コロンビア 「マニサレスのフアン・バルデス」 オラシオ・モントーヤの失敗したスペシャルティコーヒー
オラシオ・モントーヤ
オラシオ・モントーヤ(Horacio Montoya)は、コロンビア(Colombia)のコーヒー生産者一家に生まれた。 アンティオキア県(Antioquia Departent)マリニリャ(Marinilla)出身の祖父母は、彼らの子孫と同様に、幼い頃からコーヒー栽培に従事していた。モントーヤの父親は、1950年代にモントーヤの農園があるアルト・デル・ナランホ(Alto del Naranjo)の隣の地区であるカセラータ(Caselata)にやってきて、コーヒー栽培を生業としていた。
モントーヤは、若い頃は父親と一緒に働いていたが、独立してからはマニサレス(Manizales)に家を買い、作物を増やすために隣の農園にも区画を作るほど豊かになった。このようにして、彼は生産量と認知度を高めていった。
1986年、モントーヤは、マニサレスから10分ほど離れたアルト・デル・ナランホにある農園「ラ・アルゲリア(La Argelia)」を購入した。農園を購入した直後は、10人の助手を雇うほど金銭的な余裕があった。彼の流暢な言葉と親しみやすさは、市のコーヒー生産者委員会の主要メンバーとなることや、連盟の役員と話をしたり、外国人観光客を自宅に迎えることに役立った。
2003年、45歳にして初めて国外に旅をした。モントーヤはそれまで、飛行機に乗ったことも、国外に出たこともなかった。ボストンでの滞在は素晴らしい体験で、コロンビアのコーヒーが他の国でどれほど評価されているかに驚いた。戻ってきて、彼は考えた。「世界で一番おいしいコーヒーを作っているのなら、そのコーヒーを飲めばいいじゃないか。」
こうして、特別なコーヒー「アルト・デル・ナランホ」が誕生したのである(この特別なコーヒーは、いわゆるスペシャルティコーヒーではない)。このコーヒーは、職人的な方法で生産された。彼の妻ルセロ・アテホルトゥア(Lucero Atehortúa)が焙煎係で、鍋に豆を入れておたまでかき混ぜて焼いた。この方法では、1ポンド焼くのに30分かかった。その後、カルタヘナにバイヤーがやってきたとき、彼は焙煎機を手に入れ、4ポンドを25分で焼くことができるようになった。
モントーヤは、コーヒー生産者の間で地元のスターとなった。ガブリエル・シルバ・ルハン(Gabriel Silva Luján)のような政治家をはじめ、フランス、スペイン、ドイツ、イギリスの各大使などが訪れた。彼らが撮影した写真は、後にチラシやキャンペーンの図版として使われた。
毎日放送『世界ウルルン滞在記』「コロンビア 世界最高峰のコーヒーに…唐渡亮が出会った」
日本のテレビ局がコロンビアのコーヒーを紹介する番組を作ろうとしたとき、番組ディレクターと通訳がいくつかの農園を訪問した結果、モントーヤに白羽の矢が立った。カメラマン、録音技師、脚本家、俳優、政府役人、警備員などが1週間かけてやってきた。このようにして制作された番組が、毎日放送『世界ウルルン滞在記』2006年5月28日放送回「コロンビア 世界最高峰のコーヒーに…唐渡亮が出会った」である。
世界ウルルン滞在記コロンビア 世界最高峰のコーヒーに…唐渡亮が出会った(#492):https://dizm.mbs.jp/title/?program=ururun&episode=495
2008年、モントーヤは、日本で開催されたスペシャルティコーヒーの展示会「SCAJ2008」に呼ばれた。その際、当時の「ジャルーモ先生(Profesor Yarumo)」、カルロス・アルマンド・ウリベ(Carlos Armando Uribe)が同行した。ウリベによると、「コロンビアのコーヒー生産者の価値観を象徴しており、誠実で、勤勉で、コーヒーに献身的である」ことが、モントーヤが招待された理由である。彼は「マニサレスのフアン・バルデス」として、コロンビアのコーヒー生産者の象徴となった。
コロンビアコーヒー生産者連合会(FNC)農業アドバイザー カルロス・A・ウリベ博士、オラシオ・モントーヤ氏:https://emeraldmountain.jp/guest/1215/
そのおかげで、モントーヤの2人の子供、レイディ・ジョハナ(Leidy Johana)とディエゴ・アルマンド(Diego Armando)は、公立学校で学び、大学に進学することができた。その間、国内外のジャーナリストが彼を訪ねてきては、何らかの形で彼の逸話を語っていたが、その後、困難な時期と孤独が訪れたのである。
特別なコーヒーの失敗
モントーヤの自分たちの特別なコーヒーを広めようという考えは、厳しい現実に直面した。努力はしたが、結果は出なかった。専門家が「味や香りがいつも同じではない」と言うように、カップの一貫性が得られなかったのだ。
カルダスコーヒー生産者委員会のアルフォンソ・アンヘル(Alfonso Ángel)によると、カップに一貫性を持たせ、最終的にバイヤーが必要とする量を確保するようにしたとのことだ。しかし、モントーヤの農園に隣接する生産者は組織化されていたが、彼らはウェット・パーチメントを販売する習慣を持っていたため、進展しなかった。
さらにセニカフェ(Cenicafé)が、気候、土壌、精製が、この一貫性のなさに影響を与えているかどうかを調査したが、その結論は芳しくなかった。アンヘルは、モントーヤのコーヒーの特徴が「市場を開拓した」と認めているが、「ツバメが一羽きたとて夏にはならない」とも述べている。そのため、特別なコーヒーのプレミアムを得るという大きな幻想は消えてしまった。
その後、生産量の減少、ペソのドルに対する切り上げ、国際価格の低下などが起こり、55万世帯のコーヒー生産者に影響を与えた。大学の費用がかさみ、農園が赤字になっていたため、2009年に農園の一部をマニサレスのボリバル広場から半ブロック離れた場所にあるレストランと交換した。
彼の妻ルセロは、日の出から日没まで事業に専念した。モントーヤも手助けしたが、1年後、店の売り上げは激減した。彼はラ・アルゲリアを放棄することはなかったが、作物は力を失っていった。さらに悪いことは、2011年に雨風でコーヒー乾燥機が壊れてしまい、修理に必要なお金が手に入らないことだった。ルセロは生活のために、マニサレスで雑貨店を始めた。
危機的状況にもかかわらず、モントーヤは資源の不足と肥料の高騰のために、適切な肥料を与えることができなかった。1週間で平均1.5アローバのコーヒーを収穫し、マニサレスコーヒー生産者協同組合にウェットで販売した。利益を出すどころか、損失を積み重ねているのだから、彼はコーヒーの将来は不透明だと見ている。政府の補償は少額すぎて、補償にはならないとも述べている。また、お金のない組合にあえて新たな支援を求めようともしない。
小さなコーヒー生産者でありながら、国を代表して国際的なイベントに参加していたモントーヤだったが、週末にマニサレスの中心部にあるカフェテリア「トデロ(Todero)」で働きはじめることになった。子供たちがより良い仕事に就き、元気にうまくやり遂げてくれれば、彼は家のための塩を得るためだけに働けばいい。都会に出て収入の多い仕事を探そうと考えたことは否定しないが、車の騒音で夜も眠れないという。
<参考>
"Amargo o dulce, su vida es el café",LA PATRIA.COM<https://www.lapatria.com/actualidad/amargo-o-dulce-su-vida-es-el-cafe-44650>