UCCカフェメルカード:ブラジル ミナミハラ農園 ブラジル カップ・オブ・エクセレンス 2017年 ブラジル・ナチュラルズ 第11位

UCCカフェメルカード ブラジル ミナミハラ農園 ブラジル カップ・オブ・エクセレンス 2017年 ブラジル・ナチュラルズ 第11位と通常ロットです。

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ブラジル ミナミハラ農園

ブラジル

ブラジルの主なコーヒー生産地域、Ally Coffeeより

ブラジル(Brazil)は南米の東部に位置する60億本のコーヒーの木が栽培されている世界最大のコーヒー産地です。人口は約2億930万人で、日系人は約160万人です。

ブラジルは北部のノルチ(Norte)、北東部のノルデスチ(Nordeste)、中西部のセントロ・オエスチ(Centro-Oeste)、南東部のスデスチ(Sudeste)、南部のスウ(Sul)5つの地域に別れ、それらの地域はさらに26のエスタードと呼ばれる州(Estado)と1つの連邦直轄区(首都ブラジリア)から構成されています。

ブラジルのコーヒー栽培は、ロマンスから始まったという話があります。1727年に領土紛争の解決のためにフランス領ギアナに派遣されたフランシスコ・デ・メリョ・パリェタ(Francisco de Mello Palheta)が、フランス領事夫人の恋仲になり、彼女はパリェタの帰国時に渡した花束の中に、コーヒーの若木をこっそりと忍ばせていたという話です。

ブラジルは19世紀半ば頃に世界最大のコーヒー生産国になりました。現在でもブラジルのコーヒー生産量は世界全体の生産量の約30%を占めるため、コーヒーの国際相場はブラジルの生産量に左右されます。

ブラジルのコーヒー生産の大部分は、ブラジルの南部パラナ州(Paraná)と南東部のサンパウロ州(São Paulo)とミナス・ジェライス州(Minas Gerais)で行われます。ミナミハラ農園があるサンパウロ州(São Paulo)は、南東部のスデスチに位置しています。

サンパウロ州

ブラジルの生態系、Wikipediaより

サンパウロ州は、かつてブラジル最大のコーヒー生産地として知られていました。そのため、歴史のあるコーヒー農園が数多くある地域です。

ブラジルの生態系は、熱帯雨林のアマゾニア(Amazonia)、サバンナ地帯のセラード(Cerrado)、熱帯性湿地のパンタナル(Pantanal)、乾燥地帯のカーチンガ(Caatinga)、大西洋岸森林のアトランティック・レインフォレスト(Mata Atlantica)、草原地帯のパンパ(Pampa)に分かれています。サンパウロ州は、大西洋岸森林のアトランティック・レインフォレストにあたります。

ブラジルの主なコーヒー生産地域、ABOPCAFÉより

サンパウロ州の主なコーヒー生産地域として、北東部のモジアナ(Mogiana)、中西部のマリリア(Marilia)とガルシア(Garcia)、オウリニョス(Ourinhos)とアバレ(Avaré)が挙げられます(5と6が、サンパウロ州の主なコーヒー生産地域です)。

アルタ・モジアナ

「Alta Mogiana Specialty Coffees」,Região da Alta Mogiana 2014年10月6日.

アルタ・モジアナ(Alta Mogiana)は、ミナス・ジェライス州(Minas Gerais)との境に沿った、サンパウロ州北東部に位置しています。標高は900m-1,000m、年間平均気温は21℃です。

なだらかな起伏のある土地、豊かな土壌、パラナ州のリオ・グランデ川(Rio Grande)から来る淡水、高い標高により、コーヒー生産に適した地域となっています。近年この地域では、最新技術を取り入れたコーヒー生産が行われており、高品質なスペシャルティコーヒー生産で世界的に有名な生産地となっています。

アルタ・モジアナは、15の自治体に約2,500のコーヒー農園があります。小さな家族経営のコーヒー農園が多く、ミナミハラ農園もその一つです。

アルタ・モジアナには、コーヒーを生産する主な自治体として、フランカ(Franca)、クリスタイス・パウリスタ(Cristais Paulista)、ジェリクアラ(Jeriquara)、ペドレグーリョ(Pedregulho)、 リファイナ(Rifaina)、イティラプア(Itirapua)、パトロシーニオ・パウリスタ(Patrocinio Paulista)、サン・ジョゼー・ダ・ベーラ・ヴィスタ(Sao Jose da Bela Vista)、アウチノーポリス(Altinopolis)、バタタイス(Batatais)、レスティンガ(Restinga)があります。

これらの自治体はすべてコーヒー生産によって発展し、現在もコーヒーは地元経済に大きな影響を与えています。

アルタ・モジアナでは、アラビカ種のみが生産されています。主な栽培品種はカツアイ(Catuai)とムンド・ノーボ(Mundo Novo)です。

この地域は、中程度に肥沃な土壌のため、土壌への施肥が不可欠です。また、起伏の穏やかな地形のため、収穫には機械が使用されます。また、旱魃と霜の被害に加え、ビッショ・ミネイロ(Bicho Mineiro)(Leucoptera coffeella)のようなコーヒーさび病菌の被害が時々発生します。

ミナミハラ農園

右がアンダーソン・ミツヒロ・ミナミハラ、ACE ホームページより

ブラジル ミナミハラ農園(Fazenda Minamihara)はサンパウロ州クリスタイス・パウリスタ (Cristais Paulista)、アルタ・モジアナ(Alta Mogiana)に位置する農園です。ミナミハラ農園の位置するサンパウロ州は、歴史的には日本人の移民先であり、日本人集団地が建設された場所です。

サンパウロ州に住む人々はパウリスタ(Paulista)と呼ばれています。ブラジルへの日本人移民計画を立てた水野龍(みずのりょう)が開業した「カフェー・パウリスタ」のパウリスタも、ここから名前が取られています。

そして同じく銀座に1911年12月開業したのが「カフェー・パウリスタ」。ブラジル移民の父と呼ばれた水野龍が開いた店です。

皇国殖民会社の社長だった水野はサンパウロ州政府から、日本からの移民の輸送に貢献した見返りに、コーヒーの無償提供を受けることになりました。ちょうどブラジルが過剰生産から価格維持政策(167頁)を行っていた時期で、日本を新たな市場として消費拡大を図ることがサンパウロ側の狙いでしたが、それがブラジル移民たちの経済支援にもなると考えた水野は、大隈重信の助力のもとカフェー・パウリスタを設立します。実際は6月に大阪の箕面(みのお)で先に開業しましたがそちらは早期に閉店したようです。

旦部幸博(2017)『珈琲の世界史』,講談社現代新書.p194-195

ブラジルコーヒーと日系移民

1930年代の珈琲採取風景、ブラジル移民の100年より

ブラジルは現在、世界最大のコーヒー生産国ですが、そこに至るまで日本人移民の力が大きく貢献しています。1888年ブラジルでは奴隷制が廃止となり、コーヒー農園は安い労働力なくして成り立たない現実があり、ブラジル政府は多くの移民を奴隷の代わりに必要としました。

当時日本は明治維新の時代で、コーヒーは非常に高価な嗜好品でした。ブラジルのコーヒー農園で働けば、短期の労働で十分な資金を蓄えて日本に帰ってくることができると期待した人々は、一攫千金の夢を抱いて、日本からブラジルへと移民として渡りました。1908年に日本からの最初の移民を乗せた「笠戸丸(かさとまる)」が神戸港を出港します。このとき移住した人の多くが、大規模コーヒー農園で契約労働者として働く「コーヒー・コロノ(Coffee Colono)」と呼ばれる人々でした。

しかし、コーヒー農園での労働は想像以上に過酷でした。移民たちは朝から晩まで重労働を科され、賃金の未払いなどもありました。ブラジルでの現実と理想との間で挫折を経験した移住者たちは深く失望し、農園から逃げ出す人も大勢いました。

移民たちがコーヒー園に配耕されてから、3、4年もすると、過酷なコーヒー農園での作業にも慣れ始めました。また、コーヒー農園での労働以外にも、とうもろこしや豆などの他の作物の栽培や家畜の世話などによって副収入を得ることができるようになり、移民たちの生活は次第に安定してきました。

そのようにして、日本人移民たちはコーヒー耕地で貯めた資金をもとにして、労働契約期間の満了後にコーヒー農園を出て、分益小作という地主から貸与された土地で労働したり、ようやく自分たちの土地を購入したりして、コロノから自作農として独立する人も現れ始めました。

日本人移民の生活が徐々に落ち着いてくると、日本人の生活する場所には、後からやって来た日本人移民が加わり、日本人集団地が形成されました。それぞれの日本人集団地では、日本人の交流会が組織されたり、日本語の新聞も発行されるようになりました。また、子どもたちのための日本人学校も建設されました。

1920年代から30年代には内務省は国内の人口問題、失業問題等の対策として、渡航費補助の開始により、ブラジルへの渡航者数は急増しました。ブラジルでは1930年にジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス(Getúlio Dornelles Vargas)による軍事クーデターが勃発しました。この革命後に成立した臨時政府は、同年12月「外国移民入国制限及失業者救済法」を制定して、農業移民を除く移民の入国を制限しました。しかし、日本人移民は農業移民としてこの措置の適用を免れ、年に1万2千人から2万7千人が入国許可を得て渡航しました。移民としては日本人が突出して多かったようです。

戦後には、ブラジルの日系社会が分裂しますが、1954年サンパウロ四百年祭に向けて再び再統合の動きが起こり、ブラジルの日系社会は再び一つになります。1955年にはサンパウロ日本文化協会が設立されます。

ミナミハラ農園の歴史

ミナミハラコーヒーは、現在の農園主で第三世代のゲトゥリオ・ミナミハラ(Getulio Minamihara)とクララ・ミナミハラ(Clara Minamihara)の祖父母(第一世代)が、モジアナ(Mogiana)地区のコーヒー農園で働くために、移民として到着した1930年代に始まります。

1973年、祖父母と両親(第二世代)がパラナ州(Parana)北部を去り、現在農園があるアルタ・モジアナ(Alta Mogiana)のフランカ(Franca)にやってきます。彼らはこの土地でコーヒー農園に深刻な被害をもたらした霧を目撃します。

ブラジルでは生産の中心がリオから、より南のサンパウロに移った19世紀後半から、たびたび霜害を経験してきました。さらに20世紀に入ると、生産の中心がさらに南のパラナ州北部に移ったことで一層深刻になりました。

霜害のことが分かっていながら、なぜパラナに産地が移ったのでしょうか。これにはブラジルのコーヒー政策が関係しています。1906年の価格維持政策以降、ブラジル政府は生豆を買い上げる代わりにサンパウロでは新しくコーヒーノキを植えることを禁じました。そこで規制のないパラナ州へと農園が広がっていったのです。パラナ州北部に広がる肥沃な赤土(テラ・ローシャ)は土地を求める生産者の目に魅力的に映ったのでしょう。

しかし土壌こそすばらしいものの、気候は「過酷」の一言で、1942、55、63、69年とたびたび「黒霜」に襲われます。なかでも1975年の黒霜は激烈で、コーヒー相場にも大きく影響し、市場価格は3倍近くに跳ね上がりました。その後もブラジルは何度かの霜害に見舞われますが、やがてミナスジェライス州のセラード地区に灌漑設備が整備され、産地の中心が北に移るに伴って、霜害の問題は解消されていきます。

旦部幸博(2017)『珈琲の世界史』,講談社現代新書.p194-195

1975年のブラジルの霜害については、ニューヨーク・タイムズの1975年8月4日の記事があります。

ニューヨーク・タイムズ 1975年8月4日.

彼らはアルタ・モジアナの20ヘクタールの土地に、ムンボノーボ(Mundo Novo)、レッド・カツアイ (Red Catuai)、イエロー・カトゥアイ(Yellow Catuai)品種の44,000本のコーヒーノキが植えました。それらはすべて、彼らが住んでいたシティオ・ソル・ナスセンテ(Sitio Sol Nascente)で栽培された苗でした。最初の収穫は170袋となり、1袋あたり約500ドルと記録的な価格で売られました。彼らが生産していた地域は霧害に苦しめられていたために、コーヒーを高値で取引することができたわけです。

現在は第三世代のゲトゥリオ・ミナミハラ(Getulio Minamihara)とクララ・ミナミハラ(Clara Minamihara) 、そして第四世代の息子アンダーソン・ミツヒロ・ミナミハラ(Anderson Mitsuhiro Minamihara)が農園を運営しています。

区画

農園の標高は1,010m-1,030mです。

現在、農場の総面積は150ヘクタールで、95ヘクタールにコーヒーを植え、4つの区画に分かれています。ソル・ナスセンテ区画(Sol Nascente)ではアボカドのみを栽培しています。パイネイラス区画(Paineiras)では、コーヒーノキが栽培され、オウロ・ヴェルデ区画(Ouro Verde)とサンタ・マリア区画(Santa Maria)では、コーヒーとアボカドが両方栽培されています。

ミナミハラ農園と他の農園の違いは、コーヒーがアボカドの木々の日陰に植えられていることです。 アボカドの木をシェードツリーにすることで、マイクロクライメイト(微小気候)や害虫からコーヒーノキを守り、攻撃を受けにくく、農薬を必要としないコーヒーが生まれます。さらに、日陰のおかげで、果実の成熟が遅くなり、豆の中の糖の濃度が高くなるため、甘味のあるコーヒーに仕上がります。

コーヒーは、菌類やバクテリアなどを用いたホメオパシー処理によって害虫や病気から保護されています。土は砕いた殻とサンゴから作られた海の石灰岩で調整され、有機農業のために認可された有機化合物が使用されます。除草剤は雑草を防除するためには使用されず、雑草は手や機械で取り除かれます。

すべてのコーヒーは、生産区画、品種、成熟度、乾燥方法などの生産履歴が記録されます。乾燥したコーヒーは、箱や袋に入れて保管されます。

品種

品種はカツカイ(Catucai)です。

カツカイはカツアイ (Catuai)とイカツ(Icatu)の自然交配種です。カツカイはカツアイ同様に、生産性が高く、さび病に強い耐性を持っています。

ミナミハラ農園ではコーヒーノキの植え付け時に、つねにどの品種が最も生産性が高い品種であるかを慎重に研究し、病気に耐性が強く、特に生産性の高い品種を優先しました。現在では45品種もの多様なコーヒーが栽培されています。

精製方法

精製方法はナチュラル(Natural、乾式)です。

ナチュラルは、収穫したコーヒーチェリーをそのまま天日干し乾燥させ、その後パルピング(Pulping、果肉除去)し、パーチメント(Parchment、内果皮付きのコーヒー豆)を脱穀してコーヒー生豆を取り出す方法です。ナチュラルでは乾燥工程における果肉の発酵の作用によって、より複雑な味わいとなります。ブラジルはこのナチュラル精製が一般的な精製方法です。

ミナミハラ農園では、可能な限り最高の品質を保証するために、すべてのコーヒーは、特性、プロット、バラエティー、および成熟度によって別々に選別されます。手摘みと機械によって丁寧に収穫され、ナチュラルで精製されます。

乾燥にはアフリカンベッドとアスファルトパティオが使われます。徹底した品質管理のもと、味わいや品質、安全面双方の向上に取り組んでいます。

オレンジのような柑橘系の酸味とブラジルらしいナッツのようなフレーバーが特徴です。カップ・オブ・エクセレンスのロットでは、ハチミツのような甘さが加わり、優しい印象のコーヒーに仕上がっています。

UCCカフェメルカード ブラジル ミナミハラ農園 ブラジル カップ・オブ・エクセレンス 2017年 ブラジル・ナチュラルズ 第11位

ブラジル ミナミハラ農園 ブラジル カップ・オブ・エクセレンス 2017年 ブラジル・ナチュラルズ 第11位

このロットは、2017年のブラジル カップ・オブ・エクセレンス(Cup Of Exellence(CoE))のナチュラル部門、ブラジル・ナチュラルズ(Brazil Naturals)で88.70点を獲得し第11位に入賞したロットです。パイネイラス区画(Paineiras)で生産されました。

同じく2017年のブラジル カップ・オブ・エクセレンスのブラジル・ナチュラルズで88.93点を獲得し、第9位に入賞したロットは、ミナミハラ農園のオウロ・ヴェルデ区画(Ouro Verde)で生産されたロットです。

左 CoEロット、右 通常ロット

Aroma/FlavorHerbal, chocolate, caramel, molasses, raspberry, honey, pear, coffee cherry, winy.
AcidityCrisp, tartaric, bright.
OtherCreamy, well balanced, structured, peach.
カップ・プロファイル、ACEより

オレンジのような柑橘系の酸味とハチミツのような甘さがとても柔らかい口当たりの中で一体となっています。ジャスミンやハーブのような清涼感のあるフレーバーとブラジル特有のナッツのようなフレーバーを併せ持っており、全体として非常に優しい印象の味わいです。

UCCカフェメルカード ブラジル ミナミハラ農園

ブラジル ミナミハラ農園の通常ロットのコーヒーです。

ブラジル ミナミハラ農園

カップ・オブ・エクセレンスのロットと比較すると、深煎りのコーヒーです。

ブラジル特有のナッツのようなフレーバーと濃厚なコクがあります。ハーブのような清涼感が深煎りの苦味を爽やかなものにしています。

<参考>

Minamihara<https://www.minamihara.com/en/>

「Fazenda Minamihara Organic」,Ally Coffee<https://www.allycoffee.com/coffees/fazenda-minamihara/>

「88.70」,Alliance For Coffee Excellence<https://allianceforcoffeeexcellence.org/farm-directory/88-70-8/>

「88.93」,Alliance For Coffee Excellence<https://allianceforcoffeeexcellence.org/directory/88-70-8/>

ブラジル移民の100年<https://www.ndl.go.jp/brasil/index.html>

「第8号(2007年9月)資料探検隊 Vol.9」,海外移住資料館だより<https://www.jica.go.jp/jomm/newsletter/tayori09_02.html>

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