1932年ロサンゼルスオリンピックのブラジル選手団と1929年の世界大恐慌後のコーヒー危機
ブラジルのコーヒー危機
ナポレオン失脚後の「第一次コーヒーブーム(1820年代 - 1840年代)」(旦部 幸博『珈琲の世界史』p.134 - 136)、アメリカ合衆国やドイツの工業化に伴う経済成長による1880年代以降の「第二次コーヒーブーム」(同書p.138 - 139)により、世界のコーヒーの消費と生産は急速に拡大した。特に、ブラジルのコーヒー産業は、1880年から1930年までの50年間で、世界のコーヒー生産の約80%を担うまでに成長した。
しかし、この間にブラジルのコーヒー生産は何度か危機を迎えた。1906年の未曽有の大豊作の年には、コーヒー買い上げによる価格維持政策が政府によって行われたが上手くいかず、ハーマン・ジールケンが世界のコーヒー取引を独占することになった。
答えは「ハーマン・ジールケン」
— Y Tambe (@y_tambe) October 10, 2017
ユーカースの『オール・アバウト・コーヒー』で「最後のコーヒー王」とされているのがジールケン。ちなみに「最初のコーヒー王」がB.G.アーノルド。どちらも19世紀末-20世紀にコーヒー取引を牛耳った人物で、一代で億万長者にのし上がった。 https://t.co/TotLblWKvi
ちなみに「最初のコーヒー王」B.G.アーノルドは、同業三社とでカルテル組んで、一時期は独占体制を築いたが、ブラジル増産による値崩れに苦戦し、うち一人が急死した後わずか一週間で体制崩壊。ただし、後年はNY取引所の設立に貢献し、先物取引の礎を築いた。
— Y Tambe (@y_tambe) October 10, 2017
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパ各国のコーヒー需要は低迷し、ブラジルは再び危機に陥った。 しかし、1919年にアメリカ合衆国で「禁酒法」が制定されたことにより、アルコールの代替飲料としてコーヒーの消費が盛り返した。
「黄金の20年代」と呼ばれる1920年代の繁栄により、コーヒー生産各国は20年代前半に耕地を拡大した。1929年10月24日の「暗黒の木曜日」から発生した世界大恐慌によって消費国の需要は冷え込んだが、作付けされたコーヒーはちょうど収穫樹齢を迎えたことにより、行き先を失ったコーヒーが世界市場に溢れることになった。
世界大恐慌の年にブラジル大統領であった人物は、サンパウロ州共和党のワシントン・ルイス(Washington Luis)である。ブラジルの大統領はコーヒー産地のサンパウロ州と畜産地のミナス・ジェライス州から交互に選出されるという「カフェ・コン・レイチ体制(Política do Café com Leite)」により、本来であれば次の大統領候補は、ミナス・ジェライス州から擁立されるはずだった。しかし、サンパウロ州の知事であったジューリョ・プレステス(Julio Prestes)が擁立され選挙に勝利したことにより、両州の関係に亀裂が入った結果、革命軍によるクーデターが起こり、対立候補であったリオ・グランデ・ド・スル州知事のジェトゥリオ・ヴァルガス(Getulio Vargas)による臨時革命政府を樹立されることとなった。
1929-30年の世界恐慌に伴う、コーヒー価格の暴落に伴い、それまでの寡頭支配を妥当して、無血革命を成功させたブラジルのジェトゥリオ・ヴァルガスは1934年に大統領に就任するが、1937年に自らクーデターを起こして議会や政党を解散させ「新国家エスタード・ノーボ」による独裁を文字数
— Y Tambe (@y_tambe) August 3, 2017
軍事クーデターによって政権を掌握したジェトゥリオ・ヴァルガス(Getúlio Vargas)は、ブラジルのコーヒー危機に対処するために、コーヒー評議会を設立した。コーヒー評議会は買い上げたコーヒーを、アメリカ合衆国の小麦、ドイツの石炭とバーター取引し、処理しきれないコーヒーは燃やされ、海に捨てられ、石炭の代わりに蒸気機関車の燃料とされた。
リオデジャネイロからロサンゼルスへの船旅
1932年ロサンゼルスオリンピックは、世界大恐慌の最中に、当時としてはアクセスが不便な場所で開催されたため、参加者数が1904年以来最低とな李、前回の1928年大会の半数にとどまった。
1932年1月、ブラジルのスポーツ連盟はロサンゼルスオリンピックに選手団を派遣することが発表し、 5月にリオデジャネイロのアメリカ大使がロサンゼルス商工会議所への海外電報でブラジルの参加を確認した。ブラジルのスポーツ連盟は、選手団を移送するため商船イタキセ(Itaquicê)をチャーターし、遠征費用を賄うために、コーヒー評議会にコーヒーの寄付を要請した。実際に積み込まれたコーヒーの量は、5万5千袋とも5万袋とも言われている。それらを寄港地でいくらか売り、残りをカリフォルニアで売る計画だった。
6月25日に、イタキセはリオデジャネイロからロサンゼルスに向けて出発した。7月6日にトリニダード・トバゴのポート・オブ・スペイン(Port of Spain)に寄港したが、コーヒーはあまり売れなかった。パナマ運河に到着した時には、金銭状況は逼迫していた。通関料を逃れるために、乗船員たちはイタキセが2門の大砲を持っていたため、海軍艦艇であると主張したが認められず、料金を支払わなければならなかった。
7月11日、イタキセは積んだコーヒーのほとんどを乗せたままパナマ運河を通過した。 パナマ運河の太平洋側の入口に位置するバルボア港(Port of Balboa)では、ブラジルの水球チームが練習試合で運河地帯の2軍チームを20対0で破った。その後、イタキセはロサンゼルスへの最後の行程に出発した。
一方のブラジルでは、1932年7月9日にサンパウロで選挙執行を要求する革命運動が勃発した。臨時革命政府が憲法を事実上停止状態にしており、独裁の傾向を強くしていたためだった。この結果、サントスの主要なコーヒー港は封鎖され、オリンピック選手団は追加の遠征費用を取得することが遅れた。7月22日午前5時45分、イタキセはロサンゼルス港に到着したが、選手たちが下船するためには1人あたり1ドルを支払わなければならなかった。選手たちのうち24人は下船できたが、少なくとも20人は下船ができずに、オリンピックの夢を諦めなけばならなくなった
イタキセは、ロサンゼルス港で約2万2千袋のコーヒーを荷下ろしたが、約半分が残った。選手たちがオリンピックの準備をしている間、7月25日にイタキセはコーヒーを載せてサンフランシスコに向けて出航した。ロサンゼルス港を離れる前に600ドルのドッグ使用料を支払わなかったため、通関業者に提訴され、船はサンフランシスコに1週間以上拘留されることとなったが、8月4日、イタキセはロサンゼルスに戻る許可を得ることができた。しかし、サンフランシスコでの需要は想定よりも少なく、約8千袋のコーヒーがまだ残されたままであった。
1932年ロサンゼルスオリンピック
1932年ロサンゼルスオリンピックの競技は、7月31日から始まった。ブラジル選手団はコーヒーの冒険以外に、競技においてもいくつか記録すべき出来事を残した。
長距離選手のアダルベルト・カルドーゾ(Adalberto Cardoso)は、ロサンゼルスで下船できなかった選手の1人だった。しかし、彼はオリンピックに参加することを諦めなかった。彼はイタキセがサンフランシスコに到着した後、ヒッチハイクでロサンゼルスに戻ってきた。彼は不眠不休で旅行し、10000メートル競走の競技開始時間である午後5時30分のわずか4分前にスタジアムに到着した。スターターの数秒前にスタートラインに立ち、そのまま競技に挑んだ。彼は競技には敗れたものの、その不屈の精神を讃えられた。カルドーゾへの賞賛に対し、ブラジルの水球チームはアメリカとドイツに敗れた後、審判が不公平なせいだと訴えた挙句に失格となり、敬意の欠落を示した。
また、当時17歳であったブラジルの女性水泳選手マリア・レンク(Maria Lenk)は、ブラジルの選手で唯一の女性であり、オリンピックに参加した南米最初の女性となった。彼女は2007年に亡くなるまで、90代になってもなお、毎日1.5km泳いでいたそうだ。
8月15日にすべての競技が終了した。イタキセは8月16日にロサンゼルスを出発する予定だったが、金銭的な問題で遅れ、8月19日の朝にリオデジャネイロに向けて出発した。ブラジルで積み込んだコーヒーは帰国の途ですべて売られ、その代わりに購入したカリフォルニアの農産物を運んだ。リオデジャネイロに戻った後も困難は続いた。革命の最中にあったため、サンパウロ州の選手たちは、貨物船、電車、トラック、さらには徒歩で移動するなどして、遠回りをして帰省する必要があった。
1932年ロサンゼルスオリンピックでは、ブラジル選手団はメダルを1つも獲得はできなかった。しかし、彼らはオリンピック代表でありながらコーヒー商人としてオリンピックのアマチュア精神を体現し、後にも先にもない特異な冒険を歴史に残した。
<参考>
「ロサンゼルス1932 夏季オリンピック - アスリート、メダル」,オリンピック<https://olympics.com/ja/olympic-games/los-angeles-1932>
"How Coffee Fueled the 1932 Brazil Olympic Team",Coffee Crossroads<https://www.coffeecrossroads.com/coffee-history/how-coffee-fueled-1932-brazil-olympic-team>
"PER ANDARE A LOS ANGELES 1932 GLI ATLETI DEL BRASILE FURONO COSTRETTI A VENDERE CAFFÈ",EUROSPORT<https://www.eurosport.it/olimpiadi/per-andare-a-los-angeles-1932-gli-atleti-del-brasile-furono-costretti-a-vendere-caffe_sto4952504/story.shtml>
"90 Years Ago, Seeking Salvation, Brazil Burned Billions of Pounds of Coffee",Daily Coffee News<https://dailycoffeenews.com/2021/09/22/90-years-ago-seeking-salvation-brazil-burned-billions-of-pounds-of-coffee/>