エジプト カイロのグロッピとエドワード・W・サイード『遠い場所の記憶 自伝』
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エジプト カイロのグロッピとエドワード・W・サイード『遠い場所の記憶 自伝』

ジャコモ・グロッピ

"رحلة نجاح جاكومو جروبي",Ahmed NabilMagdy 2015年12月7日.

ジャコモ・グロッピ(Giacomo Groppi, 1863 - 1958)は、1863年にスイスのティチーノ州(Ticino Canton)ルガーノ地区(Lugano District)ロヴィオ(Rovio)で生まれた。彼は彼の親戚から、ペイストリーの作り方を最初にスイスのルガーノ地区で、次にフランスのマルセイユ(Marseille)で学んだ。

ジャコモは、1880年代に親戚のジャノーラ家(Gianola Family)の事業に加わるために、エジプトのカイロ(Cairo)へ移り、すぐにアレキサンドリア(Alexandria)へと移り住んだ。スエズ運河が開通したことによるエジプトの著しい経済成長が、彼のエジプト移住をおそらく後押しした。

世界で最も豪華なカフェ

1890年、ジャコモが27才の時、アレキサンドリアのフランス通り(Rue De France)のジャノーラ家の事業を買収した。そして、彼はメゾン・グロッピ(Maison Groppi)というペイストリーと乳製品兼ショコラティエの店を創業した。彼は事業を拡大し、シェリフ通り(Rue Cherif)に支店を開店した。事業が素晴らしい成功を収めたため、彼は数年後に引退することを決めた。

ジャコモは、おそらく彼の故郷であるスイスのティチーノ州にノスタルジーを感じていた。1900年代初頭に、彼は故郷へと帰国した。しかし、投資に失敗し貯蓄を失ってしまったため、彼はすぐにカイロに戻ってくることとなった。

ジャコモは、この2度目の移住の時期(1909 - 1925)に、カイロのタラアト・ハルブ広場(Talaat Harb Square)、アドリー・パシャ通り(Adly Pasha Street)、ヘリオポリス地域(Heliopolis Area)に3つのカフェを開店した。これらは現在も彼の名前を冠している。

この中で最も有名なカフェは、タラアト・ハルブ広場にあるグロッピ・タラアト・ハルブ(Groppi Talaat Harb)である。最初にイギリス占領軍の将校たち、次にエジプトの上流階級を顧客としたこのカフェを、世界で最も豪華なカフェだと考える人もいた。

ファールーク1世とチョコレート

左 ジャコモ 右 アキレ

スエズ運河の建設に伴う財政的な負担による列強の支配と、その後の民族運動の鎮圧によって、エジプトはイギリスの占領下に置かれたため、グロッピはイギリス占領軍の将校たちの贔屓とするカフェとなった。

第一次世界大戦が勃発すると、グロッピはイギリス兵のための新しい制服を作った。それは「ザ・グロッピ・スーツ(The Groppi Suits)」と呼ばれた。終戦後、ジャコモは息子のアキレ・グロッピ(Achille Groppi, 1890 - 1949)に事業を譲渡し、スイスのロヴィオに帰国した。

アキレは事業を変革した。彼はエジプトにアメリカ合衆国のファスト・フード文化を持ち込み、アイスクリームの事業を興した。アキレはアイスクリームと乳製品の製造のための生乳を確保するため、あるいは様々な農作物を栽培するために、ナイル川沿いに2つの農園を持っていた。

グロッピはカフェ、パストリー、アメリカ風バー、農園、エジプト最大手のアイスクリーム製造会社の事業を手掛け、1700人の従業員、アイスクリーム事業の300人の従業員と、計2,000人の従業員を抱えていた。

グロッピは、クレーム・シャンティイ(Crème Chantilly)やマロン・グラッセ(Marron Glacé)など、フランス、スイス、イタリアのスイーツをエジプトに初めて紹介したことで知られている。グロッピでは、これらスイーツに加え、コンサートやダンスの場所も提供した。さらに、王宮、別荘、大使館で行われたパーティーのケータリング・サービスも提供した。

この時代のグロッピの繁栄は、エジプトの国王であったファールーク1世(Farouk I, 1920 - 1965)時代の栄華と腐敗の象徴と言えるかもしれない。

ファールーク1世は、グロッピで作られたチョコレートに非常に感銘を受け、第二次世界大戦中にジョージ6世(George VI)とその2人の娘、エリザベス(Elizabeth)とマーガレット(Margaret)に、100キログラムのチョコレートを贈答した。このエリザベスというのは、現在のイギリス女王であるエリザベス2世(Elizabeth II)のことである。

アキレは1949年に夭折した。すでにロヴィオに引退していたジャコモは、彼の孫であるセザーレ・グロッピ(Cesare Groppi)の手助けをするために、エジプトに向かった。

グロッピは1952年のカイロ大火(Cairo Fire)(または、暗黒の土曜日(Black Saturday))による壊滅的な被害を受けたが、焼失は逃れた。第二次世界大戦の後の政治的混乱の最中、ジャコモとセザーレは売れるものはすべて売った。

エドワード・W・サイード『遠い場所の記憶 自伝』

グロッピは、1950年代後半には、政治家、芸術家、作家、編集者など、国際都市カイロの多様な人々が集まるカフェとして復活した。

後にパレスチナ民族評議会(PNC)(Palestinian National Council)の議員となり、パレスチナ・イスラエル問題に深く関わることになるエドワード・W・サイード(Edward W. Said, 1935 - 2003)は、晩年の自伝『遠い場所の記憶 自伝(原題:Out Of Place: A Memoir)』において、グロッピ(グロッピー)の思い出を語っている。

彼女の息子の一人を諭して、週に一度は祖母をグロッピー[十九世紀−二十世紀初頭にできたカイロの高級喫茶店]に連れていきアイスクリームをおごることを約束させたとき、父は何かを成し遂げたような気がしたというが、当然だろう。

エドワード・W・サイード(2001)『遠い場所の記憶 自伝』,中野真紀子訳,みすず書房.p.18

サイードはエルサレムに生まれたが、彼の両親はカイロに住んでいた。サイードの出自を巡ってはエルサレムが話題にされることが多く、1992年に彼が45年ぶりにエルサレムを訪れた記録が『パレスチナへ帰る』という題名で出版されている。しかし、サイードのもう1つの出自であるカイロは、彼が幼少期を多く過ごした場所であり、『遠い場所の記憶 自伝』では、当時のカイロの様子がサイードの回想と相まって、生き生きと描かれている。

 一九三五年、両親は当時カイロに住んでいたが、それにもかかわらずわたしがエルサレムで生まれるように万事を取り計った。その理由については幼い頃何度も聞かされたーヒルダは先にカイロの病院で男子を出産した経験があったが、ジェラルドと名づけられたその子は生後まもなく院内感染症で死亡した。病院でまた同じような事故に遭うのはご免だと考えた両親は、夏のあいだからエルサレムに移り住んだ。十一月一日、わたしは自宅においてユダヤ人助産婦マダム・ベアーに取り上げられて誕生した。

エドワード・W・サイード(2001)『遠い場所の記憶 自伝』,中野真紀子訳,みすず書房.p.21

階級がある程度明確に区分されている社会では、現在のように何を飲食するかではなく、どこで飲食するかがステータスであった。

アフマドとわたしが常々からかいの種にしたのは、タウフィークの儀礼的な遠慮だった。彼はコーヒーとビスケットを差し出されると決まって辞退を申し出るが—「せっかくですが、わたしはもう友人とグロッピーで午後のコーヒーを済ませてしまいましたから」(グロッピーは繁華街にある流行りのカフェで、タウフィークはその常連を装おうと空しい努力を払っていた)—結局はいつも菓子を受け入れ、いかにも美味しそうにズルズル、ムシャムシャと音をたてながら平らげてしまうのだった。

エドワード・W・サイード(2001)『遠い場所の記憶 自伝』,中野真紀子訳,みすず書房.p.212

エジプトはギリシャやイタリア出自の人々がおり、事業を行うユダヤ人のコミュニティがあったため、西ヨーロッパの企業にとって重要な国だった。第二次世界大戦以前は、エジプトのビジネスにおける公用語は、アラビア語ではなくフランス語であった。そのため、グロッピでもフランス語が使用されていた。

 わたしたちが家族ぐるみで交際していた人々はグロッピーの店で食糧を調達したが、そこにあるエレガントな喫茶室のデリカテッセンでは、はっきりギリシャ人やエジプト人とわかる店員たちがいかにも発音しにくそうにフランス語でわたしたちに対応した。彼らにしてもわたしたちにしてもアラビア語を使ったほうがずっとうまく会話できただろうことは明白だったのに。

エドワード・W・サイード(2001)『遠い場所の記憶 自伝』,中野真紀子訳,みすず書房.p.226

サイードは、大学教育を受けるために渡米する。彼はプリンストン大学卒業後、カイロで父の事業を手伝うことになるが、結局事業を引き継ぐことはなく、知識人としての道を歩むこととなった。

 今にして思えば、わたしたちが合衆国に向けて出発する前の会話は、一種のお別れの儀式の一部を成していたようだ。「グロッピーで最後のお茶を飲みましょうよ」とか、「おまえが発つ前にもう一度だけ、みんなでクルサールのディナーというのはどう?」などと、母に訊かれたものだ。

エドワード・W・サイード(2001)『遠い場所の記憶 自伝』,中野真紀子訳,みすず書房.p.256

 カイロに対するノスタルジアが、わたしを動かす原動力となっていたわけではなかった。あの地において、非アラブとして、アメリカ人でないアメリカ人として、英語で読み書きする反英国戦士として、苦労させられると同時に甘やかされた息子として、わたしがいつも感じていた不協和音はあまりにも生々しく記憶されていたからである。

エドワード・W・サイード(2001)『遠い場所の記憶 自伝』,中野真紀子訳,みすず書房.p.273

再建

1952年にナーセル(Nasser, 1918 - 1970)が大統領となると、グロッピは国有化され、かつての繁栄した姿は影を潜めた。その後、1981年にグロッピはロクマ・グループ(Lokma Group)のアブド・エル・アジム・ロクマ(Abd El Azim Lokma)に売却され、ありきたりなカフェへとして都市に埋もれるようになった。

創業者のジャコモは、1958年にロヴィオにて96才で亡くなった。乳製品によって事業を拡大したスイスのネスレ(Nestlé)が、世界最大の食品飲料会社に成長したのに対し、スイス出身のジャコモによって創業され、エジプト最大手のアイスクリーム製造会社を手掛けたカイロのグロッピは、政治と時代の波に翻弄され、かつての名声を失ってしまった。

グロッピは現在、アルケミー・デザイン・スタジオ(Alchemy Design Studio)による再建計画が発表されている。

<参考>

Groppi<https://groppi-eg.com/>

"Project to restore Egypt’s Groppi cafes to their former glory",Arab News<https://www.arabnews.com/node/1503901/middle-east>

Groppi 1924<http://aviclo.weebly.com/uploads/5/0/9/5/50951081/groppi.pdf>

"If Only Groppi’s Walls could Talk",Al Shindagah<https://www.alshindagah.com/Shindagah78/eng/Groppi.htm>

"The Enduring Charm of Café Groppi in Cairo",Newsweek<https://www.newsweek.com/enduring-charm-cafe-groppi-cairo-64421>

Groppi Collection<https://www.swissinfo.ch/eng/groppi-collection/7018052>

"The important thing is GROPPI's"<https://shadowofthecrescent.blogspot.com/2016/10/the-important-thing-is-groppis.html>

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