ファーマーブラザーズの歴史

ファーマーブラザーズの歴史

歴史

ファーマーズブラザーズ(Farmer Brothers)は、1912年にロイ・E・ファーマー(Roy E. Farmer)によって創業されたアメリカ合衆国カリフォルニアのコーヒー会社です。ファーマーは、それまでなかったレストランで高品質のコーヒーを提供することを思いつき、兄が経営する自転車店の裏手にファーマーズブラザーズを設立しました。

ファーマーは1912年に会社を設立し、焙煎した豆を戸別に販売し始めました。創業から10年後、彼はコーヒー器具事業に参入しました。ほぼ同時期に事業を法人化し、1923年にカリフォルニア法人としてファーマーズブラザーズを設立しました。ファーマーはアメリカ合衆国西部の成長を予見し、会社の初期の成功を導きました。彼は人口が大きく増加する地域はどこかを察知し、サンフランシスコなどの大都市圏に支社を設立しました。

ロイと彼の兄のフランク・ファーマー(Frank Farmer)は、フランクが亡くなる1934年までに事業を多角化し、コーヒーそのものだけでなく、商業施設向けのコーヒー器具や消耗品にまで製品ラインを拡大しました。

1949年、ファーマーはより広々とした未開発の場所に、大規模な生産施設を建設することを決めました。そして、ロサンゼルス市街のトーランスの東に位置する、当時は開発が進んでいなかった工業地帯、現在のハーバーゲートウェイに、オフィスと巨大なコーヒー焙煎施設の建設を開始しました。1949年1月、新施設の建設が始まりました。後に拡張されることになりますが、当初の施設は3棟の巨大な工業用建物と大きなトラック小屋、2つのローディングドックで構成されてました。完成時の建設費は200万ドル(約2億円)と見積もられていました。

1951年、ロイ・E・ファーマーの息子であるロイ・F・ファーマー(Roy F. Farmer)が経営権を取得しました。

新施設の建設は、ファーマーズブラザーズにとって大きなステップアップとなりました。プロジェクト開始から2年後、ロイ・E・ファーマーは59歳で亡くなりました。その1年後の1952年、長い間非公開であった同社は、その財務状況により、株式公開による資金調達を余儀なくされました。

1960年、本社を正式にトーランスに移転しました。ファーマーズブラザーズは南カリフォルニアで最も秘密主義的な企業として知られ、公開企業として最低限必要な情報以外は共有しませんでした。ロイ・F・ファーマーは、休暇も取らず、マスコミの取材にも応じず、ウォール街のアナリストも無視しました。毎日昼休みになると、焙煎工場の裏手に車を止め、1969年製のリンカーン・コンチネンタルに座り、1人で昼食をとっている姿が目撃されました。ファーマーズブラザーズには、広報部もIR部もなく、上場企業でありながら、まるで個人企業のように、ファーマーの強い支配下にありました。その強固な意志は家族に対しても揺らぐことはなかったため、妹のキャサリン・クロウ(Catherine Crowe)との間に争いが起こりました。1980年代前半、クロウはファーマーの取締役に就任するために委任状争奪戦を展開しましたが、クロウが健康上の問題で退任すると、息子のスティーブン・クロウ(Steven Crowe)がその座に就こうとしました。しかし、ファーマーはこれを拒否し、数十年にわたる一族の争いの火種となりました。1990年代に入ると、ファーマーの独裁的な経営はますます強まり、家族だけでなく、多くの株主の反感を買うことになりました。

21世紀に入ると、株主の雰囲気は一変しました。1998年に2億4,000万ドルのピークに到達した年間売上高は、2001年には2億600万ドルにまで落ち込みました。利益も、2000年には過去最高の3,760万ドルに達しましたが、翌年は16%減の3,060万ドルでした。当時80歳代半ばだったファーマーは、前立腺がんなどの病気を患っていて、権力の継承が間近に迫っているとの憶測を呼んでいました。1976年に入社した息子のロイ・E・ファーマー(Roy E. Farmer)は、1993年に社長に就任し、同時に取締役にも就任していました。業界では、この後継者が経営権を握るのではないか、あるいはファーマーブラザーズがライバル会社に買収されるのではないか、などと言われていましたが、ロイ・F・ファーマーは半世紀以上にわたって握ってきた手綱を手放そうとはしませんでした。

2001年、ファーマブラザーズの年次総会で、ある大株主が席を立ち、「コーヒー工場を見学させてほしい」と頼みました。2002年11月4日付のロサンゼルス・タイムズの記事によると、ファーマーは席を立たず、「見学はできない。不幸な株主のためのツアーはない。」と、無愛想に返答したそうです。株主の不満は募るばかりで、ファーマーの強引な振る舞いは彼らの軽蔑の的でした。投資銀行家のゲーリー・ルーティン(Gary Lutin)は、2002年11月4日付のロサンゼルス・タイムズのインタビューに答えて、「彼の行動は異常だ。」と述べました。「年次報告書も送ってこないし、電話もかけてこない会社は、この会社だけだ。驚くべきことだ。」キャサリン・クロウとその子供たちは、この時点で闘争に加わり、会社の運営と戦略についてもっと情報を開示するよう求めていました。スティーブン・クロウは、2002年11月4日付のロサンゼルス・タイムズのインタビューで、「私たちは苛立っていた。」と伝えました。「私たち家族は、44万4千株を所有している。1億5,000万ドルもあるのに、私たちと話もしない人たちが支配しているんだ。」

2002年夏、ファーマブラザーズと株主との間にトラブルが発生しました。ファーマブラザーズの9.7%の株式を保有する最大の機関投資家グループ、フランクリン・ミューチュアル・アドバイザーズ LLC(Franklin Mutual Advisors LLC)が主導権を握りました。フランクリン・ミューチュアルは、2000年11月にファーマーブラザーズの取締役会の再任に反対し、失敗しました。2002年7月、フランクリン・ミューチュアルは、ファーマーブラザーズを投資会社として登録するよう、米国証券取引委員会(SEC)(Securities and Exchange Commission)に申請しました。その理由もまた、一部の株主にとっては耳の痛い話でした。ファーマーブラザーズは、現金と短期投資で2億8200万ドルを保有しており、この金額は同社の会社資産の70%に相当しました。フランクリン・ミューチュアルをはじめとする株主グループは、この資金を事業拡大のために使うか、配当という形で分配することを望んでいました。米国証券取引委員会(SEC)の規制する法律では、投資会社は現金と国債を除いた資産の40%以上を投資している企業と定義されていました。フランクリン・ミューチュアルは、ファーマー・ブラザーズを投資会社として登録するよう要求することで、同社に業績報告の方法を変更させ、ポートフォリオを監督する投資の専門家を雇うことを意図していたのです。もう一つの株主グループ、カリフォルニア州コスタメサのヘッジファンド、ミッチェル・パートナーズL.P.(Mitchell Partners L.P)は、同社に対して、取締役会の過半数を独立取締役とすることを求める新しい内規の採用を要求し、要望を表明しました。

ファーマーと彼の会社に対するプレッシャーは、ますます強くなっていました。フランクリン・ミューチュアルが提案を出してから数週間後の2002年8月、ファーマーブラザーズは、外部の監視の目を通すため、財務内容を公開することに同意しました。この譲歩がファーマーズ・ブラザーズ社の閉鎖的な態度に終止符を打つことになるのかどうかは、まだ不明でしたが、ファーマーから後任の経営者に経営権が移るのは、もうすぐでした。その時、50年以上続いたファーマーの支配に終止符が打たれ、新しい時代の始まりを意味していました。ファーマーの息子であろうと、買収した会社の経営陣であろうと、ファーマーの帝国を受け継ぐ者は、強い能力による会社の経営が期待されました。そして、財務の健全化、株主の不満の解消が、これからのファーマーズブラザーズに課せられた最大の課題でした。

2004年3月16日、ロイ・F・ファーマーは癌との長い闘病生活の末に87歳で亡くなりました。その数ヵ月後の2005年1月7日、息子のロイ・E・ファーマーはハンティントン・ビーチの自宅で銃で自殺しました。

<参考>

"Farmer Brothers History",Farmer Brothers<https://www.farmerbros.com/our-story/heritage/>

"FARMER BROTHERS COMPANY HISTORY TIMELINE",FARMER BROTHERS HISTORY<https://www.zippia.com/farmer-brothers-careers-4218/history/>

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