ニューカレドニアのコーヒーの歴史(4):コーヒーさび病菌の流行とロブスタ種の導入
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ニューカレドニアのコーヒーの歴史 コーヒーさび病菌の流行とロブスタ種の導入

コーヒーさび病菌の流行

コーヒーさび病菌 出典:Wikipedia

フェイエの理想の実現を何度も阻んだ危機から回復したばかりのニューカレドニアのコーヒー栽培は、この時期に栽培されていたアラビカ種にとって、宿命的な危機に直面することになった。それはヘミレイア・ヴァスタトリクス(L'hemileia vastatrix)というコーヒーさび病菌の流行である。

さび病の代表的な一種として知られるコーヒーさび病菌は、オレンジ色をした粉状の胞子が葉に広がり、光合成を阻害してしまう。それが次第に大きくなり葉全体に広がると、葉は落ち木は枯れてしまう。カフェ・オンブラージュ (木陰栽培のコーヒー)ような湿気の多い環境では、より広まりやすいとされているが、本当の原因はモノカルチャー(単一栽培)にあると考えられる。

コーヒーは、そのほとんどが北緯25度から南緯25度の、いわゆる「コーヒーベルト」と呼ばれる、赤道近くの熱帯性の気候、温暖で肥沃、生態系豊かな楽園のような環境で栽培される。この地帯は生存競争が極めて激しく、植物は休息のための冬がない。このような環境で、コーヒーノキは病害虫から身を守るため、カフェインやコカインといった向精神作用のあるアルカロイド系の薬物を生み出した。コーヒーノキは熱帯性の気候にも耐えられるほどに丈夫な植物であるが、特定の植物を人為的に単一栽培することにより、生態系が崩壊しやすくなる。

植民地支配の拡大と並行したコーヒー栽培の世界的な拡大を追いかけるように、コーヒーさび病菌もまた拡大していった。1867年から1868年に、コーヒーさび病菌はセイロンで大流行し、コーヒー農園を壊滅させた。その後セイロンでは、トーマス・リプトン(Sir Thomas Johnstone Lipton 1st Baronet, 1848 - 1931) が紅茶の栽培に乗り出し、現在は紅茶の生産地として知られている。コーヒーさび病菌は、1876年にはインドネシアのジャワ島(Java)、スマトラ(Sumatra)に到達、インドネシアでは19世紀末に大流行した。

ちなみにコーヒーさび病菌の拡大に先行した病気が、アイルランドにジャガイモ飢饉を引き起こしたジャガイモ疫病で、1880年から1882年にセイロン(Ceylon)(現在のスリランカ)でコーヒーさび病菌の研究をし、ヘミレイア・ヴァスタトリクスの学名を命名したイギリスの植物学者マーシャル・ウォード(Harry Marshall Ward, 1854 - 1906)は、ジャガイモ疫病の研究をしたドイツの植物学者アントン・ド・バリー (Heinrich Anton de Bary, 1831 - 1888)に学んでいる。

コーヒーさび病菌がニューカレドニアで公式に確認されたのは、1911年のポンエリウーアン(Ponérihouen)においてだった。しかし実際は、これよりも早い時期、1908年にカナラ(Canala)で、1909年にティオ(Thio)でこの病気が報告されている。ともにニューカレドニアの東海岸の地方である。コーヒーさび病菌がどのような経緯で持ち込まれたかは定かではないが、ニューカレドニアで行われていた木陰栽培では、湿気が多くなるため繁殖しやすかったはずだ。

コーヒーさび病菌は、ポンエリウーアンで確認される前年の1910年に、ヘブリディーズ諸島のコーヒー農園に回復不可能なほど深刻なダメージを与えていた。すでにその時点で、それがグランド・テール島に持ち込まれれば、コーヒー生産に壊滅的な影響を与えるだろうことを誰もが予感していた。

実際、数年のうちに、何もその侵入を阻止することができずに、コーヒーさび病菌は島全体に拡大し、コーヒーノキを容赦なく破壊した。 1910年に約500トンあったコーヒー生産量は、1915年にはフェイエ以前の数字、200トンにまで生産量が減少するまでになった。

ロブスタ種の導入

ニューカレドニアで栽培されていたアラビカ種は、他国と同様に、コーヒーさび病菌に抵抗することができなかった。ニューカレドニアはこの対策のために、他国の例に倣って、赤道付近の雨の多いアフリカの熱帯地方の品種を導入することにした。コーヒーさび病菌に完全耐性を持つロブスタ種(Coffea robusta)である。

「丈夫な、頑丈な」という意味の「ロバスト(Robusut)」を語源に持つロブスタ種は、病害虫に強いだけでなく、標高0mから1,000mの低地でも生育するため、栽培しやすい品種でもある。

ロブスタ種は、1898年にベルギーのジャンブルー農業研究所(現ジャンブルー農学部(Gembloux Agro-Bio Tech))の植物学者エミール・ローラン(Emile Laurent, 1861 - 1904)が、アフリカのコンゴで発見したコーヒー種である。彼はこれを彼の弟子であるエミール・デ・ウィルデマン(Emile De Wildeman, 1866 -1947)と園芸会社に配り、エミール・デ・ウィルデマンは「ローレンティイ種(C. laurentii)」、園芸会社に依頼されたベルギーの植物学者ルシアン・リンデ(Lucien Linden, 1851 - 1940)は「ロブスタ種(C. robusta)」と名付けた。しかし、この種は1897年にすでにガボンで発見されていた「カネフォーラ種(C. canephora )」と同種であることが確認された。このため、ロブスタ種の正式名称は「カネフォーラ種」だが、一般的には「ロブスタ種」で通っている。

ちなみに、それ以前の1862年に、ヨーロッパの探検家リチャード・バートン(Sir Richard Francis Burton,1821-1890)とジョン・スピーク(John Hanning Speke,1827-1864)が、タンザニア(Tanzania)の北西部ブコバ(Bukoba)の原住民族の間でこのコーヒーが使用されていることを報告しているが、当時はこの苦くて味の悪い品種に換金作物としての価値があるとは誰一人考えなかった。

しかし、ロブスタ種が発見されたこの時期は、東インド諸島のアラビカ種が全滅の危機に瀕していた。この品種がコーヒーさび病菌に完全耐性を持つことがわかったため、東インド諸島をはじめ、この病気が流行していたコーヒー生産各国に広まることになったのである。

ニューカレドニアには、フランスのアグロノミー・トロピカル庭園(Le jardin colonial de Nogent)から、クイルー(Kouilou)という品種が送られた。アグロノミー・トロピカル庭園は、フランス植民地での農業生産の増強のために1899年に設立された農業試験園であり、ヴァンセンヌの森に位置している。ここでは、コーヒー、バナナ、ゴムの木、ココア、バニラなどの熱帯性の植物が研究されている。クイルーという聞き馴れない品種はアフリカのコートジボワール(Côte d'Ivoire)、マダガスカル(Madagascar)、トーゴ(Togo)で栽培されていたロブスタ種の品種であり、ガボン(Gabon)を起源とする野生種である。ここからクイルー・ニアウリ(Kouilou Niaouli)という品種が、フランス植民地時代に農学者によって開発された。

他方で、農林省はジャワのボイテンゾルグ植物園(Le jardin botanique de Bogor)(現在のボゴール植物園)からロブスタ種を取り寄せていた。この植物園はオランダ植民地政府によって設立され、ジャワやその他の地域にあった植物を集めて、あらゆる目的に利用できるように研究していた。1880年には、メルヒオール・トロープ(Melchior Treub, 1851 - 1910)が園長となり、コーヒーさび病菌に対する対処も研究されていた。

1911年6月22日に、500kgのクイルーとロブスタ種がニューカレドニアに導入された。このうち、ニューカレドニアのコーヒーの再生に大きく貢献したのは、ジャワから導入されたロブスタ種だった(1)。

ジャワから導入されたロブスタ種は、アラビカ種とブルボン・ポワントゥ(ルロワ)がかつて植えられていた場所に新しく植えられ、特に東海岸はロブスタ種の拡大が顕著な場所となった。コーヒーさび病菌が最初に確認された東海岸は、海からより湿った風の影響を受けるため、より被害が深刻だった。

アラビカ種は雨の少ない海岸の渓谷にわずかに生き残ったが、ブルボン・ポワントゥ(ルロワ)はほぼ絶滅した(2)。アラビカ種はより乾燥した西海岸で抵抗性を示し、この地域はコーヒーさび病菌の拡大が緩やかだったため、そこで耐病性を獲得することになった。

ロブスタ種の導入はニューカレドニアのコーヒー栽培を救い、コーヒー生産量は増加した。1919年には、コーヒーの輸出は600トン近くまで増加した。これから20年間はニューカレドニアのコーヒー生産の「黄金期」と呼べる時代がやってきたのだった。

(1)1924年に、ニューカレドニアでは、コーヒーベリーボーラー(Coffee Berry Borer)による被害が確認されている。このコーヒーベリーボーラーは、クイルーとロブスタ種がニューカレドニアが導入されたときに持ち込まれたものであると言われている。

フランス植民地下のトンキン(ベトナム北部)のフーウー(Phu-Ho)にあったコーヒーの試験所では、コートジボワールの小インデニエのYグループ・エクセルサ(le groupe de Y Excelsa)、クイルー・ニアウリ(Le Niaouli du Dahomey(フランス領ダホメのニアウリ))などの品種などがあったらしい(クイルー・ニアウリが「フランス領ダホメのニアウリ」と呼ばれるのは、1904年にニアウリ植物園(La station de recherche agronomique de Niaouli)がフランス領ダホメに設立されたためである)。

フーウーのあるフート省は、コーヒーや茶の歴史を考える上で重要な場所である。

Colonial Misrepresentation of the “Tea Revolution” in the Province of Phú Thọ (Tonkin), 1920-1945:https://www.cambridge.org/core/journals/annales-histoire-sciences-sociales-english-edition/article/abs/colonial-misrepresentation-of-the-tea-revolution-in-the-province-of-phu-tho-tonkin-19201945/6AE0026FAF4BC256329EE2BD0BC496D1

ヌメア農業新聞(La Revue Agricole de Noumea)(1930年3月)では、カフェ・エリン(Café Herlin)という品種が報告されている。これはニューカレドニア南部州ブーライユ(Boureil)近くで発見されたアラビカ種で、広い葉と細長く通常の2倍近い果実の大きさを持ち、高収量で高品質な品種であったらしい。この説明はマラゴジッペ(Maragogipe)の何らかのタイプに見られるもので、ブラジルのアラビカ種の栽培地にも現れているかもしれないということを示唆している。

 ニューカレドニアで時々植えられているカフェ・エリンと呼ばれる種類のコーヒーは、説明によるとマラゴジッペに似ているが、かなり生産性が高いと言われている(シュヴァリエ, 1931, p.176)。

A kind of coffee called Café Herlin, sometimes planted in New Caledonia, resembles maragogipe according to the description, but it was said to be fairly productive (Chevalier, 1931, p.176).

IICA Biblioteca Venezuela"A Review of Literature of Coffee Research in Indonesia"p.99

(2)ブルボン・ポワントゥ(ルロワ)は当初、ヘミレイア・ヴァスタトリクス(コーヒーさび病菌)に大きな抵抗性を示したとの記録もある

サビ病菌(ヘミレイア)に関しては、1910年以来ニューカレドニアのアラビカ種に猛威を振るっている。しかし、Ch・ジャック氏によると、この品種、 ルロワは何年にもわたってこの病気に対して強い耐性を示している。

Quant à la Rouille {Hemileia), elle sévit sur les Coffea arabica de Nouvelle-Calédonie depuis 1910. Toutefois d'après M. Ch. Jacques, une variété, le Caféier Leroy montre depuis des années une grande résistance à la maladie.

Aug. Chevalier(1931)"La culture du Caféier en Nouvelle-Calédonie."p.175

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