モール・キングとダニエル・デフォー『モル・フランダーズ』、そしてトム・キングのトム・キングス・コーヒー・ハウス

今年(2020年)は、イングランドのトム・キングス・コーヒー・ハウス(Tom King's Coffee House)が創業して300周年だそうです(実際の創業が、300年前の1720年だったかどうかは定かではありません)。

モール・キングとダニエル・デフォー『モル・フランダーズ』、そしてトム・キングのトム・キングス・コーヒー・ハウス

トム・キング

風刺画に描かれたトム・キング

トム・キングス・コーヒー・ハウスは、トム・キング(Tom King、 本名:トーマス・キング(Thomas King))と彼の妻であるモール・キング(Moll King)によって創業されたイングランドのコーヒー・ハウスです。

トム・キングは、1694年頃にイングランドのウィルトシャー州(Wiltshire)ウェスト・アッシュトン(West Ashton)で生まれました。E.J. Burfordの"Wits, Wenchers and Wantons -- London's Low Life: Covent Garden in the Eighteenth Century"のよると、彼はエセックス州(Essex)サーロウ(Thurlow)の郷士であるトーマス・キング(Thomas King)と英国の政治家ジョン・コーデル卿(Sir John Cordell)の娘であったエリザベス・コーデル(Elizabeth Cordell)の間の子供であり、裕福な家庭の生まれであると考えられています。

「コヴェント・ガーデン(1726)」 ピーター・アンジェリス(Pieter Angillis)、Wikipediaより

トムは1708年に名門イートン校(Eton College)に入学、そして1713年にケンブリッジ大学キングスカレッジ(King's College Cambridge)に入学しました。しかし、彼はどのような理由かは分かりませんが放校になり、野菜や果物の卸売市場であったコヴェント・ガーテン(Covent Garden)で働き始めました。彼はそこで「ヒゲのないトム(Smooth’d-Fac’d-Tom)」として知られていたようです。

トムはそこでモール(Moll)と出会い、1717年に結婚しました。

モール・キング

モール・キング、The British Museumより

モール・キング(Moll King、本名:エリザベス・アドキンス(Elizabeth Adkins))は、1696年にセントジャイルズ教区(St Giles)のスラム、バイン・ストリート(Vine Street)(現在のグレープ・ストリート(Grape Street))の屋根裏部屋で生まれました。

彼女の父親は靴屋で、母親は果物や野菜の露天商だったようです。

子供の頃、彼女は市場で母親の手伝いをしていました。その後、召使いとして少しの間仕事をしていたようですが、一日中屋内にいることを嫌い、再び市場での仕事に戻りました。

そこでモールはトムと出会い、結婚します。

しかし、トムの不倫と家庭内暴力が始まり、彼らはすぐに別居をします。その後、モールはマレー(Murray)という男性と付き合い始めました。

モールは、この時期にジョン・スタンレー(John Stanley)という人物と付き合いがあったという話もあります。彼は愛人を刺した廉で、1723年にタイバーン(Tyburn)で絞首刑にされたそうです。

1715年から1720年のこの時期に、彼女はメアリー(Mary)またはマリア・ゴッドソン(Maria Godson)という偽名を使用し始めたようです。

モール・キングの伝説

ジョナサン・ワイルド、Wikipediaより

この時期のモール・キングについては、様々な逸話が残されています、

モールはスリであったと言われており、彼女は何度も逮捕されたという話が残っています。

彼女は悪名高い犯罪者であるジョナサン・ワイルド(Jonathan Wild)からスリを学び、ロンドンのソーホー地区にあるセントアン教会(St Anne's Church)で女性から金の時計を盗んだとして逮捕されそうです。この時、彼女はメアリー・ギルストーン(Mary Gilstone)という偽名を使用していたそうです。

モールは1718年12月に死刑を宣告されましたが、妊婦であることが確認されたため、アメリカ合衆国への14年の追放刑に減刑されたそうです。彼女は赤ん坊の離乳後に、メリーランド州(Maryland)アナポリス(Annapolis)に移送され、1720年4月23日に到着しましたが、すぐにイングランドへと帰国したそうです。これはジョナサン・ワイルドとのコネクションによるものであると考えられています。

1721年6月、モールはコヴェント・ガーデンのリトル・ラッセル・ストリート(Little Russell Street)で強盗を働き逮捕され、ニューゲート刑務所(Newgate Prison)に収監されました。この訴訟の法律文書で、彼女はモール・キング(Moll King)、別名モール・バード(Moll Bird)、別名メアリー・ゴッドソン(Mary Godson)と呼ばれています。この時も、ジョナサン・ワイルドの力によって、起訴は取り下げになったようです。

モールは追起訴されたことにより、1722年1月に再びアメリカ合衆国に移送され、1722年6月までにロンドンに戻りましたが、その年の9月に逮捕されてニューゲート刑務所に再び収監されました。彼女は1723年6月に再びアメリカ合衆国に移送されたそうです。

彼女が最後に追放刑の宣告を受けたのは、1734年だそうです。

しかし、彼女の使用していた名前は当時珍しいものではなかったため、複数のモールがいたと考えられています。そのため、実際にどの犯罪が彼女によるものなのかは定かではありません。

モール・キングとダニエル・デフォーの『モル・フランダーズ』

Gerald Howsonの1985年の著作、"Thief-Taker General: Jonathan Wild and the Emergence of Crime and Corruption as a Way of Life in Eighteenth-Century England"では、ダニエル・デフォー(Daniel Defoe)の『モル・フランダーズ(Moll Flanders)』は、モール・キングの人生に着想を得たものであると主張されています。

実際に、この小説で描かれる主人公のモル・フランダーズは、この時期のモールの人生と絡み合っています。

 デフォーは『ロビンソン・クルーソー』以下の作品をすべて「実録」(ノンフィクション)として世に出した。『ロビンソン・クルーソー』がアレクザンダー・セルカークの孤島生活記をモデルにしたものであるといわれているように『モル・フランダーズ』その他にもモデルやヒントを得た実在の人物がいたかも知れないが、すべてフィクションである。

「訳者あとがき」,デフォー『モル・フランダーズ(下)(岩波文庫)』,伊澤龍雄訳,岩波書店.p266

彼には六十年にわたる波乱に満ちた人生の体験がある。ニューゲートの牢獄生活も経験し、多くの囚人とも話し合ったろう。その中に『モル・フランダーズ』のモデルになるような女がいたかも知れない。それに彼は他人の仮面をかぶると、その役になり切る才能があった。嘘を真実とみせかけるには、事実(或いは事実らしきこと)を積み重ねることだ。物的な証拠固めを丹念にやることだ。数字を多用することだ。こんなところから彼独特の即物的リアリズムが生まれた。

「訳者あとがき」,デフォー『モル・フランダーズ(下)(岩波文庫)』,伊澤龍雄訳,岩波書店.p260

 中でも、彼女はこの植民地の住民の大部分がイギリスからひどい状態でこちらへやってきたことを話してくれました。それによりますと、大体彼らは二つの種類に分れ、一つは船長に連れてこられて召使に売り飛ばされる人たちで、「こういう連中のことは、もっとふさわしい呼び方では奴隷というんだよ。」と母はいっていました。もう一つは、重罪の判決を受けたり、死刑に値するほどのことで有罪になり、ニューゲートやその他の監獄から流刑担って来た人たちです。

 「こうした人たちがここへくるとね、」彼女はいいます。「わたしたちは別に差別をつけるようなことはしません。農園主が彼らを買いとり、期限がくるまで畑で一緒に働くんです。期限が切れると、独立して農園をやるよう奨励され、国から一定の土地を割当ててもらえるので、そこへ行って土地を切り開いたり耕やしたりして、それから自分のためにたばこやとうもろこしを植えるんだよ。それから商人はその作物のできる前にその収穫を担保に道具類や必要な品ものを掛け売りしてくれるので、毎年前の年より少しずつ多くの作物を植え、その収穫を担保に好きなものを何でも買うということになるというわけさ。」

デフォー『モル・フランダーズ(上)(岩波文庫)』,伊澤龍雄訳,岩波書店.p136-137

 この場合もまた例の用心深さが私にとって非常に助けとなりました。それはこうした連中と一緒にしばしば盗みを働いたものの、決して相手に自分の正体や住処を知らせなかったことです。また彼らの方でも時には私の跡をつけようとしたこともありますが、どうしても私の住処をつきとめることができませんでした。彼らはみな私のことをモル・フランダーズという名前で知っていました。が、そのうち少数の者すらしかと私がモル・フランダーズであることを知っていたというわけでなく、むしろ私がそれに違いあるまいと思い込んでいるに過ぎませんでしたけど。彼ら仲間の間では私の名前は非常によく知れ渡っていましたが、私を見付け出す方法は誰にも分からず、私の居所がロンドンの東の端なのか西の方なのか、その見当さえつきませんでした。この用心深さのお蔭で私はいつの場合も安全であったのです。

デフォー『モル・フランダーズ(下)(岩波文庫)』,伊澤龍雄訳,岩波書店.p73

 真実、この話がこの有名なモル・フランダーズの生涯の結末まで行っているとはいえない。というのは、死後書くことができない限り、誰も自分の障害の最後の結末まで書くことは不可能なことだから。しかし、彼女の夫の生涯は、第三者の手によって書かれているので、二人のことについてくわしく述べられている。それによると、何年あの国に一緒に暮らしたかがわかり、凡そ八年後に、その頃は二人は非常な金持ちになっていたが、二人ともイギリスに戻り、そこで彼女は随分と長生きしたようだ。最初ほどひどく前非を悔い、悔悟の人になり切っている風でもなく、ただ事実として、以前の生活のことについては、どの部分も、いつも嫌悪の情をもって話したというようなことだ。

「著者の序」,デフォー『モル・フランダーズ(上)(岩波文庫)』,伊澤龍雄訳,岩波書店.p136-137

トム・キングス・コーヒー・ハウス

キングス・カレッジの内部、The British Museumより

トムとモールは1720年頃に再会しました。彼らはナッツを売ることで蓄えた幾らかの貯金を元手に、コヴェント・ガーデンの西端にあるベッドフォード公爵(Duke of Bedford)の邸宅から小屋を借り、コーヒー、紅茶、チョコレートの販売を始めました。

彼らはその場所をキングス・コーヒー・ハウス(King’s Coffee House)と名付けましたが、やがてキングス・カレッジ(King’s College)という通称で知られるようになりました。

トムとモールは、コーヒー・ハウスを一日中営業し続けました。彼らは朝早くに開店して、仕事を始める市場関係者に強い酒とコーヒーを販売し、暗くなってから売春宿としてサービスを提供しました。

そのことによって、キングス・カレッジはすぐに成功を収めました。

コーヒー・ハウスと売春宿

キングス・カレッジは、名目上はコーヒー・ハウスでしたが、実質は売春婦と客の待ち合わせ場所として機能していた売春宿でした。トムとモールは法律上の抜け穴を利用し、寝床の提供をしないことで売春宿であるという告発を逃れました。実際このコーヒー・ハウスにあったのは、屋根裏部屋にあるモールとトム用の寝床のみで、梯子を使ってしか行くことができませんでした。

コヴェント・ガーデン周辺には、多くの売春宿があったため、寝床を提供する必要はありませんでした。顧客はアルコールを勧められ、家に帰れないほど泥酔した時点で、近くにある売春宿にまでエスコートされたようです。

トムは顧客とともにアルコールを摂取していたため、いつも酔っぱらった状態でした。そのため、実際の仕事はモールによって行われました。モールは雇った用心棒の助けを借りて、酔っ払いが起こすトラブルに対処していました。トラブルは日常茶飯事で、時には顧客がコーヒー・ハウスの周辺で事件を起こすこともありました。

裁判官であったジョン・ゴンソン卿(Sir John Gonson)は、コーヒー・ハウスに内偵者を定期的に送り込み、みだらな行いを発見しようと試みました。彼はマナー改革教会(Society for the Reformation of Manners)の支持者であり、売春宿の摘発と厳しい判決を下すことで有名な人物でした。

トムとモール、そして彼らの顧客たちは、このコーヒー・ハウスで行われていることが外に漏れることを防ぐために、「トーキング・フラッシュ(Talking Flash)」という独自の秘密言語を開発しました。

また、このコーヒー・ハウスで起こるトラブルが発見され、起訴された場合は、その目撃者に賄賂を渡すことで対処しました。このことは、モールが貸金業者として活動していたことも示唆しています。

モール・キングと売春

サリー・ソールズベリー、Wikipediaより

モールが取り持ち女の仕事を始めたきっかけは、マレーとの関係に終わりに、サリー・ソールズベリー(Sally Salisbury)という有名な高級売春婦と知り合いになったことにあるようです。

モールはトムとの関係によって貴族社会との繋がりを獲得し、マレーとの付き合いによって社交界との繋がりを獲得することができました。モールは彼ら上流階級と、彼女が知っていた多くの売春婦との出会いの場を提供することによって、大きな成功を獲得しました。

著名な顧客には、ウィリアム・ホガース(William Hogarth)、ヘンリー・フィールディング(Henry Fielding)、アレキサンダー・ポープ(Alexander Pope)、ジョン・ゲイ(John Gay)などがいたようです。

ヘンリー・フィールディングの1732年の劇、『コヴェント・ガーデンの悲劇(The Covent-Garden Tragedy)』のプロローグでは、「キングス・コーヒー・ハウスを知らない放蕩者とは一体何であろうか?(What rake is ignorant of King's Coffee-House?)」と歌われており、キングス・カレッジはこの時点で、非常に有名なコーヒー・ハウスであったことが伺えます。

キングス・カレッジのスローガンの一つは、「すべてジェントルマンに秘密に寝床を提供する(all gentlemen to whom beds are unknown)」ことでした。このコーヒー・ハウスは、上流階級から労働者階級まで、誰でもパートナーを見つけることができる場所として有名になりました。

成功を収めたトムとモールは、隣接する2つの小屋を新たに買い増し、ビジネスを拡大しました。3つの小屋のうち、最も大きく最も有名な小屋は、ロングルーム(Long Room)として知られていました。

トム・キングの風刺画 中央左がトム・キング 中央右がブラック・ベティ(Black Betty)、The British Museumより

このコーヒー・ハウスの看板の1つは、黒人のブラック・ベティ(Black Betty)(または、タウニー・ベティ(Tawny Betty))という黒人のバーメイドでした。トム・キングの葬儀碑を描いた風刺画では、トム・キングの隣に彼女の姿が描かれています(この風刺画が描かれた時点で、トム・キングが亡くなっていたかどうかは定かではありません)。

当時、コヴェント・ガーデンでは多くの黒人売春婦が働いていたそうです。

当時の最も有名な売春婦の1人は、西インド諸島出身の未亡人で元奴隷であったブラック・ハリオット(Black Harriot)という女性でした。彼女の顧客には、貴族院の20人、庶民院の50人の議員が含まれていたと言われています。

大きな成功を収めたトムとモールは、ハムステッド・ヒース(Hampstead Heath)に近いヘイバーストック・ヒル(Haverstock Hill)の地所を取得し、別荘と2つの邸宅を建て、彼らはそのうちの1つを住まいとしました。

後にこの別荘には、ジョン・ゲイの『ベガーズ・オペラ(The Beggar's Opera)』の幕間のホーンパイプで有名になった、女優でダンサーであったナンシー・ドーソン(Nancy Dawson)が住んだそうです。

しかし、トムはそのすぐ後、1737年10月にアルコール依存症で亡くなり、11月にコヴェント・ガーデンのセントポール教会(St. Paul's Chapel)の墓地に埋葬されました。

モール・キングス・コーヒー・ハウス

ウィリアム・ホガースの「フォー・タイムズ・オブ・ザ・デイ(Four Times of the Day)」に描かれたトム・キングス・コーヒー・ハウス 出典:The British Museum

未亡人となったモールは、甥のウィリアム・キング(William King)とともに、コーヒー・ハウスの経営を引き継ぎました。

トムの死後、キングス・カレッジは、モール・キングス・コーヒー・ハウス (Moll King's Coffee House)として知られるようになりました。

トムの生前はアルコールを摂取しなかったモールも、彼の死後アルコールに溺れるようになりました。そして、彼女はこれまでの寛容な態度から暴力的な態度に変化し、「やかましい女(The Virago)」というあだ名で呼ばれるようになりました。

モールは時折、自ら食器を壊し、損害賠償を請求することで、酔っ払った常連客から金を巻き上げあることもあったようです。モールは彼らが泥酔していたために、ぼったくられていることに気が付かないと確信していました。このような無秩序によって、このコーヒー・ハウスの評判は悪化しました。

ウィリアム・ホガースの「フォー・タイムズ・オブ・ザ・デイ(Four Times of the Day)」の「朝(Morning)」が描かれたのは、ちょうどこの時期です。

このエッチングには、冬の早朝、表に出た2人の放蕩者と売春婦の姿が描かれています。屋根には雪がうっすら積もり、つららが垂れ下がっているのが見えます。そして、コーヒー・ハウスの内側では争いが起こっている様子が描かれています。

モールは、12ヶ月の喪の期間を経た1738年10月11日、セント・ダンスタン・イン・ザ・ウェスト教会(St Dunstan in the West)で、大工で建築家のジョン・ホフ(John Hoff)と再婚します。ジョン・ホフがモールと結婚したのは金目当てであるとも言われていますが、結婚後わずか4ヶ月足らずで亡くなり、1739年2月14日にセントポール教会の墓地に埋葬されました。

1739年6月、ロングルームで暴力事件が発生しました。モールは若い紳士を暴行したとの廉で起訴され、有罪となりました。彼女は200ポンドの罰金を科され、3か月の禁固刑、釈放後の3年間は罪を犯さないことを保証する必要がありました。

罰金を支払わなければ刑務所行きでしたが、モールは判決が過大かつ不当であるとの理由で、罰金の支払いを拒否しました。彼女は刑務所に収監されましたが、ウィリアムが刑務官に賄賂を渡すことで、刑務所内でも快適に過ごすことができたようです。

モールが収監されている間、ウィリアムがコーヒー・ハウスの経営を引継ぎました。

モールは1745年頃まで引退した後、ヘイバーストック・ヒルの別荘で余生を過ごしました。彼女は1747年9月17日に亡くなり、10日後に2人の夫と同じセントポール教会の墓地に埋葬されました。

モールは多額の財産を残しました。彼女が生前残した遺言によると、財産の大部分は、彼女の唯一の子供であるチャールズ・キング(Charles King)に贈与されました。しかし、もし彼が30歳になる前に亡くなった場合は、モールが生まれたセント・ジャイルズ教区(St. Giles)の貧しい子供たちのために使うことにされました。

モールの死後に、"The Life and Character of Moll King, late mistress of King’s Coffee House in Covent Garden"というパンフレットが、匿名で出版されました。

<参考>

John Timbs(1866)"Club Life of London with Anecdotes of the Clubs, Coffee-Houses and Taverns of the Metropolis During the 17th, 18th, and 19th Centuries 第 2 巻"<https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=hvE9AAAAcAAJ&q=Tom+king%27s+coffee+house#v=snippet&q=Tom%20king's%20coffee%20house&f=false>

Paul Chrystal(2016)"Coffee: A Drink for the Devil"<https://books.google.co.jp/books?id=eMR5DAAAQBAJ&pg=PT76&lpg=PT76&dq=Coffee:+A+Drink+for+the+Devil+Tom+king&source=bl&ots=tp_C8WVd9o&sig=ACfU3U3LV2I_l-C3NiFGtdoLgn4EJoN_lg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwisqMqevezoAhWlyosBHQu6BkwQ6AEwAHoECAsQLA#v=onepage&q=tom%20king&f=false>

Markman Ellis(2017)"Eighteenth-Century Coffee-House Culture, vol 2"<https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=ny8rDwAAQBAJ&dq=Tom+king%27s+coffee+house&q=Tom+king%27s+coffee+house#v=snippet&q=Tom%20king's%20coffee%20house&f=false>

"Tom King's Coffee House",Wikipedia<https://en.wikipedia.org/wiki/Tom_King%27s_Coffee_House>

"Elizabeth Adkins",Wikipedia<https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_Adkins>

"Moll King, proprietress of King’s Coffee House in Covent Garden",All Things Georgian<https://georgianera.wordpress.com/2017/01/19/moll-king-proprietress-of-kings-coffee-house-in-covent-garden/>

"300th anniversary of Covent Garden’s notorious brothel coffee house",ianvisits<https://www.ianvisits.co.uk/blog/2020/04/15/200th-anniversary-of-covent-gardens-notorious-brothel-coffee-house/>

"TOM KING'S COFFEE-HOUSE",<https://www.pascalbonenfant.com/18c/clubs/jt_tomkingscoffeehouse.html>

"Houses of debauchery - Tom King's Coffee House in Covent Garden",Layers of London<https://www.layersoflondon.org/map?record=6323>

"Vice and Beauty?",Venus In the Dark<http://venusinthedark11.blogspot.com/2011/01/im-back-and-free-to-write-whatever-i.html>

"The Black Figure in 18th-century Art",BBC<http://www.bbc.co.uk/history/british/abolition/africans_in_art_gallery_05.shtml>

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