
旦部 幸博 インドネシアのコーヒー
インドネシアのコーヒーの歴史
インドネシアでの栽培開始は、1690導入(試験栽培)、1696に本格栽培開始(洪水で全滅)、1699年に再導入。という辺りが有名だが、収穫を迎えたのは、オランダ本国に初めてサンプルが送られた、1706年と考えていいだろう。
— Y Tambe (@y_tambe) August 19, 2015
さらに1780-84年、第四次英蘭戦争によってインドネシアからオランダへの海上輸送が困難になった。さらに1798年にはオランダ東インド会社の解散。19世紀初頭にはナポレオンによるオランダ併合、1811年からイギリスのインドネシア支配を経て、1814年から再びオランダに戻る
— Y Tambe (@y_tambe) August 19, 2015
その後、1820年代になると(大陸封鎖解除後の)ヨーロッパでのコーヒーブームに伴い、インドネシアのコーヒー生産も(悪名高い強制栽培制度の導入とともに)復調したと考えられる。
— Y Tambe (@y_tambe) August 19, 2015
この辺りのオランダ本国や東インド会社の情勢と、鎖国時代の日本を訪れた人々とのつながりあたりが、自分の中ではまだよく整理しきれてない部分。
— Y Tambe (@y_tambe) August 19, 2015
インドネシアのコーヒーの歴史については、旦部幸博氏の百珈苑BLOG 2010年7月23日エントリー、「オランダによるインドネシアのコーヒー栽培」、「インドネシアへの伝播」、「「三原種」の揃い踏み」を参照できます。
コーヒーさび病菌の流行
ブラジルにスマトラの豆が渡った年代がよく判らない件。
— Y Tambe (@y_tambe) July 23, 2010
現在のハワイコナは、スマトラ系のティピカだと言われてる。これは1892年にグアテマラから持ち込まれたもの(1828年にブラジルから持ち込まれたものもあったが現在はほぼ見られないらしい)
— Y Tambe (@y_tambe) July 23, 2010
18世紀にはスマトラにコーヒーが伝わっており、1800年頃にはミナンカバウ一帯に広がっていたらしいから、この頃の古い品種がブラジルに渡り、さらにグアテマラ、ハワイに渡ったのは、時期的には可能ではある。
— Y Tambe (@y_tambe) July 23, 2010
その後インドネシアでさび病が発生して、ジャワからロブスタへの転作が広まる。少し遅れてスマトラ南部も
— Y Tambe (@y_tambe) July 23, 2010
これに続いたが、この動きにスマトラ北部が取り残された。アチェやバタックの反乱で、それどころじゃなかったのだと想像する。
その後、オランダにより制圧されたが、元々オランダの統治は現地の首長まかせだった部分が大きく、本拠地のあったバタヴィアから離れたスマトラは監視が緩かったのは確かだろう。
— Y Tambe (@y_tambe) July 23, 2010
インドネシアでは、コーヒーさび病菌へ対応する目的で、ロブスタ種 (C. canephora.)が導入されました。ロブスタ種栽培の他に、アラビカ種の耐さび病品種の開発も始まりました。
インドネシアでの耐さび病品種開発は1900年にスタート。1903年にスマトラ南部のパスマーでアラビカの高収量品種「パスマー」が見つかる。1912年にはジャワに移入され、これを元に生まれたのがブラワン=パスマー。一応、アラビカの耐さび病品種扱い。
— Y Tambe (@y_tambe) July 9, 2010
Sラインのうち、S.288とS.795が高収量かつ耐さび病性に優れたが、エレファントビーンの比率が高かった。そこでS.795の子孫から比率の低いものが選抜された(多分これがジェンバー)
— Y Tambe (@y_tambe) July 9, 2010
カリマスの発見は1886年。ジャワ島中部ボジャ近郊のカリマス農園で発見される。比較的早いうちから耐さび病性は知られていた。
— Y Tambe (@y_tambe) July 9, 2010
その約10年後にカウィサリ農園で同様のアラビカxリベリカハイブリッドが発見され、カウィサリと名付けられる。発見時にちょっと混乱があり、ルーツはややこしい。
— Y Tambe (@y_tambe) July 9, 2010
あ、インドネシア、やっぱりさび病感受性の矮性品種の起源が積み残されてた。KartikaとAndungsari。多分、カトゥーラなんだと思うんだけど。特にKartikaは主要品種の一つらしいから、一応抑えておきたいんだが。
— Y Tambe (@y_tambe) July 9, 2010
でもまぁ、TimTimやAtengなどのTimor/Catimor系が増え出したのも、多分1970年代以降だろうし。世界的に見ても、第二次さび病パンデミック以降の品種の変遷の流れと無関係ではないんだろうと思うけど。
— Y Tambe (@y_tambe) July 10, 2010
あと意外かもしれないけど、インドネシアではOrganic coffee栽培に力を入れていたという経緯がある。ASICの文献を探すと結構見つかる。
— Y Tambe (@y_tambe) July 23, 2010
ただまぁ、その背景には耐さび病性のロブスタやハイブリッドの栽培が中心なので、農薬を減らせて、しかも元々の収量が多いというのも、忘れちゃならないポイント。
— Y Tambe (@y_tambe) July 23, 2010
インドネシアの品種については、旦部幸博氏の百珈苑BLOG、「インドネシアコーヒーの歴史と品種」、「インドネシア・ハイブリッドの誕生」、「他産地からの移入種」などを参照できます。
インドネシアのコーヒー生産地
インドネシアには、ジャワ島、スマトラ島、スラウェシ島の3つの代表的なコーヒー生産地があります。ジャワ島は「ジャワ・ロブスタ」、スマトラ島は「マンデリン」、「ガヨ・マウンテン」、スラウェシ島が「トラジャ」の生産で有名です。
インドネシアのコーヒーについては、現地の研究者が大まかな香味の特徴で「ジャワタイプ」「スマトラタイプ」「スラウェシタイプ」の三つにグループ分けしてた。確かにまぁ、何となく納得はできるけど、実際はごちゃごちゃと入り交じってる感があるよね。製法でも、品種でも。
— Y Tambe (@y_tambe) April 26, 2012
だいたいあってる。 RT @kisanjin 勉強不足だったorz 「ロブスタ」「マンデリンの・ようなもの」「売れ残りで枯れたオールド」の三つにグループ分けしていたw RT 「ジャワタイプ」「スマトラタイプ」「スラウェシタイプ」の三つにグループ分けしてた。
— Y Tambe (@y_tambe) April 26, 2012
ジャワ
ジャワ島は戦後にゴムの生産が中心となり、ゴムの保護植物としてロブスタ種が栽培されるようになりました。ジャワ・ロブスタが有名です。ジャワには国営農園がいくつか存在し、アラビカ種のコーヒーも生産されています。
あ、ここで言う「ブルボン」はもちろん、ブルボン島(レユニオン島)産のコーヒーのことね、品種ではなくて。この時代はまだブラジルにはブルボン(品種)は伝わってない。
— Y Tambe (@y_tambe) May 27, 2016
つってもまぁ、インドネシアと一口に言っても、ジャワなどはオランダの直接支配の歴史が長く、インドネシア側にもその主従関係が染み付いてた、という話もある。また、多民族国家で民族間対立を上手く煽りながら支配するという「上手さ」もあったし。
— Y Tambe (@y_tambe) March 17, 2012
でもまぁ、日本がインドネシアに介入して、オランダを追いやった後、少なくともジャワの人々にとっては、オランダ人ほど「理想的なご主人様」ではなかった、ということからくる不満があったことは、さまざまな文献にもでてくるので確かだとは思う。
— Y Tambe (@y_tambe) March 17, 2012
それにインドネシアの多民族性のため、ジャワ以外の民族から見ると、また違ってくるわけで。
— Y Tambe (@y_tambe) March 17, 2012
日本とコーヒーとジャワについて。
@lasahJP んー、年代的にはぎりぎり不可能ではなさそうだけど、どうかなあ…という評価。
— Y Tambe (@y_tambe) October 1, 2013
@lasahJP 時代を下って、1797年になると丸山遊女が出島のオランダ人から「コヲヒ豆」を貰ったという、文献上のはっきりした記録がある。同様に、出島に入ってオランダ人の相手をした遊女が1684年の時点で、そこで飲むだけでなく、貰って帰って丸山でも飲んでたと仮定すれば、何とか。
— Y Tambe (@y_tambe) October 1, 2013
@lasahJP その頃なら、オランダ東インド会社がジャワでのコーヒー栽培やってるので、それなりに入ってきてておかしくはない。問題は「400杯」という数字の根拠がどうだったか。
— Y Tambe (@y_tambe) October 1, 2013
@lasahJP だからまぁ、たまたま出島に来たオランダ人の中に、コーヒーを飲んでた人がいたとしても、多分おかしくはない。ただし、コーヒー以外の飲み物だった可能性もあるから、証拠としては不十分かなあ、と言わざるを得ない。
— Y Tambe (@y_tambe) October 1, 2013
@lasahJP 丸山艶文の原典の中身をきちんと調べれば、もう少しヒントになることがあるかもしれないですけどね。
— Y Tambe (@y_tambe) October 1, 2013
@ngogirsang 承前)僕が読んだのは戦後の新聞記事だったような気もするけど、これもどこいったか見つからず。内容は、ジャワのコーヒー農園の作業者たちが、木陰に大きな袋を吊るし、作業前にコーヒー粉と水を淹れておいて、休憩のときに下に滴下したコーヒーを飲むという話。
— Y Tambe (@y_tambe) May 14, 2015
@ngogirsang いずれにせよ、旧オランダ領東インドの、元・官営農園でのことだったらしく(一応、1941年はすでに農地解放はされてたはず)、後に「ダッチコーヒー」という名前はそこからついた。つけたのは、この記事を読んで再現を図った京都の喫茶店「はなふさ」のマスターか誰かか?
— Y Tambe (@y_tambe) May 14, 2015
スマトラ
スマトラ島は、マンデリンで有名です。 マンデリンの他にも「アンコーラ(Ankola)」というスマトラ島北部で生産されるアラビカ種のコーヒーがありますが、ほとんど使用されないブランド名です。
ALL ABOUT COFFEE、スマトラの項には、Ankola (Sibolga)、Mandheling(Padang)、Toba、Liberian、Interior、Palembang、Lampong、Robustaがある。
— Y Tambe (@y_tambe) July 30, 2010
当時Ukersが記載したSumatra産アラビカは、Ankola(Sibolga)、Mandheling(Padang)、Toba、Interiorの4つ。
— Y Tambe (@y_tambe) July 30, 2010
All about coffeeに「マンデリン」と共に「アンコラコーヒー」の銘柄名が、良質なものとして列記されていることから考えても、スマトラの部族のうち、"Mandailin"と"Batak Ankola"という二つの部族を指してるんじゃないのか?
— Y Tambe (@y_tambe) July 20, 2010
マンデイリン/アンコーラ地区のコーヒー栽培開始時期は正確には不明。だが1800年頃にはやはり恐らく活性化していただろう。1841〜1908年に強制栽培制度導入。1903年に独立銘柄としての「ジャワ・マンデイリン」が存在した記録がある。
— Y Tambe (@y_tambe) August 3, 2010
Basyral Hamidy Harahapによれば、マンデイリン、アンコーラ地区でのコーヒー栽培が始まったのは1841年。この地域での強制栽培制度の導入と同時期。ミナンカバウでは強制搬入制度であったが、こちらは強制栽培だった模様。これが「マンデリン」の起源。
— Y Tambe (@y_tambe) August 5, 2010
ミナンカバウでは、母系相続される土地は所有権が明確だった。1874年の領土宣言により、オランダが所有者のいる土地といない土地を明確化しようとしたことも、これに関連してるだろう…タナーウラヤット(共同体の土地)が原野に分類された問題が禍根を残すが、それはまた別問題ということで。
— Y Tambe (@y_tambe) August 5, 2010
ひょっとしたらゴラットに相当するような所有権もあったかもしれないが、オランダの占拠によるどさくさで、オランダの国有地扱いになった可能性はありそう。
— Y Tambe (@y_tambe) August 5, 2010
ともあれ、1841年以降マンダイリンやアンコーラ地区は、基本的に国有化された。ここでコーヒーの強制栽培が行われている。農園経営の母体は明確ではないが、多分東ジャワと同じく政府経営によるものだったのではないか。Ukers曰く"formerly Gorvernment coffee"
— Y Tambe (@y_tambe) August 5, 2010
Ukers初版/2版ともにマンデリンを"best coffee of the world"と高く評価。"formerly Gorvernment coffee"との記載もあることから、強制栽培制度時期にはオランダ東インドの政庁農園になっていたと思われる。
— Y Tambe (@y_tambe) August 3, 2010
政庁農園に由来するプランテーションが崩壊するのは、おそらく日本軍の進出からインドネシア独立にかけての時期。逃げ出したオランダやヨーロッパ企業の跡地を、現地でどう「処分」したのかが問題になる。
— Y Tambe (@y_tambe) August 3, 2010
ミナンカバウでのプランテーション崩壊の一因に、1965年の「9月30日事件」も関与していそう。インドネシアで共産主義者排除のために大規模な虐殺が起きるが、このときプランテーションの多くで「内部の共産主義者」が告発されてる。実際に共産主義者だったかは不明だが。
— Y Tambe (@y_tambe) August 5, 2010
マンデリン
マンデリンは、インドネシアのスマトラ島の北スマトラ州とアチェ州で生産されるアラビカ種のコーヒーです。
13) マンデリン : インドネシアの北スマトラ州及びアチェ州(タケンゴン周辺のガヨマウンテン生
(別表2) 産地、品種、銘柄の区分及び範囲の例示、「レギュラーコーヒー及びインスタントコーヒーの表示に関する公正競争規約(平成30年6月更新)」
産地区を除く)にて生産されたアラビカコーヒー豆をいう。
メモ:インドネシア・マンデリンコーヒーの発展過程(三本木&池本、東洋文化 2008)
— Y Tambe (@y_tambe) July 12, 2010
スマトラのコーヒー栽培。"A Review of Literature of Coffee Research in Indonesia" (Cramer, 1957) p38-
— Y Tambe (@y_tambe) July 12, 2010
スマトラでは現地人が、陸稲(年1-2回)と共にコーヒーを栽培。南部(Ranau湖)では1915年頃からロブスタの栽培も始まる。西部のKerinci山でも1916年から。北部については記載がない。
— Y Tambe (@y_tambe) July 12, 2010
少なくとも1938年にはMandhelingのPrime Robustaが取引されてるな。この頃はもう、北スマトラにロブスタが入ってる。UkersがAll about coffeeでマンデリンを高評価してた時期は、ロブスタとアラビカの両方が栽培されてたと考えてよさそう。
— Y Tambe (@y_tambe) July 12, 2010
1938年頃にはもう、「昔のbule Java coffeeは良かった」という評価になってるようだ。
— Y Tambe (@y_tambe) July 12, 2010
BergendalやSidikalangなどの、いわゆる「old sumatra」はトバ湖周辺で見つかってるので、これがマンデリンの「スマトラ・アラビカ」であった、ということは、まぁOKだろう。
— Y Tambe (@y_tambe) July 12, 2010
マンデリンの歴史。
北スマトラ、マンデリンの歴史:18世紀初めにコーヒーがジャワ島からナタールに伝えられ栽培が始まる。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
最初期に栽培が始まったのはナタールの南東、パダンの北に位置するマラピ山の麓あたりから。最初に着手したのはおそらく、やや南方の海岸寄りに居住するミナンカバウ人だと思われる。イスラム系と伝統的母系社会が共存する民族。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
ミナンカバウのコーヒー栽培は18世紀初頭に始まり、アメリカ向け輸出などで1800年に趨勢を極める。1847〜1908年に強制栽培制度が導入される。Ukers初版(1922年)には記録があるが、2版(1935年)の頃にはほぼ見られなくなっている。
— Y Tambe (@y_tambe) August 3, 2010
主食となる作物以外に換金作物を作ることにも慣れていた民族。「1800年頃には標高700〜1100メートルのミナンカバウ地帯のほとんどの地域に広がっていた」
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
その後、コーヒーはトバ湖からアチェのタケンゴン(タワール湖の西)にまで広がる。ひょっとしたら、この伝播にもミナン人は一役買っていたかも。ミナン人には「ムランカウ」という、成人男子が出稼ぎに出る風習がある(母系社会で、家の財産を女性が受け継ぐので)。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
一方、バタック族は山岳部族。精悍でいかつく声が大きいというイメージが現在も残ってる。6つの支族に別れる:北方から、カロ、シムルングン、パクパク、トバ、アンコーラ、マンダイリン。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
バタック族はまた、独自の神話と信仰を持っていた。基本的にはミナンカバウ族などと同じ体系の神話で、アレキサンダー大王の3人の息子のうちの一人が、インドネシア人の子孫である、というもの。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
元々、北スマトラのバタック族はいわゆる「人食い人種」。1860年頃から、ドイツのライン伝道教会による布教が始まったが、初期には「トバ湖から生きて帰った者」はほとんどいなかった。
— Y Tambe (@y_tambe) July 20, 2010
マンダイリン-バタック族の出自が、バタックか、ムラユ(マレー)人については議論がある模様。ただ現在のインドネシアでは、バタックに含めるのが普通。アンコーラ-バタック族と合わせて、アンコラ-マンダイリンというグループにすることも多い。
— Y Tambe (@y_tambe) July 26, 2010
さて、1821年にミナンカバウでパドリ戦争がはじまる。ミナンカバウではイスラムと、伝統社会の風習が共存していたが、イスラム改革派が後者を反イスラム的であるとして排斥しようとしたのが事の発端。改革派と慣習派によりミナンカバウは内戦状態になる。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
パドリ戦争では、劣勢に至った慣習派がオランダ王室に救援を要請。オランダとイスラム改革派(パドリ派)との戦争になる。1837年にオランダの勝利で終結する。この期に乗じて、オランダはミナンカバウを平定。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
1872年に、ドイツ人宣教師がオランダに要請するかたちで、オランダとのバタック王シンガマンガラジャ12世の間に戦争が起きる。1907にシンガマンガラジャが死んで、植民地化される。
— Y Tambe (@y_tambe) July 20, 2010
シ・シンガマンガラジャは、バタック族全体に「君臨」する象徴的な存在だが「バタック族が12世の元に一致団結してオランダに立ち向かった」という説には異論が多い模様。元々バタック族は小競り合いを繰り返していたし、イスラム/キリスト教への改宗者もすでにいたので。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
オランダの武力の前に、シンガマンガラジャ12世は破れて山奥に逃れた。しかし、1907年にとうとう捉えられ処刑され、バタック族の土地もオランダによって制圧された。この頃、すでに北部のアチェ戦争も終結していたため、実質的にスマトラ島含むインドネシアがオランダに完全制圧された。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
ただしこの頃には、すでにオランダの強制栽培制度は終焉に向かっていた。植民地の惨状が国民に伝えられたこともあり、国内外の世論が反対に向かっていた。よく「1870年」がその終わった年といわれるが、一度になくなったわけではない。コーヒーはいちばん遅くまで続き、1916年に終了。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
1903年のコーヒー取引の記録には「Java-Mandailing」「Java-Timor」「Java-Kalossi」などの記載があるらしい。ジャワ外島のコーヒーも、Javaの関連銘柄として流通したが、この頃に「マンデリン」の名は存在する。これはバタック戦争のさなか。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
1920年代になると、トバ・バタク族がアラス地方(北スマトラに接するアチェの山間部)に移民する。もともとは開墾がすすんでいなかった無人の森林地帯だったが、1904年頃から開発されていったエリア。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
現在、「マンデリンの主な産地はトバ湖周辺」ということになっているが、この地がトバ・バタク族のものであったことは、まぁ疑いがないところ。なので、ここでの栽培が「本格化」したのは、おそらくはバタック戦争以降のことなのだろう。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
ただし、(1)「マンダイリン」と並んで古くから知られていた「アンコーラ」を生産可能なエリアが狭いこと、(2)積出港の一つであったシボルガはマンダイリンより、アンコーラ/トバに近いこと、から考えると、トバ湖周辺で栽培されたものが、アンコーラのものと一緒に売られてた可能性もある。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
現在、北スマトラのコーヒー栽培の「後継者」は、トバ地区とガヨ地区が中心。中でもトバ地区は1922〜1935年頃に、ミナンカバウと入れ替わるように勃興してきた産地で「当時の流れを継承」した、言わば正統後継者。
— Y Tambe (@y_tambe) August 3, 2010
マンデリンの産地は「トバ湖周辺」というのが現在、その答えの一つで、2005年に出たFAOの文書でも概ねそういう定義なのだけど、これはいつ頃から何だろうか? 元はやっぱり、もっと南にあるマンダイリン-バタク地区だったんじゃないのだろうか。
— Y Tambe (@y_tambe) July 26, 2010
さび病の侵入と、それに対するロブスタへの植え替えは南スマトラでは比較的さかんに行われていたようだ。1938年にはマンデリン産ロブスタが出荷されていた記録が残っている。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
間もなく、1942年には日本が侵攻してオランダが撤退。第二次世界大戦に入り、終戦後もインドネシア独立戦争がつづく。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
その後、独立戦争においてもミナンカバウ人は、民族主義活動において大きな役割を果たしたというから、仮に日本占領下で農園が継続されていたとしても、その後に破綻したことは想像に難くはない。
— Y Tambe (@y_tambe) August 3, 2010
インドネシア独立後、コーヒー産業の復興のための国際支援が速やかに行われたのは、50年代に入ってすぐにUSDAが導入されたことなどからも明らか。
— Y Tambe (@y_tambe) August 3, 2010
戦後の復興の過程で、トバ湖などでのコーヒー栽培が行われる。このとき、トバ湖に残っていた古い品種が栽培された。これがシディカランなどの「クラシックスマトラ」
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
バタック族も、それからスラウェシのトラジャ族もそうだが、インドネシアの民族の中では「論理的思考の持ち主」と言われることが多い模様。その辺りが、日本企業が上手く進出できた理由なんだろうか。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
1970年代のアチェ独立運動との関連もちょっとある。1978年に中央アテンに焦点を絞ったIDAP (International Development Assistance Project)が行われた。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
この少し前「自由アチェ運動」が独立運動を行ったが結果的に失敗し海外に亡命している。運動の背景には、スマトラとジャワの経済問題もあったので、おそらくIDAPによる産業支援も問題解消の一環という側面もあったんだろう。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
このとき送られたのは、もっとも有名なハイブリッド品種である「ハイブリド・デ・ティモール」。実はポルトガル領時代には、これはインドネシアには入っていなかった。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
Tim Timについては、"Tim Tim Blangili"という名前もあるが、これはまぁ銘柄の一種に近いものの模様。sweetmariasあたりが一時期、後者の名前を採用してたが、現在では"Tim Tim"に変更してる。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
翌1979年、中央アチェに植えたTimTimの中に矮性のものが見つかる。「矮性の突然変種だ!」ということで、中央アチェ(Ache Tengah)の名にちなんで「アテン Ateng」と命名された。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
ただし実はこのAteng、TimTimの突然変異種ではなく、送られたTimTimの中にカチモールが混じっていたものだったことが後に判明。なので、正式な品種名としては「カチモール」扱い。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
トバ湖以北への産地の北上のきっかけは、一つにはおそらくバタック戦争後に内陸部の開発が進み、トバ・バタク族の移民が北へ向かったこと。ここにはオランダ政庁の農地開放政策も関係している。トバ・バタク族は父系相続(インドネシアでは割と珍しい)だったし。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
さらに1978年以降、中央アチェでの開発支援プロジェクトによって、ガヨ地方でのコーヒー栽培が本格化した。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
ただ、アチェは古くからイスラム諸国との玄関口だったので、そっちに流れてた可能性もあるかなぁ。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
多少、違和感を感じる部分があるのも確かだが、少なくとも「マンデリンの正統後継者」としては、おそらくトバ地方のコーヒーをおいて他には存在しないだろう。
「「マンデリン」の変遷」」,百珈苑BLOG 2010年8月9日.
日本で人気の高いマンデリンだけど、その評価の高さの裏には、Ukersの"All about coffee"で高く評価されてることも影響してると考えないといかんだろう。情報の少ない黎明期、「(権威ある)アメリカの専門家も高く評価してる!」ということでブランド化したのは否定できない。
— Y Tambe (@y_tambe) July 23, 2010
マンデリンが「マズくなった」理由として考えられることの一つは、トバ湖周辺で栽培されている品種の変遷が一つ考えられる。もう一つには、栽培エリアの変更もあるんじゃないのか…よく言われる「アチェへの広がり」以前に、そもそも現在のトバ湖エリア自体が「昔の産地」じゃなかったとか…。
— Y Tambe (@y_tambe) July 27, 2010
品種の変遷としては、1970年頃にクラシックスマトラ(シディカラン)系→インドのSライン系の移入がある。Sラインはリベリカが混じってるが、インドネシアでは全般に「割と品質がいい」という評価…あくまで産地の評価で、インドネシアでは特にこの評価が曲者だが。
— Y Tambe (@y_tambe) July 27, 2010
耐さび病品種が広まった後で、いわゆる「クラシックスマトラ」がトバ湖周辺で見つかった、ということから、少なくともこの地域にも古くからコーヒー栽培が行われていた、というのは事実だと思う。けど裏を返せば…
— Y Tambe (@y_tambe) July 27, 2010
ずっと継続的に、かつ本気でコーヒー栽培を行いつづけていた地域であれば、新しい品種が出回りだしたときに、それを取り入れる時期も自然に早くなる、ということが一般に見られるわけで。ここからも現在「主要産地」と見なされてるトバ湖周辺が、昔はそれほどではなかったということが伺える。
— Y Tambe (@y_tambe) July 27, 2010
トバ湖周辺は、一帯がアラビカの生育に適した標高だったので、リベリカやロブスタが広まった低地とは少し隔たりがあった…というか、どっちかというと恐らくアラビカ向き。1938年頃に「マンデリン・ロブスタ」として売られてたのは、(旧)マンデリン地域のものかもしれない。
— Y Tambe (@y_tambe) July 27, 2010
で、問題はToba。"Same as Ankola coffee. Grows along Toba Lake between Medan and Sibolga. New native plantations."
— Y Tambe (@y_tambe) July 30, 2010
Tobaの"New native plantations"から考えると、トバ湖でのコーヒー栽培の本格化は、バタック戦争終結後と考えてよさそう。バタック戦争でシシンガマンガラジャ12が処刑されたのが1907年。
— Y Tambe (@y_tambe) July 31, 2010
1872年に、ドイツ人宣教師がオランダに要請するかたちで、オランダとのバタック王シンガマンガラジャ12世の間に戦争が起きる。1907にシンガマンガラジャが死んで、植民地化される。
— Y Tambe (@y_tambe) July 20, 2010
この頃には、西スマトラの強制栽培制度も終結に向かっているので、トバ湖ではそれを経験せずに、現地人によるプランテーションが始まった可能性が高い。
— Y Tambe (@y_tambe) July 31, 2010
その後、アチェ最南部のアラス地区にあった森林地帯が拓かれる。元々はアチェ支族のアラス族の地。開墾によって出来た農地のうち、アラス族は稲作を中心にしたが、南方から移住してきたバタック族は準山地でコーヒーなどを栽培。
— Y Tambe (@y_tambe) July 31, 2010
トバ湖周辺にコーヒーが入って来たのが20世紀とすると、耐さび病品種が広まるのの少し前、わりとぎりぎりのタイミングだったかもしれない。とは言え、北スマトラまでロブスタが広まるのには、割と時間がかかってただろう。
— Y Tambe (@y_tambe) July 31, 2010
ああ、バナナは作ってたはずです。ただしバタック族の「中心地」とされていた、トバ・バタック族の暮らすトバ湖付近が、スマトラ島の中でも有数の稲作地域です。独自の文字文化を持ち、暴風と雷雨の申し子である神聖王「シ・シンガマンガラジャ」を中心にした建国神話でも知られる。
— Y Tambe (@y_tambe) October 5, 2010
港市時代のスマトラは、海岸に面した港市での貿易のためにたくさんの人が集まって栄えましたが、それだけの人口を支えるためには、内陸の農耕民族に依存せざるを得なかったわけです…あと金などの資源も。なのでスマトラ各地の神話体系では、内陸部と港市の「血縁性」を強調するケースが多いようです。
— Y Tambe (@y_tambe) October 5, 2010
クラシック・スマトラのほとんどはトバ湖周辺で見つかったもののようだ…Bergendalは相変わらず出所がわからんけど。
— Y Tambe (@y_tambe) July 31, 2010
クラシックスマトラとして命名されている品種:文献上はBergendalとSidikalang。特に前者は、大概どの資料でも名前が出てくる。この他には、Onan Ganjang、Garonggang。
— Y Tambe (@y_tambe) July 31, 2010
トバ湖周辺全体で見ると、Sidikalangがクラシックスマトラの主流。トバ湖西岸のやや北寄り、Dairi地区Sidikalangで発見された。
— Y Tambe (@y_tambe) July 31, 2010
ただしBergendalもリントン地区で見つかったという記載をしてるものがある。信憑性のほどは不明。BergendalとOnan Ganjangの関係性も不明。
— Y Tambe (@y_tambe) July 31, 2010
Garonggangはあまり名前の出て来ないものだが、他のクラシックスマトラよりも古いものの可能性もある。Garonggangという地名は今は残っていないが、南タパヌリのLake Siais付近のSiaisに相当するらしい。
— Y Tambe (@y_tambe) July 31, 2010
Garonggangは、古くからの産地であるアンコラで発見されていることから、トバ湖での栽培が始まった20世紀より前からあった品種である可能性もある。また、トバ湖に伝えられたクラシックスマトラとの関係も深いかもしれない。
— Y Tambe (@y_tambe) July 31, 2010
Ukers、"All about Coffee"。初版には、"Toba"の記載はまだ見られない。トバ湖周辺での栽培が認知されだしたのは22-35年か? http://www.web-books.com/Classics/ON/B0/B701/29MB701.html
— Y Tambe (@y_tambe) August 2, 2010
マンデリンについては旦部幸博氏の百珈苑BLOG 、「マンデリン:北スマトラのコーヒーの歴史」、「とあるエピソード」、「マンダイリン・バタック族」、「北スマトラとコーヒーの歴史」、「”All About Coffee”に見る、スマトラ産コーヒー」、「「マンデリン」の変遷」」、クラシックスマトラについては「第一次パンデミック」、「クラシックスマトラ」、「ブラジルの「スマトラ」」を参照できます。
マンデリンという名前の俗説について「とあるエピソード」は、"Kopi Mandheling"がネタ元です。
「マンデリン」という名称についての俗説。インドネシア語の部分が面白い。
— Y Tambe (@y_tambe) July 23, 2010
http://horasmadina.blogspot.com/2007/07/kopi-mandheling.html
超訳:第二次世界大戦のとき、スマトラ島にいた日本兵が現地人から貰ったコーヒーを飲んで思わずこういった「うまい!これ、どこから(来たの)? (えーと、インドネシア語で『どこから』は…と)Dari, mana?」
— Y Tambe (@y_tambe) July 23, 2010
超訳(続き):現地人(うまぃ?これ?…エート、日本語デ『おまえxxxx』ッテ言ッタカ?…Dari, mana…『オマエ、ドコノ出身ダ?』ッテ聞カレタノカ?)「マンデイリン(族ノ出身デス)」
— Y Tambe (@y_tambe) July 23, 2010
超訳(続き):「そうか…なるほど(これはマンデリンのコーヒーなんだな…)」
— Y Tambe (@y_tambe) July 23, 2010
超訳(続き):そして戦後。日本からインドネシアの商社に一本の電話が。「マンデリン・コーヒーを大量に買いたいんだが」。
— Y Tambe (@y_tambe) July 23, 2010
超訳(ここまで):かくて日本にもファンの多いマンデリンの名が広まったのである……って、100%ネタだけどな。1903年の段階で、すでに"Java-Mandheling"の名前で取引されてるし。
— Y Tambe (@y_tambe) July 23, 2010
スラウェシ
スラウェシ島は、トラジャで有名です。日本のキーコーヒーが復活させたコーヒーとして知られています。
キーコーヒーのインドネシア農園ってことは「トアルコトラジャ」ブランドのスラウェシ島のかな? あの辺りは同じインドネシアでも、リニSとか(インドで開発された耐病品種Sラインのインドネシア名)あたりが中心品種だったと思うのだけど(訳:特筆すべき既存品種はないが研究農場としてならまぁ
— Y Tambe (@y_tambe) May 13, 2016
@DEEPBLUE1219 @Butayama3 日本だとUCCやキーコーヒーなど、自社農園/契約農園などがあるところもあって、そういうところはやはり環境への配慮等も謳いますが、まぁ企業イメージなんかもあるしなあ、という感じで。
— Y Tambe (@y_tambe) December 10, 2014
もともとの「日本のコーヒー」は、戦前、「○○商店」という屋号で輸入食品などを取り扱う形で広まったものだ。これが戦後にはやがて「○○コーヒー」みたいな社名に名称変更した。UCCとか、KEY COFFEEとか、そのあたりがその典型だろう。
— Y Tambe (@y_tambe) December 22, 2011
「首狩り」と言えば、「トラジャコーヒー」で知られるインドネシア・スラウェシ島のトラジャ族なんかも思い出す。でも、よく考えると、日本の戦国時代なんかも「首狩りの風習」だよなぁ。
— Y Tambe (@y_tambe) January 29, 2011
バタックは「食人」の方ですね。勇敢なる戦士や凶暴な罪人を「食べて」自らの力にする。あの近辺だと「首狩り」はスラウェシ島のトラジャ族とかがそうだったかと。
— Y Tambe (@y_tambe) October 5, 2010
コピ・ルアック
コピルアックについては、togetterの「ルアクコーヒー(ジャコウネコの糞のやつ)についてy_tambeさんツイートまとめ」、「ルアクコーヒー文献まとめ」を参照できます。
アチェ
アチェ州はスマトラ島最北端に位置しています。
マンデリンの生産量の約70%を占める代表的なアラビカ種コーヒー生産地ですが、コーヒー生産地としては比較的新しい地域です。
アチェの資料によると、アチェにアラビカが植えられたのはかなり遅く、1924年のこと。
— Y Tambe (@y_tambe) July 23, 2010
翌1979年、中央アチェに植えたTimTimの中に矮性のものが見つかる。「矮性の突然変種だ!」ということで、中央アチェ(Ache Tengah)の名にちなんで「アテン Ateng」と命名された。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
ただし実はこのAteng、TimTimの突然変異種ではなく、送られたTimTimの中にカチモールが混じっていたものだったことが後に判明。なので、正式な品種名としては「カチモール」扱い。
— Y Tambe (@y_tambe) July 28, 2010
アチェは、ガヨマウンテンで有名です。
アチェといえばガヨマウンテン。
— Y Tambe (@y_tambe) July 23, 2010
精製方法
スマトラ島では、「スマトラ式」と呼ばれる独特の精製方法が用いられます。
参考:「スマトラ式精製法 - 百珈苑BLOG - http://t.co/GYkK3VyNn9 ( #flavorcoffee240 live at http://t.co/J1yYoJpzoW)
— Y Tambe (@y_tambe) October 16, 2013
昔のマンデリンの豆の色については、Yellow-Brownなので、今のスマトラ式とは精製法が異なる可能性は高い。ただし普通の乾式とも思えない。基本はスマトラ式ながら、貯蔵期間や保管時の含水量調整が今と異なっていたのではないか(輸送時間など当時の低い技術の関係もあって…
— Y Tambe (@y_tambe) August 3, 2010
現在、比較的カビ毒が問題になりやすいと言われてるのは、東南アジアあたり。インドネシアで、スマトラ式と呼ばれる方法で精製されてるマンデリンとかは、集荷方法などの関係もあってリスク高め。
— Y Tambe (@y_tambe) June 6, 2012
ジャワ島の水洗式について。
確かに、精製法ではインドと近い可能性はありますね。スマトラ式は…うーん、どうだろう。見面の記述からイメージするのはそれっぽいのだけど、ジャワで水洗式が導入された19世紀半ばには、もうとっくにイギリス領だったからなぁ…@kisanjin
— Y Tambe (@y_tambe) November 15, 2010
スマトラ式については旦部幸博氏の百珈苑BLOG、「「Giling Basah」:スマトラ式精製法」を参照できます。
*旦部氏は2015年のUCCの缶コーヒーキャンペーンで、抽選3,000名の世界のスペシャリティコーヒー飲みくらべキットに当選したようです。マンデリン・リントンニフタの缶コーヒーが含まれています。
わ当たった。 pic.twitter.com/fSZxFsFGne
— Y Tambe (@y_tambe) December 19, 2015
当選した、変態的(褒め言葉)なブツの中身。
— Y Tambe (@y_tambe) December 20, 2015
右から
ケニア・キアンプ
パナマ・エスメラルダ農園のゲイシャ(!)
エチオピア・イルガチェフ
マンデリン(インドネシア)・リントンニフタ
の「缶コーヒー」 pic.twitter.com/M7WvJO9DBR