パナマのコーヒーの歴史(1):パナマ運河建設とコーヒーの広がり

パナマのコーヒーの歴史 パナマ運河建設とコーヒーの広がり

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パナマへのコーヒーの紹介

アルフレッド・カスティイエロ・カルヴォ(Alfredo Castillero Calvo)著『パナマにおけるコーヒー:社会と経済の歴史(英語:Coffee in Panama: a social and economic history、スペイン語:El café en Panamá: una historia social y económica)』によると、1780年代にパナマのコーヒーの最初の商業取引の記録がポルトベロ(Portobelo)で記録されている。だが、これが種子なのか飲用向けの豆なのかは明らかではない。

コーヒーは、コロンビアのカルタヘナ(Cartagena)を経由して、パナマのポルトベロ(Portobelo)へ到着したらしい。しかし、パナマへコーヒーがいつどのようにして持ち込まれたのかははっきりしない。フランス領カリブ海のマルティニーク島、あるいはハイチから、コロンビアのカルタヘナ(Cartagena)を経由して、パナマのポルトベロ(Portobelo)へ到着した、あるいは、1748年にコーヒーが持ち込まれたキューバから、島から島へ、港から港へ渡り、カルタヘナからポルトベロへ、こっそりと持ち込まれたとも考えれられる。

1780年代から90年代にかけて、入植者のペドロ・アントニオ・デ・アヤルサ(Pedro Antonio de Ayarza)がポルトベロに所有していた大規模なプランテーションでコーヒーが栽培されていたことが、マラスピナ遠征隊(Malaspina Expedition)の1人によって記録されている。しかし、沿岸部のポルトベロはコーヒー栽培に向いていないために、本格的なコーヒー栽培は、他の地域に移植された19世紀を待たなければならない。

その最初のものは、1790年に、マラスピナ探検隊のメンバーの1人が書いたものである。「コーヒーも栽培されているが、彼らは栽培しておらず、ポルトベロでは(ペドロ・アントニオ・デ・)アヤルサという人が栽培しているだけだ」と、彼は地元の作物について述べた。

El primero de ellos, que data de 1790, fue escrito por uno de los miembros de la expedición Malaspina. Nos dice, refiriéndose a los cultivos locales, que "el café se da también ; pero no lo cultivan y sólo el dicho [Pedro Antonio de] Ayarza coge algún poco en Portobelo"

Alfredo Castillero Calvo(1985)"El café en Panamá: una historia social y económica : siglos XVIII-XX",p.75

Colección de documentos inéditos sobre la geografía y la historia de Colombia:https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=UIxNAQAAMAAJ&q=Pedro+Antonio+de+Ayarza#v=snippet&q=Pedro%20Antonio%20de%20Ayarza&f=false

Repertorio histórico:https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=q7J4AAAAMAAJ&dq=Pedro+Antonio+de+Ayarza+Caf%C3%A9&focus=searchwithinvolume&q=Pedro+Antonio+de+Ayarza

カリブ海から太平洋へ目を向けると、1740年から60年頃に、当時ペルーの領土の一部であったグアヤキル(Guayaquil)からペルーへとコーヒーが紹介された。グアヤキルでは、1788年に地元で消費されるコーヒーの生産量は4トンに達した。1771年に、リマ(Lima)に最初のコーヒーハウスが登場した。当時のグアヤキル、リマ、パナマの長いカボタージュ (Cabotage) の貿易関係が、パナマにおけるコーヒーの飲用と取引に影響を与えたことも考えられる。

The Economics of Chocolate:https://books.google.co.jp/books?id=GTAiCwAAQBAJ&printsec=frontcover&hl=ja#v=onepage&q=coffee%20house%20in%20Lima%20appeared%20in%201771&f=false

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コーヒーの飲用

数多くの旅行者や年代史家が、運輸系統であったチャグレス川(Chagres River)沿いでコーヒーを飲用したことを記録している。ウィリアム・ジョンストン(William Johnston)は、『カリフォルニアへの陸路(原題:Overland to California)』において、1849年にゴルゴナ(Gorgona)の街(現在はガトゥン湖(英語: Gatun Lake、スペイン語: Lago Gatún)に沈んでいる)にあったミラー・ハウス(Miller House)のことを記録している。

「銀のポットで1ドルで提供され、リネンのテーブルクロスの上で熱くすすった、つねにホットケーキ、ゆでたタン、ビート、バターが添えられていた(sipped hot over a linen tablecloth, served in silver pots, for one dollar, always served with a hot cake, boiled tongue, beets and butter)」、「この道沿いのコーヒーは、この牧歌的な熱帯の光景に溶け込んでいた。(The coffee along this road was imbued with this bucolic tropical scene.)」

左 クロード・コベントリー 右 マチルド・デ・オバリオ 出典:Mallett Family History

パナマ共和国国立赤十字(La Cruz Roja Nacional de la República de Panamá)(または、またはパナマ赤十字(Cruz Roja Panameña))の創設者で、クロード・コベントリー(Claude Coventry)の結婚した、エクアドルとパナマの国籍のエッセイスト、フェミニスト、慈善家であるマチルド・デ・オバリオ(Matilde de Obarrio, 1872 - 1964)は、『パナマでの植民地生活のスケッチ(原題:Sketches of Colonial Life in Panama)』で、庭での入浴から戻ってきた後のコーヒーについて記している。

5時半に子供たちは海に浸るために使用人と一緒にビーチに駆け上がったり、雨の朝だったら、小さな手や顔をいつも十分な物資を持っていたベナンシアが作ったローズ・ウォーターで洗ったりした。水がきちんと日光を浴びた時は、午後に庭のお風呂に入った。太陽の熱で浄化されていない水を浴びることは危険だと考えられていたからだ。ベナンシアはせっけんの木の棒も担当していて、歯を磨いてもらうため、子供たちは朝に一人ずつ彼女のところにやって来た。

6時に、執事であるディオニシオは、早めの朝食の準備をした ー マスターのためのホットコーヒー、子供たちのためのミルク、ボロとチーズのスライス。 キャッサバ、または、いつもパンの代わりに提供されたボロを。

At half past five the children would be up and run to the beach with their slaves for a dip in the sea , or if it were a rainy morning , their little hands and faces would be washed with rose water made by Benancia , who always kept a plentiful supply , and the bath in the garden would be taken in the afternoon , when the water had been properly sunned. To bathe in water unpurified by the heat of the sun was thought dangerous . Of the soap wood sticks Benancia had charge also , and one by one the children came to her of a morning to have their teeth polished .

At six Dionisio , the butler , had early breakfast ready , - hot coffee for the masters , milk for the little ones , with slices of bollo and cheese . Casave , or bollo , was always served in lieu of bread .

Matilde de Obarrio(1915)"Sketches of Spanish-colonial life in Panama"p.8-9.

「サードサービス」では、テーブルクロスも交換し、生花を使い、キャンドルを灯した。これがデザートの時間で、コーヒーとリキュールが続いた。夕食が終わり、ボールが始まると、時計は10時を刻んだ。

At the " third service ” even the table cloth was changed ,fresh flowers were used , and candles were lit . This was dessert time , and coffee and liqueurs followed . When dinner was over and the ball began , the clock had struck ten .

Matilde de Obarrio(1915)"Sketches of Spanish-colonial life in Panama"p.55
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フレンチ・カフェ

1822年にパナマがスペインから独立した後、フランスの外交官および探検家であったガスパール・テオドール・モリエン(Gaspard Théodore Mollien, 1796 - 1872)は、パナマのカフェについて言及している。

パナマにコーヒーしか出さないカフェがあった。

Il y a un café à Panama; on n'y donne que du café:

Gaspard Théodore Mollien(1823)"Voyage dans la République de Colombia",p.142

カリフォルニアのゴールドラッシュとフランス人の夢が、パナマ運河建設の時代を形成した。ゴールドラッシュの時代には、コーヒー・ブレークがパナマ・シティ(Panama City)で日常的な光景となった。パナマ・シティで最もエレガントな場所であるとみなされていたホールが、カテドラル・スクエア(Cathedral Square)のカテドラル広場(Plaza de la Catedral)にあったフレンチ・カフェ(French Café)だった。そこは、フランス人建築家ジョージ・ロウ(Georges Loew, 1822 - 1879)によって建設されたグランド・ホテルの1階にあったカフェだった。

フランスの海軍技師、海軍士官、地理学者であったアルマン・ルクリュ(Armand Reclus, 1843 - 1927)もまた、このカフェがパナマの訪問者の会合、最近起こった出来事、商談、国境を超えた場所で起こっていることに関して話し合いをする場所として、いかに重要な場所であったかを語っている。

街のすべての紳士、通りすがりの外国人はすべて1階のカフェに集まり、前述のカフェのカウンター(またはここではバー・ルームのことを言う)が亜鉛でできているという名誉にはあずかっていないが、ー費用が削減されたためであるーそれは少なくとも真の意味でパナマ証券取引所であり、最も重要なビジネスが行われる場所である。

Tous les messieurs de la ville, tous les étrangers de passage se donnent rendez-vous dans le café du rez-de-chaussée, Et si le comptoir dudit café (ou comme on dit ici du bar-room) n'a pas l'honneur' d'être en zinc - on a reculé devant la dépense - il est du moins la vraie Bourse de Panama, le lieu où se traitent les affaires les plus importantes.

Armand Reclus(1881)"Panama et Darien : voyages d'exploration / par Armand Reclus"p.75

ちなみに、かつてフランスでは腐食防止のためにカウンターに「亜鉛(Zinc)」を貼っていたことから、「ザンク(Zinc)」はカウンターやカフェの意味を持つようになった。

Georges Loew (1822-1879) - Find A Grave Memorial:https://www.findagrave.com/memorial/109836172/georges-loew

カフェ・コカ・コーラ

カフェ・コカ・コーラ 1924年

1875年、パナマ・シティに現在カフェ・コカ・コーラ(Café Coca Cola)として知られる店が誕生した。当時はカフェ兼アイスクリーム・パーラーであり、現在はカフェ・レストランとして営業している。カフェ・コカ・コーラは、パナマ・シティで現在も営業しているカフェとしては最も古いカフェであり、顧客にはチェ・ゲバラ(Ché Guevara)、エバ・ペロン(Evita Perón)、セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)などがいたそうだ。

1906年、パナマはキューバとともに、コカ・コーラをアメリカ合衆国以外で販売した最初の国となった。コカ・コーラは、パナマ運河建設のために働くアメリカ人の喉の渇きを潤す飲み物として最適だった。コカ・コーラは非常に人気があり、1918年にパナマの瓶詰め工場のオーナーがカフェを購入したとき、そのカフェを「カフェ・コカ・コーラ(Café Coca Cola)」と改名した。そして、このカフェは、コカ・コーラ社によって「コカ・コーラ(Café Coca)」の名を冠することを許された世界で唯一のカフェとなった。

カフェ・コカ・コーラは、ユネスコ世界遺産(UNESCO World Heritage)「パナマ・ビエホとパナマ歴史地区(Archaeological Site of Panamá Viejo and Historic District of Panamá)」の「カスコ・アンティグオ(Casco Antiguo)」の一部となっている。

A Short History of The Coca-Cola Company:https://www.coca-colacompany.com/content/dam/journey/us/en/our-company/history/coca-cola-a-short-history-125-years-booklet.pdf

パナマ運河建設とヌエボ・エンペラドール

エンペラドールの村落 出典:La Estrella de Panamá

レセップスのパナマ運河会社による運河建設の失敗の後、アメリカ合衆国によって事業は引き継がれたが、地獄のような熱帯の灼熱と蚊の被害によって、数多くの人々が亡くなった。一方で、コーヒーはコロン県(Colón Province)からコクレ県(Coclé Province)の低地にまで広がり、パナマのコーヒー栽培は、そこからパナマ西部の高地にまで広がっていった。

運河の建設者は、船を通すためには、水を貯めるための大きな湖を作らなければならないことを知っていた。浸水した地域には、すでに人の記憶から忘れ去られた名前も含む数多くの村があった。浸水しなかった他の居住地は、行政規定により、運河地帯に再定住する退去するかを余儀なくされた。1912年の国勢調査では、62,810人の住民が登録されていたが、アメリカ合衆国当局はこの時、運河地帯における商業と私有財産を排除する決定を下したのである。

アメリカ合衆国大統領ウィリアム・ハワード・タフト(William Howard Taft)は、これらの人々が住んでいた地域のすべての土地が運河のために必要であるとし、そこに住んでいた約4万人の人々を追放することを決定した。エンペラドール地区(Emperador District)は、追放の対象となった地区の1つであったが、数年後にヌエボ・エンペラドールという名の新たな地区が生まれることになる。

エンペラドールは、1882年の法律46号によってコロンビア統治下のパナマ州(Panamá Department)(後のパナマ県(Panamá Province))に設立された。1903年にパナマ運河地帯の管轄下になるまでは、コロンビア・ペソの通貨が流通していた。

エンペラドールは、ラス・カスカダス(Las Cascadas)の南に位置し、運河建設時にはパナマ地峡運河委員会中央部の本部となっていた。そこには、クレブラ・カット(Culebra Cut)で使われた機械式、または蒸気式のショベルを修理するための作業場もあった。エンペラドールは、エンジニア部門の拠点、委員会の本部であり、さらにゴールドラッシュの時代には、旅行者が必ず立ち寄る場所であった。1908年の国勢調査によると、人口は5,139人で、内訳は白人1,659人、黒人3,388人(混血、先住民を含む)、アジア人(中国、日本、フィリピン)92人となっている。

1910年に、パジャ(Paja)というコレヒミエントが、西パナマ県アラハイハンの地区(Arraiján District)に設立された。最初の入植者たちは、主にエンペラドールからやって来た。後にパナマ運河地帯の一部となり、パナマ運河地帯にいたスペイン人、コロンビア人、パナマ人、少数のプエルトリコ人、アンティル人、マルティニーク人など異国の人々の入植地となった。パジャは、後にエンペラドールから新しい住民がやって来たことで、ヌエボ・エンペラドール(Nuevo Emperador)と改名された。

キャプテン・マケンケ(Captain Maquenque)として知られるエミリオ・カマルゴ・キンテロ(Emilio Camargo Quintero)は、ヌエボ・エンペラドールの最初の入植者の1人だった。彼はパナマ運河地帯のアメリカ合衆国のかつての租借地、チボ・チボ(Chivo Chivo)で働いた後、1911年にグリンゴ(Gringo) (スペイン語圏から見たアメリカ人)たちに割譲された土地へ、貯めたお金を携えてやって来た。ヌエボ・エンペラドールに、彼がオレンジと米の栽培するための土地が約束されていたからだ。彼は郷愁の想いから浮かび上がる夢を諦めきれなかった。「カンパーナ・デ・カピラに戻りたい…、私の土地に戻って、父のパブロのコーヒー農園のコーヒーの花の香りを嗅ぎたい。(I wish to return to Campana de Capira..., to return to my land, to smell the coffee flowers in my father Pablo's coffee plantation.)」

エミリオのこの記述は、コーヒーが西パナマ県(Panamá Oeste Province)カピラ(Capira)ですでに栽培されていたことを示している。

エミリオは、パブロ・カマルゴ(Pablo Camargo)とダミアナ・キンテロ(Damiana Quintero)の息子として生まれた。ユネスコの元職員であるエディリア・カマルゴ(Edilia Camargo)は、エミリオの娘である。

エディリア・カマルゴは、その著作『エンペラドールのマケンケからカラバリへの土地(原題:De Maquenque a Carabalí por Emperador)』で、そこに定住した人々が主に農業に従事していたと記録している。ヌエボ・エンペラドールの初期の住人は、ユッカやバナナなどの多年生作物の栽培に関わる農家だった。運河の西岸には、運河管理者から植栽用の土地が認められていた。一家には50ヘクタール以下の土地が割り当てられ、1ヘクタールあたり年間5ドルが支払われた。

Edilia Camargo en su obra De Maquenque a Carabalí por Emperador , documenta que las personas que se asentaron allí estaban vinculadas a la agricultura principalmente. Los primeros habitantes de Nuevo Emperador eran agricultores dedicados a la siembra de yucas, plátanos y otros cultivos perennes. Concesiones fueron otorgadas por los administradores del Canal en tierras de la ribera oeste del Canal para ser utilizadas para la siembra. No más de cincuenta hectáreas fueron asignadas por familia a razón de del pago de una suma de cinco dólares anuales por cada hectárea.

"Nuevo Emperador, historias por contar",La Estrella de Panamá 2019年5月5日.

エディリアは幼少期に、サン・フェリペ出身の母の気を引くために物語を語ることを覚え、ヌエボ・エンペラドールから歩いて1時間以上かかる祖父の農園「エル・セラーノ」に愛を求めて到達した。そこは オレンジの木、コーヒー、サトウキビ、牧草などが栽培されている5ヘクタールの土地で、祖父の誇りだったが、エディリアが言うように「自分の土地ではない」ため、父親は無関心だった。いつも孤独だったエディリアは、谷間の水、鳥、雲に語りかけ、カエルやトカゲの背後にある岩の間を歩くことを学んだ。

Edilia aprendió a contar cuentos en su primera infancia para distraer a su madre, exresidente “de adentro” de San Felipe y aterrizada por amor en la finca de su abuelo, El Serrano, la cual quedaba más de una hora a pie, desde Nuevo Emperador. Eran cinco hectáreas de tierras cultivadas de naranjales, café, caña de azúcar y potreros, orgullo de su abuelo, pero indiferente para su padre, pues, como dice Edilia, “no era la suyo”. Muy solitaria siempre, Edilia aprendió a hablarle al agua de su quebrada, a los pájaros, a las nubes; y a caminar entre las rocas detrás de las ranas y los merachos.

"Con sus propias alas, Edilia Camargo supo volar alto",La Estrella de Panamá 2020年5月22日.

Edilia Camargo:http://www.helpagela.org/nete/conoce-a-nuestros-activistas/edilia-camargo/

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