パナマ レリダ農園の歴史
レリダ農園の歴史
レリダ農園(Finca Lérida)は、フィンカ・レリダ ホテル・ブティック & コーヒー・プランテーション(Finca Lérida Hotel Boutique & Coffee Plantation)が経営するコーヒー農園とホテル事業です。
フィンカ・レリダ ホテル・ブティック & コーヒー・プランテーション(Finca Lérida Hotel Boutique & Coffee Plantation)は、レリダ・コーヒー・エステート(Lérida Coffee Estate)として、パナマ(Panama)チリキ県(Chiriquí Province)ボケテ地区(Boquete District)にコーヒー農園を展開しています。
トレフ・バチェ・モニック
トレフ・バチェ・モニック(Tollef Bache Monniche)は、1874年8月27日ノルウェーのスルナダレン(Surnadalen)で、カール・アレクサンダー・モニック(Carl Alexander Monniche)とソフィア・グートルン・バチェ(Sofia Gudrun Bache)の間に生まれました。
彼は幼少期を故郷で過ごした後、1894年にオスロにあるノルウェー陸軍士官学校(The Norwegian Military Academy)を卒業しました。その後、彼はドイツのドレスデン工科大学で土木工学を学びながら、ノルウェー陸軍の中尉を務めました。1901年に成績優秀で卒業した後、彼はすぐにアメリカ合衆国に移り住みました。
大学で土木工学の最先端の知識を吸収した彼は、アメリカ合衆国で、マンハッタン・バレーの高架橋、ニューヨーク市地下鉄、ペンシルベニア鉄道、フィラデルフィアの数多くの地下鉄と高架鉄道など、様々な建設事業に携わりました。
1907年10月に、彼はワシントンから、10年間にわたるパナマ運河の建設プロジェクトの仕事の依頼を受け、承諾しました。彼の最初の仕事は、パナマ運河工事委員会 (Isthmian Canal Commission)の閘門とダム部署のアシスタント・エンジニアでした。しかし翌年には、閘門の6つの非常ダムを担当する設計エンジニアとして、パナマに異動しました。
モニックが設計したこれらのダムは、前例ない構造を特徴とするものでした。これまで最も重い構造のダムは約2,800トンでしたが、彼の設計したダムは3,400トンの重さを持つ構造でした。
1914年にこれらの仕事を終えた後、彼はコロン市にあるパナマ地峡鉄道のクリストバル港のドック・ターミナルの設計と建設を担当する堤防エンジニアとして配属されました。彼は1917年に辞職し、妻とともにボケテへ移住するために引退しました。
モニックの妻、ジュリア・トリブル・ハガー(Julia Trible Huger)は、アメリカ合衆国に最初に入植した家族の子孫でした。彼女の祖父は、南部、特に彼女の故郷であるバージニアの名士でした。彼女は13植民地 (Thirteen Colonies)のアメリカ独立戦争で使用された祖父の剣を携え、ボケテへと移住しました。
モニックはボケテで、農家から「レリダ(Lérida)」という不動産を購入しました。「レリダ(Lerida)」は、ムーア人によって設立されたスペインの「レリダ(Lérida)」(現在の「リェイダ(Lleida)」)という都市にちなんで付けられた名前でした。10年間の激務から回復するためにしばらく骨休めするはずでしたが、彼はその土地の木で家を建て、コーヒー農園を始めることを考え始めました。
当時パナマ・シティからダビッドまでは5日、ボケテまでは馬でさらに2日かかりました。ボケテでは、1つのトレイルを辿るだけで、「レリダ」に行くことができました。
モニック夫妻がレリダに住み始めた頃は、灯油ランプを使い、小川から水を運んでいました。また、ジュリア夫人は、薪ストーブで料理をしていました。
彼らは最終的に、365ヘクタールもの広大な土地を所有することになりました。そこでは、コーヒー、野菜、イチゴ、ナシ、ブラックベリー、プラムなどの様々な作物が栽培され、七面鳥、鶏肉、牛、馬が飼育されました。また、モニックは、現在ボケテ地区全域で栽培されているアボカドをグアテマラから移植しました。
道路が未整備で、水も少ない環境でありながら、モニックは美しく繁栄したコーヒー農園を作り上げることに成功しました。1929年には、12,000本のコーヒーノキから930キンタル(204,600ポンド)の収穫がありました。この収穫の大部分はドイツに輸出され、当時の3倍の値段で販売されました。そして、レリダはドイツにパナマのコーヒーを輸出した最初の農園となりました。
モニックは100ヘクタールの未開の密林を保護区とし、コーヒーの精製のために十分な水を得るために40平方フィートの池を作りました。また、彼は水を引き揚げるために、レリダのトレイルから密林全体へ、馬と男性の力を借りて、2インチのチューブを持ち込みました。
彼はコーヒー生産に必要な機械のほとんどを自ら制作しました。果肉除去機「シフォン(Sifon)」のようないくつかの発明は、今でもボケテ地区で使用されています。
彼はまた自然主義者として、40年間を過ごしたボケテ地区の山地で、鳥の取集に専念しました。チリキ県で最高の1つに数えられる彼のコレクションは、1956年にシカゴのフィールド自然史博物館 (Field Museum)によって取得されました。
1956年、モニックは老齢のために、自らの土地をアルフレッド・コリンズ(Alfredo Collins)とインガ・コリンズ(Inga Collins)に売却し、アメリカ合衆国へと旅立ちました。モニック夫妻は、彼らが結婚したバージニア州ロアノークでしばらく過ごした後、テキサス州オースティンに移住しました。モニックは1958年12月、84歳で亡くなりました。
レリダで子供の頃にコーヒーを収穫した経験を持つラファエル・グエラ・レデズマ(Rafael Guerra Ledezma)によると、ボケテ地区がモニックの訃報に接した時、彼に敬意を払い、多くの場所で黙祷が捧げられたそうです。
ジュリア・モニッシュは、夫より長生きしました。 1964年10月、テキサス州オースティンに住んでいた彼女は、アメリカ合衆国の引退した船長であるジュリアス・グリゴレ(Julius Grigore)に、チリキ県のワシントン・ネーブル・オレンジ・ツリー(Washington Navel Orange Tree)の調査をするための情報を提供しました。
1960年3月18日、アメリカ合衆国議会の第86回会期の前に、テキサス州の代表であるクラーク W.トンプソン(Clark W. Thompson)は、モニックを優れた土木工学者として生涯を送った才能のあるノルウェー人として、政府として公式に認めました。彼は土木工学と農業のどちらにおいても、並外れた先駆者でした。
レリダ・コーヒー・エステート
レリダ・コーヒー・エステート(Lérida Coffee Estate)は、レリダ・エステート(Lérida Estate)、エスプレンドローサ・エステート(Esplendorosa Estate)、エル・サルト・エステート(El Salto Estate)、フローラ・エステート(Flora Estate)、アメリア・エステート(Amelia Estate)の5つの農園から構成されています。
レリダ・エステート
レリダ・エステート(Lérida Estate)は、ボケテ地区アルト・キエル(Alto Quiel)に位置しています。標高1,600m - 2,000mm、70ヘクタールで様々な品種が栽培されており、40ヘクタールが野生生物保護区です。
レリダ・エステートは、1920年代に創業したレリダ・コーヒー・エステートを代表する農園です。
エスプレンドローサ・エステート
エスプレンドローサ・エステート(Esplendorosa Estate)は、ボケテ地区ハラミージョ(Jaramillo)に位置しています。標高1,600m、4.5ヘクタールでゲイシャ(Geisha)が栽培されています。
エル・サルト・エステート
エル・サルト・エステート(El Salto Estate)は、ボケテ地区エル・サルト(El Salto)に位置しています。標高1,600m、32ヘクタールでティピカ(Typica)が栽培されています。
フローラ・エステート
フローラ・エステート(Flora Estate)は、ボケテ地区ボルカンシト(Volcancito)に位置しています。標高1,400m、4.5ヘクタールでカツアイ(Catuai)とパカマラ(Pacamara)が栽培されています。
アメリア・エステート
アメリア・エステート(Amelia Estate)は、ボケテ地区ハラミージョ(Jaramillo)に位置しています。標高1,600m、32ヘクタールでコーヒーが栽培されています。ベスト・オブ・パナマ(BoP)(Best of Panama)に入賞したパカマラのロットは、この農園で栽培されたものです。30ヘクタールが自然保護区となっています。
農園観光
レリダ農園には、ホテル、レストラン、コーヒー・ショップが併設されており、コーヒー・ツアーやバード・ウォッチングを行うことができます。
レリダ農園 Finca Lérida:https://real-coffee.net/category/coffee-origin/central-america/panama/boquete/finca-lerida