れを見つめようとする休業仲間であった。
和田 義雄(1982)『札幌喫茶界昭和史』沖積舎.p.57-58
札幌千秋庵製菓本店は、札幌市中央区南3条西3丁目に位置しています。1966年に竣工された旧千秋庵製菓本店ビルの1階に入っていました。ここにはかつて、「千秋庵喫茶部」という喫茶が併設されていました。
そもそも千秋庵製菓は、21年(大正10年)創業の老舗菓子店。喫茶店(千秋庵喫茶部)も30年(昭和5年)にいち早く誕生させている。2代目で現会長の岡部卓司さんは、「まだ人々は"きっちゃてん"と呼び、こんな苦い飲み物にお金を出すなんて"いいふりこき"といわれた時代です。菓子店に併設された喫茶は、全国的に"喫茶部"の名称で統一されていました」と懐かしげに語る。
和田 由美『さっぽろ喫茶店グラフィティー』,亜璃西社.p.88
旧千秋庵製菓本店は2017年10月31日で閉店し、旧千秋庵製菓本店ビルは老朽化に伴い解体されました。
2020年4月24日に、札幌千秋庵製菓本店の新店舗が開業しました。旧千秋庵製菓本店ビル跡地にできた複合ビルの1階に入り、同じ場所に再び帰ってきました。
渡辺 淳一『阿寒に果つ』とミレット
千秋庵製菓本店のある南3条西3丁目には、「ミレット」という喫茶店がありました。経営者の生駒 一郎に口説かれて札幌に落ち着いた、尾崎 日出男によるサイホン式のコーヒーが有名でした。
ミレットは南三条西三丁目(いま玉光堂の位置)。昭和二十四年、生駒一郎(現・札幌市議会議員)の経営で発足、一階が喫茶、二階がレストラン。(中略)
コーヒー専門の店ミレットとして再出発。ミレットの尾崎、尾崎のミレット。尾崎が自ら陣頭に立って、カウンターで淹れる、サイホン式のコーヒーは珍しがりやの都会人を、すっかり魅惑した。
和田 義雄(1982)『札幌喫茶界昭和史』沖積舎.p.65-66
余計ついでにもう一軒、有名な「ミレット」(南3西3)という喫茶店があり、昭和35年に閉めたが、3年後には北2東2に同じ経営者がひらがなの「みれっと」を出す。これが、渡辺淳一さんの初期の小説『阿寒に果つ』に登場していて、私が知った時にはまだあり、行ってみたくてたまらず、わざわざコーヒーを飲みに行ったことがある。そんなことをしたのが、もう40年余り前の話なのだから、時が経つのは早いなあ。
「仲町アラシ」,和田由美の日々雑記 2014年3月3日.
渡辺 淳一『阿寒に果つ』には、「紫烟荘」と「ミレット」が登場します。
そのころ、私はまだ喫茶店にもそば屋にも一人で入ったことはなかった。戦後まだまもなく、札幌には数えるほどしか喫茶店がなかったが、そのなかで駅前通りの紫烟荘(しおんそう)という店へ、友達に連れられて一度入ったことがあるだけだった。私にはコーヒーの味も香りもわからなかった。砂糖のあとにミルクを入れることも相手がやるのを見て知ったありさまである。あんなものを飲みながら名曲に聞き入っている人達が不思議に思えた。店のムードはどこも上品でソフトにみえたが、その雰囲気が私にはかえって落ちつかなかった。私はやはり同年の友達とラーメンを啜(すす)り、大通りのベンチでトウモロコシを食べているほうが性に合っていた。
だが、今度はそんなことをいっていられない。女性と喫茶店で逢うのである。しかも「ミレット」という画家や新聞記者といった文化人達が最も多く屯(たむろ)するという喫茶店で、札幌の芸術家達のアイドルである時任純子と一緒なのだ。
渡辺 淳一『阿寒に果つ』(中公文庫),中央公論新社.p.28
その後の札幌市の喫茶店(カフェ)
『さっぽろ喫茶店グラフィティー』は、1985年までの札幌市の喫茶店事情をまとめています。昨今の喫茶店(カフェ)事情については、2019年4月から2020年4月まで朝日新聞夕刊で連載されていた「さっぽろカフェグラフィティー」に詳しいです。
昨年の4月~今年の4月上旬まで、朝日新聞夕刊で「さっぽろカフェグラフィティー」を連載していた。グラフィティーシリーズの第1冊となる「さっぽろ喫茶店グラフィティー」の初版発行は2006年だが、もともと喫茶店に通い詰めていたのは1985年まで。その後は酒場へ入り浸っていたから、昨今の札幌市内の喫茶店事情については浦島太郎に近い。それがよっこらしょと重い腰を上げて、2019年から市内の喫茶店(カフェ)を廻ってみると、進化しているなんてもんじゃない。スペシャルティーコーヒーという名の下に求道者のごとくコーヒーに邁進する若者や有名店から独立して個性的な店を営む中堅どころ、はたまたカフエめしが主の店など千差万別に進化していた。驚かされたと同時に、コーヒーの味のレベルの高さに、感服させられたものだ。
「喫茶店グラフィティー余話②」,和田由美の日々雑記 2020年6月4日.
☆W社長の朝日新聞連載記事「さっぽろカフェグラフィティー」11/22掲載最新分は、南区の「ヤマガラ珈琲」。記事は朝日新聞の北海道サイトでご覧いただけます!https://t.co/jUayhA5Aqb pic.twitter.com/4sPATAz7Pm
— 亜璃西社 (@alice_sha) November 26, 2019
☆和田由美の朝日新聞連載〈さっぽろカフェグラフィティー〉。1/17掲載は、北4西5 アスティ45にある創業32年の老舗「マーク・コーヒー・クラブ」です。「すべてが昔を思い出させるセピア色の風景。つくづく私は、こういうタイプの喫茶店に親しんで育ったのだと再認識させられる」と筆者。#カフェ #喫茶 pic.twitter.com/zktUJLXTd7
— 亜璃西社 (@alice_sha) January 26, 2020
☆和田由美の朝日連載〈さっぽろカフェグラフィティー〉1/31掲載は、豊平区旭町5(北海高校裏)にある「カフェ・エストラーダ」。築40年の建物を改装した一軒家カフェで、吹き抜けの天井が高くて開放感たっぷりです。#カフェ #喫茶店 pic.twitter.com/dFBE42E6Mw
— 亜璃西社 (@alice_sha) February 5, 2020
☆和田由美の朝日新聞連載〈さっぽろカフェグラフィティー〉2/7掲載は、中央区南19西15の一軒家カフェ「カフェ ロン」です。グレーで統一された店内は装飾性が排されていて、まさにシンプル・イズ・ベスト。もちろん、バランスのとれたコーヒーの味わいもグッドです。 pic.twitter.com/kbUWaHCKzp
— 亜璃西社 (@alice_sha) February 22, 2020
☆和田由美の朝日新聞連載〈さっぽろカフェグラフィティー〉は、2/14掲載の喫茶「カルメル堂」(中央区南1西6)。天井や壁面は、ブルーとグリーンの中間色・暗灰青緑色で染め上げられていて「ぎゅっと心を掴まれる」そう。3人以上のグループ利用はお断りと、静謐な空間造りにこだわってるお店です。 pic.twitter.com/idf6voIeG7
— 亜璃西社 (@alice_sha) March 13, 2020
☆和田由美の朝日新聞連載〈さっぽろカフェグラフィティー〉、3/6掲載は藻岩山麓の「宮越屋珈琲 THE CAFE」(中央区南19西16)。コーヒー通に人気を呼ぶのが、ネルドリップでじっくり淹れる自家焙煎珈琲の味わい。酸味と甘みのバランスと、後味のキレの良さを和田も絶賛。お試しあれ。#札幌 #カフェ pic.twitter.com/F6o6IdPZ4U
— 亜璃西社 (@alice_sha) March 30, 2020
☆和田由美の朝日新聞連載〈さっぽろカフェグラフィティー〉、3/13掲載は「板東珈琲」(中央区大通西11、橋本ビル1F)。自家焙煎の豆を惜しみなく使うブレンドコーヒーは、濃厚な味わい。手作りの珈琲ゼリーを使うあんみつやパフェと一緒に味わいたいですね。#札幌 #カフェ #自家焙煎 #板東珈琲 pic.twitter.com/TpJH0RVwXt
— 亜璃西社 (@alice_sha) April 3, 2020
昨日(3/27)の朝日新聞の夕刊に連載中のエッセイスト和田由美さんのコラム「さっぽろカフェグラフィティー」にて、カフネが紹介されました!
— Cafuné (@Cafune_coffee) March 28, 2020
ネット版では、過去の記事も読む事が出来る様です。
ぜひ、ご覧下さい! pic.twitter.com/1kh1HVP9UG