タヒチ・コットン&コーヒー・プランテーション社と中国人殉教者 シム・スー・クン(Chim Soo Kung)
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タヒチ・コットン&コーヒー・プランテーション社と中国人殉教者 シム・スー・クン(Chim Soo Kung)

タヒチの中国人移民

"CHIM SOO KUNG - De Canton à Tahiti",Polynésie la 1ère 2017年9月29日.

アルフレッド・ジェイコブス(Alfred Jacobs, 1827- 1870)は、1861年に出版された『新しい大洋(Océanie Nouvelle)』の中で、1856年に中国人の大護送船団がタヒチに上陸したことを報告し、彼らの活動について数段落を割いて紹介しているが、移民が本格的に始まったのは1865年である。

1865年3月25日、タヒチ農業会社(la Compagnie Agricole de Tahiti)が募集した330人の労働者が、ラトゥーシュ・トレヴィル号(Latouche-Tréville)を島の近辺から曳航したプロイセンの3人乗り船フェルディナンド・ブルム号(Ferdinand Brumm)から下船した。

彼らを保護する措置が取られた。1848年の奴隷制廃止の帰結について研究していた帝国政府は、奴隷労働の消滅によって放棄されたプランテーションが滅びないように、奴隷労働を管理された移民による労働に置き換えることに関心を持っていた。当時の海軍大臣であったテオドール・デュコス(Théodore Ducos, 1801 - 1855)は、皇子大統領(ナポレオン3世)に、植民地労働者と所有者の関係をより明確に規定し、相互の義務を厳密に決定する必要があることを報告している。

1852年のデクレ(Décret)で移民の輸送について取り決めが行われ、1864年の『タヒチ広報(Bulletin officiel de Tahiti)』には、植民地諮問委員会が作成したアンティル諸島に到着した移民の配分と保護体制に関する法令の草案が参考までに掲載された。

タヒチ・コットン&コーヒー・プランテーション社

1862年3月10日、ナポレオン3世の全権公使の推薦を受けたオーギュスト・ソアレス(Auguste Soarès)は、ポルトガル人の友人たちとともに、875,000フランの資本金を作り、ロンドンのシンダル社(Messieurs Sindall and Co.)からエイメオ島(現在のモーレア島)の土地を譲ってもらい、フランス領インドで雇ったクーリーを使って、サトウキビとコーヒーのプランテーションを復興するという自らの計画を語った。

彼らの代理人の一人であるウィリアム・スチュワート(William Stewart, 1825 - 1873)は、すぐにオセアニアに渡った。ルイス・ウジェーヌ・ゴチエ・ド・ラ・リシェリー総督(Louis Eugène Gaultier de La Richerie, 1820 - 1886)は、ソアレスのアイデアの実現がタヒチにとって重要であると考え、11月4日に大臣に、スチュワートがエイメオ島をあきらめてタヒチの美しい谷間に狙いを定めたことを伝えた。割譲のために、行政は人々に対する合法的な力を行使した。

スチュワートの計画に明らかに魅了されたド・ラ・リシェリーは、1862年12月21日、「以上のことから、私は結論として、国の将来にとって非常に興味深い事業の始まりを確実にするために、オセアニアの島々へのインド人クーリーの移民を許可し、必要であれば、1,000人の中国人労働者の導入を承認するよう、閣下に強く要請いたします…」と述べている。

1863年5月、海軍大臣は外務大臣に宛てた手紙の中で、「中国人よりもタヒチ人に近い」2,000人のインド人を導入することを想定していたが、当時のイギリスとの関係からこの提案は却下され、1864年6月22日に海軍大臣から在中国フランス公使への勧告として、中国人移民の募集作戦が行われた。

1864年10月15日にド・ラ・リシェリーに代わって就任したエミール・ド・ラ・ロンシエール総督(Émile de La Roncière , 1803 - 1874)によると、香港からやってきた最初の輸送船団は、337人の移民で構成されていた。彼らのうち9人は渡海中に死亡し、治療にあたった中国人医師も亡くなった。船長によると、彼らの死因はアヘンによるものだった。

ソアレスの会社には、農機具や労働者の食料品に対する関税、製品に対する出国税、土地税などが特別に免除されることになっていた。特許の独占権と、開発予定地内の土地取得の独占権は、タヒチ・コットン&コーヒー・プランテーション社(Tahiti Cotton and Coffee Plantation Cy Ltd.)にあった。これらは先住民の所有者がスチュワートに売却した土地であったらしい。

1867年の報告書で、1865年には337人の中国人のうち24人が、1866年には949人のうち67人が死亡したことが報告された。まだ若かった男性の死亡率が7%と高いのは、アジア人が出身地とは異なる気候に適応するのが困難であったことを物語っているが、おそらく1日12時間の規定を超えて働かなければならなかった非常に過酷な労働条件も影響しているだろう。しかしこのような状況にも関わらず、報告書は楽観的な見方をしている。中国人は楽しそうに仕事に没頭し、喧嘩や対立、混乱を避けるために、各隊にそれぞれの国籍の監督官を置くことを決定したため、言葉の違いから生じる多くの紛争は回避されている、と。

「労働力の不足から中国人のクーリーを輸入するしかないが、人数が少ないと経費を捻出できないため、大きな困難が伴う。労働力を確保できれば、それによって農業が発展し、結果的に他の労働者を連れてくることが可能となる。さらには、西インド諸島で有効であった移民基金の設立を検討することができる。中国人が手本となり、彼らが労働から利益を得ているのを見て嫉妬することで、カナクが怠惰で呑気な生活を修正するきっかけになるのかもしれない」。ド・ラ・ロンシエールが大臣に説明したこのような困難な状況にもかかわらず、多くの輸送船団が上陸した。

1869年の乱闘事件と4人の死刑囚

シム・スー・クン(Chim Soo Kung)

ナポレオン3世の皇后に敬意を表してつけられた「ウジェニー(Eugénie)」という名の土地では、中国人とギルバート諸島、クック諸島、ツアモツ諸島、さらにはイースター島から来た労働者との間で、規律が守られていたが、トラブルが生じるのは避けられなかった。中国人のクーリーたちは、広東人(本地:Punti)と客家人(本地:Hakka)に分かれており、最初に到来した広東人に客家人たちは歓迎されなかった。

1869年に労働者たちの間で乱闘事件が起き、1人が死亡、1人が重傷を負った。タヒチ人8人、中国人8人の計16人が逮捕された。8人の中国人のうち、2人が無罪、2人が懲役5年、4人が死刑を宣告されたが、そのうち3人は恩赦を受けた。

残り1人の処刑は、1869年5月19日に予定されていた。しかしどういうわけか、恩赦を受けた3人の中国人のうちの1人が、間違って最初に処刑の現場に送られたのである。処刑されたシム・スー・クン(Chim Soo Kung)は、同胞たちを免責するために自ら犠牲になったと信じられている。

彼の遺骨は、1895年にヒノイ王子から寄贈された土地に建てられたタヒチの中国人墓地「永遠の安息の道(le Chemin du Repos Éternel)」に移され、年に一度、協会や大家族の代表者が彼の墓を訪れ、盛大に祝われている。

1873年にアティマオノ(Atimaono)の農園は倒産し、移民たちは強制送還されたが、320人はそのまま潜伏した。1904年から1914年にかけて、女性を含む2,000人以上の新しい移民が到来した。彼らは港湾労働者として働きながら、レストランやビジネスを開くための資金を貯めていった。彼らは繁栄し、女性や子供を連れてきて、今でもタヒチに見られるような商売人の家族を築いた。

その後、1918年から1928年にかけて、広東人たちが広東の大商館との間にあらかじめ商業的な目的を持ってやってきた。1949年に中国が毛沢東の共産主義に陥るまで、このコミュニティには中国への帰還という考えが根強く残っていた。1950年代には、統合化が始まった。1973年1月9日の法律により、タヒチの中国人にフランス国籍が与えられ、名前もフランス語化された。

ジャック・ロンドン『支那人』(原題:The Chinago)

ジャック・ロンドンの『支那人』(原題:The Chinago)は、シム・スー・クン(Chim Soo Kung)の事件をテーマにした短編小説である。

“The Chinago”の大筋を紹介したいと思う。この短編小説は二つの部分に分けられ、前半が法廷の話である。主人公「阿仇」はタヒチで出稼ぎをしている 500 人の中国人人夫の一人だが、ある日たまたま殺人現場に居合わせて、殺人事件に巻き込まれた。愚かなフランス人の裁判官は、農園の白人監督シェンメールが鞭で打った中国人人夫の顔にある傷痕のひどさで事実を判断したので、無実の阿仇は二十年懲役の判決を下された。白人と中国人の文化が違うから白人の法廷のやり方が分からないこともあり、また、裁判自体もフランス人社会の中にあったりしたので、仕方なく、阿仇はその判決を受け入れた。

 後半は処刑の話である。事態はさらに悪い方向に進んだ。晩餐会に参加していた裁判長が酒を飲みすぎて、本来死刑判決を受けるべき阿丑の名前を書く時に手がふるえてしまい、阿丑と阿仇を間違ったため、阿仇が死刑にされてしまった。処刑当日、憲兵は間違っていることに気づいたが無視した。処刑場に着いた後、農場監督シェンメールと警察部長も間違っていることに気づいたが、たかが中国人一人の命すぎないと考えたので、そのまま阿仇は死刑に処されて死んだ。無実の阿仇はフランスの裁判で二十年懲役になってしまったが、さらに阿丑と名前を間違われて死刑になってしまったのだ。みんなが間違っていることに気づいたが、にもかかわらず、こうして阿仇は死んだ。

劉 鵬「ジャック・ロンドンの中国人観の変化 : 彼の中国もの作品から読み取る」,鹿児島国際大学 , 37701甲第63号, p.75-76

 ロンドンは 1907 年 2 月 27 日に“南海の楽園”と呼ばれているタヒチ島に辿り着いた。そして、パペーテ(Papeeta)からライアテア島(Raiatea)及びターハーアー(Taha’a)を経てレヴァヴァウ(Raivavae)に至った。そして、1908 年 4 月 15 日に、スナーク号の乗組員はレヴァヴァウ(Raivavae)を後にした。そして、1908 年 4 月 24 日より前に“The Chinago”を脱稿した。つまり、これはタヒチから出た直後に書いた小説ということになる。このタヒチは中国人と深く関わっている。ロンドンが“The Chinago”を書き始める約 40 年前の 1865 年 3 月に 337 人の中国人労働者がタヒチに辿り着いており、彼らは白人の農園で日雇い人夫として綿花やコーヒー豆や砂糖キビなどを植えていて、毎日 12 時間から 15 時間も働いていた。しかし、残念ながら渡って来た中国人は二つに分かれた、一つは広東人、もう一つは客家人である。二つに分かれたこれらの中国人たちの仲が悪くなって彼らはよく喧嘩した。そして、こんな事件が起こった。1869 年に喧嘩をしたときに一人の中国人が死んでしまったのだ。まもなく何名かの中国人が捕まって、フランス人による裁判で判決が下された(当時タヒチはフランス領である)。その結果は四人が死刑になったが、その中の一人[Chim Soo Kung 沈秀纯]は仲間を救うためにすべての罪をかぶり、自分を犠牲にしてほかの仲間三人を救った。

 以来、彼はタヒチにいる中国人の間では英雄と見られている。年に一回、彼の墓の前に集まってすべての喧嘩をやめて平和を誓い、このことがタヒチにいる中国人の団結のしるしにもなっている。しかし、彼にほんとうに罪があったのかということは今でも疑問である。とはいえ、この話はタヒチで拡散していて、タヒチの人のほとんどが知っている。現在、タヒチの文化を紹介するホームページにもこの事件が載っている。

劉 鵬「ジャック・ロンドンの中国人観の変化 : 彼の中国もの作品から読み取る」,鹿児島国際大学 , 37701甲第63号,p.77

ジャック・ロンドンは、シム・スー・クンの事件を起点に、イギリスのプランテーション資本主義とフランスの植民地体制が融合した制度の中で窮地に立たされたクーリーの物語を通して、誤解と不和を文学的に探究した。

 フランス人たちは、植民地化の才がなく、島の資源の開発でも幼稚な遊戯同然で徒労に終わっていたから、英国会社が成功するのを見てただただ喜んだ。

ジャック・ロンドン(1999)『アメリカ残酷物語』,辻井 栄滋, 森 孝晴訳,新樹社.p.121

シム・スー・クンが自らを犠牲にして仲間を救ったのか、それとも単なる間違いによって不運にも処刑されてしまったのかは、現在の中国社会で解釈の相違がある。シム・スー・クンが自らを犠牲にしたと信じる人々にとって、彼はタヒチの中国人移民社会の団結のしるしであり、殉教者として扱われている。しかし、彼の犠牲のリアリティを疑問視する人も多くいる。『支那人』では、彼は間違いのために処刑された存在として描かれている。

 そうして時間は心地よく過ぎていき、やがてアーティマオーノウに着くと、らばば絞首台の基部まで速足で駆け寄っていった。そして絞首台の陰には、気の短い巡査部長が立っていた。阿仇は、絞首台のはしごをせき立てて登らされた。片側の下のほうには、農園の支那人たち全員が集められているのが見える。シェンメールは、この一件は良い見せしめになると判断し、それで畑から支那人たちを呼び寄せ、立ちあわせたのだ。阿仇を見つけると、みんなは低い声で早口にペチャクチャと喋った。手違いがわかったのだ。が、それを内緒にしておいた。不可解な白人連中のことだから、おそらく気が変わったのだろう。一人の無実の男の命を取らないで、別の無実の男の命を取ろうとしているのだ。阿丑(アー・チヨウ)それとも阿仇(アー・チヨ)ーどっちにせよ、どうだっていうのだ。支那人たちが白人を理解できないのは、白人にも支那人を理解できないのと同じことだ。

ジャック・ロンドン(1999)『アメリカ残酷物語』,辻井 栄滋, 森 孝晴訳,新樹社.p.134

すべての人物が事実を知っているが、誰も事態を止めることがないという物語の主題は、ガブリエル・ガルシア・マルケスの『予告された殺人の記録』を思い起こさせる。しかし、シム・スー・クンの事件はマジック(魔術)ではなくリアル(現実)な事件である。

現在のコーヒー生産

タヒチは、1960年代のフランスの核開発計画により、農業はほとんど崩壊した。 1965年までコーヒーとバニラの輸出はなかった。

現在は、主にルルツ島(Rurutu)とラパ島(Rapa, Rapa Iti)の2つの島でコーヒーの栽培が行われれいる。

<参考>

"Les chinois de Polynésie",OpenEdition<https://books.openedition.org/sdo/185>

"Chim Soo Kung, le martyr chinois d’Atimaono",TAHITI HERITAGE<https://www.tahitiheritage.pf/chim-soo-kung-martyr-chinois/>

劉 鵬 鹿児島国際大学リポジトリ<https://iuk-repo.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=50&order=16&lang=japanese&creator=%E5%8A%89+%E9%B5%AC&page_id=13&block_id=21>

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