パナマのコーヒーの歴史(3):第1回コーヒーフェスティバルとコーヒー生産の発展

パナマのコーヒーの歴史 第1回コーヒーフェスティバルとコーヒー生産の発展

フラワー&コーヒーフェア

フラワー&コーヒーフェア

ボケテ(Boquete)は、コスタリカとの国境から約60km、パナマの最西端チリキ県(Chiriquí Province)にある緑の高地、カルデラ川(Caldera River)沿いにある小さな町である。標高1,200mから1,800mの高地にあるため、低地の気候より涼しく、高品質のコーヒー栽培に理想的な場所である。その風光明媚な立地と気温、自然環境から、世界各地から観光客が訪れている。観光に加えて、主要産業は農業、特にコーヒー生産である。ボケテのコーヒーは、世界でも最高級品として知られている。

「ボケテ(Boquete)」という言葉は、スペイン語で「隙間、開口部」という意味である。この「隙間」から、金鉱を探す野心的な人々が、より安く、より早く太平洋に出る方法を探して旅をしていた。19世紀末になると、農民がこの地に住み着くようになり。20世紀初頭には、いくつかの村に人が住むようになった。その後、コーヒーの生産が始まった。

ボケテ地区の主なイベントは、1月の第1週に開催される「フラワー&コーヒーフェア(La Feria de las Flores y del Café)」である。このイベントは、国内でも最も重要な見本市の1つとして位置づけられている。

1950年4月8日から11日まで、ボケテ地区で第1回「コーヒーフェスティバル(Festival del Café)」が開催された。ライオンズクラブのリーダーであったルイス・イダルゴ(Luis Hidalgo)は、ロス・サントス県(Los Santos Province)のようにフェア・イベントを行うべきであると会議で主唱した。これは良いアイデアだと考えたボケテの地域のリーダーたちは、支持を取り付け、アルヌルフォ・アリアス(Arnulfo Arias)大統領の訪問を受けて彼に提案し、1950年の夏にこのフェスティバルを開始する法律第40号が承認された。第1回コーヒーフェスティバルは、ジェネロソ・バレンズエラ(Generoso Valenzuela)市長を委員長とし、フェスティバルの女王にカロリーナ・ロジャース(Carolina Rogers)、王女にクララ・ベアトリス・レアル(Clara Beatriz Real)が選ばれた。

当初、このフェスティバルはコミュニティが組織されたときだけ開催される断続的なイベントで、1950年から1969年まで、1950年、1957年、1961年、1969年の4回しか開催されなかった。

1970年4月9日に大洪水が発生した。住民の3人に1人が被災するという甚大な被害をもたらし、8人が死亡した。悲劇の1年後の1971年に、カルロス・エンリケ・ランドウ(Carlos Enrique Landau)、アルベルト・フェデリコ・デ・アルバ(Alberto Federico de Alba)が主導し、ホセ・イサベル・ルイス(José Isabel Ruiz)が主宰して第6回コーヒーフェスティバルが開催された。町を美しくするための工事も行われ、フェスティバルの女王にはブレンダ・アギラール(Brenda Aguilar)が選ばれた。

1973年にコーヒーフェスティバルは「フラワー&コーヒーフェア」となり、この年から1991年までは4月に開催された。1990年代に入ってからは、乾季を利用して1月に開催されるようになった。

Acerca de Boquete:http://feriadeboquete.com/?page_id=387

La Feria de las Flores y del Café:https://www.panamaamerica.com.pa/opinion/la-feria-de-las-flores-y-del-cafe-1093945

コーヒー生産の発展

パナマで大統領を務めたアルヌルフォ・アリアス・マドリッド(Arnulfo Arias Madrid)は、1951年に政治家としてのキャリアを一時中断し、ボケテ地区のコーヒー生産に時間と資源を投資した。

1952年、パナマ大陸諸国間農業協力局(SICAP)(Servicio Interamericano de Cooperación Agrícola en Panamá)の招きで、コーヒーの世界的権威であるウィリアム・H・カウギル(William H. Cowgill)がパナマの全生産地を訪問し、コーヒーの研究、技術援助、精製、販売に関する重要な勧告を行った。1952/53年の生産量は50,300キンタル、収量は1ヘクタールあたり4.9キンタルであった。

1952年1月30日、ロス・サントス県サバナ・グランデ(Sabana Grande)で、コレア家(Correa Family)がアスエロ半島で最初の焙煎所を設立し、全国のコーヒー生産者から購入した原料で「カフェ・オリンポ(Café Olimpo)」を製造した。

1953年、経済開発研究所(IFE)(Instituto de Fomento Económico)が設立され、農業・産業信用銀行の機能を引き継いだ。経済開発研究所(IFE)はその後、国のコーヒー栽培に決定的な役割を果たすことになる。生産量は60,200キンタルで、国内需要に達しており、5,357キンタルのコーヒーが輸出された。

1954年、パナマ大陸諸国間農業協力局(SICAP)は、チリキ県にブルボン(Bourbon)、カツーラ(Caturra)、パチェ(Pache)、ビジャロボス(Villalobos)、コラムナリス(Columnaris)、ブルーマウンテン(Blue Mountain)などのアラビカ種を導入し、複数の調査圃場をブガバ(Bugaba)に設置し、検証を行った。

1955年、パナマは「消費者と生産者の双方の利益を守り、市場の安定を実現する」ために、国際コーヒー局(International Coffee Bureau)の設立に参加した。

ブラジルの為替政策に関する優柔不断さもあって、コーヒーの海外市場への進出は遅れている。先週ニューヨークで開かれたラテンアメリカのコーヒー関係者の非政府会議では、国際コーヒー事務局の設立と、各国政府の批准を求める国際協定の制定が提案された。この協定は、「消費者と生産者の双方の利益を守り、市場の安定を実現する」ためのものである。この新組織が実効性のある計画への支持を得られるかどうかは、今後の出来事によって決まるだろう。

Coffee has moved slowly into foreign markets, partly because of Brazilian indecision concerning its exchange policy. Last week in New York a non-government conference of coffee interests of Latin America proposed the organization of an International Coffee Office and an international agreement to be submitted for ratification by their respective governments. The agreement would be designed to “achieve stability of the market, protecting both the interests of the consumer and the producers.” Events will determine whether this new organization can obtain support for any plan which will be effective.

"312. Report by the Operations Coordinating Board",Office of the Historian 1955年6月14日.

REGULATING COFFEE - The New York Times:https://www.nytimes.com/1955/06/01/archives/regulating-coffee.html

1955年から59年、パナマ大陸諸国間農業協力局(SICAP)は、コーヒー専門家による最初の技術チームを結成し、コーヒー生産者への普及活動や技術研修を開始した。1956年、アルノルド・ゲーラ(Arnoldo Guerra)とエミリオ・バレス(Emilio Vales)が、パナマ大陸諸国間農業協力局(SICAP)がブガバに導入したコーヒーの品種の最初の成果を報告した。

1958年から59年、パナマは現在までの継続的かつ持続的なコーヒーの輸出を開始した。また、パナマは国際コーヒー協定にも加盟している。生産は83,200キンタルで、輸出は11,838.70キンタルを輸出し、FOB価格は49万7000バルボアだった。また、アメリカコーヒー協会連盟(FEDECAME)(Federation of Coffee Associations of America)に加盟し、国際的なコーヒー政策の立案やコーヒーに関する数多くの技術会議の開催に一役買った。

1959年、 チリキ県ドレガ地区コチェア(Cochea)に、ベネフィシオ・セントラル・デ・カフェ社(Beneficio Central de Café, S. A.)を設立された。中小規模のコーヒー生産者を対象に水洗式コーヒー精製所を建設し、ヨーロッパにコーヒーを輸出した。

1959/60年、パナマは国際コーヒー協定から60キログラム袋1万個(13,228キンタル)の輸出割当を受けた。生産量は99,800キンタル、輸出量は28,682キンタル、FOB価格は113万バルボアだった。

1962年、パナマは第1次国際コーヒー協定に調印し、60キログラム袋2万6000個(34,392キンタル)の輸出枠を割り当てられた。1963年、国際コーヒー協定を根拠として、ロンドンに本部を置く国際コーヒー機関(ICO)(International Coffee Organization)が設立された。1962/63年の国内生産量は96,000キンタルで、収量は1ヘクタールあたり3.52キンタルであった。パナマは37,753キンタルを輸出し、FOB価格は141万バルボアだった。

1962年、チリキ県ドレガ地区コチェアにベネフィシオ・セントラル・デ・カフェ混合企業社(Empresa Mixta Beneficio Central de Café, S. A.)が設立され、3月にヨーロッパ向けに750キンタルのコーヒーを初輸出した。

1962年、北米人セシル・クック(Cecil Cook)のメサコーヒー社(Mesa Coffee Company S.A.)は、コクレ県(Coclé Province)アントン(Antón)、バジェ・デ・アントン(Valle de Antón)のラ・メサ(La Mesa)に10万本のコーヒーの木を植えることに成功したが、気候や環境の事情で数年後に破産した。

1962年から1964年、パナマ・コーヒー研究所(El Instituto Panameño de Café)は、その短い活動期間中、公共部門として、コーヒー生産者を対象としたコーヒー生産向上のための支援活動や研修活動を国内で展開した。1962年から1969年、パナマのコーヒー産業は事実上の停滞し、コーヒー生産量は年間平均10万キンタルを下回るようになった。

1967年11月17日、レナシミエント地区サンタ・クララ(Santa Clara)で、組合員のために自家消費および輸出用のコーヒーを精製し、食料品や農産物を扱うスーパーマーケット部門を併設するブランカ・フロール多重サービス協同組合(Cooperativa de Servicios Múltiples Blanca Flor, R. L.)が設立された。

1968年、パナマは国際コーヒー機関(ICO)の第2次国際コーヒー協定に調印した。60キログラム袋2万5000個(33,069キンタル)の初期輸出枠が割り当てられた。コーヒーの輸出量は14,805キンタルで、FOB価格は56万バルボアに留まった。

1969年、C・A・クルーグ(C. A. Krug)とR・A・デ・ポルク(R. A. De Poerck)は、国連食糧農業機関(FAO)(Food and Agriculture Organization of the United Nations)の後援を得て、政府関係者やコーヒー問題の専門家から提供された情報をもとに『世界コーヒー調査』(原題:World Coffee Survey)を発表し、その中でパナマのコーヒーについて5ページにわたり紹介している。

1969年、ベラグアス県(Veraguas Province)サンタフェ(Santa Fe)に、SM ラ・エスペランサ・デ・ロス・カンペシーノス協同組合(SM La Esperanza de los Campesinos, R. L.)が設立された。組合員からコーヒーを購入し、一部は輸出用に割り当て、大部分はカフェ・ツテ(Café Tute)の焙煎所へ送られた。

1972年、農業畜産省(MAG)(Ministerio de Agricultura y Ganadería)は、国内消費用のコーヒーの品質向上を目的として、低地の小規模コーヒー生産者を指導するために、いくつかの公報やパンフレットを不定期に発行した。1972/73年の国内生産量は109,000キンタル、収量は1ヘクタールあたり4.75キンタルであった。輸出割当は3万5000袋(46,297キンタル)だったが、54,002キンタルを輸出し、FOB価格は250万バルボアだった。

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