パプア・ニュー・ギニアのコーヒー産業の先駆者:カール・レオポルド・ブルーノ・ワイルド

カール・レオポルド・ブルーノ・ワイルド

ドイツの企業家のカール・レオポルド・ブルーノ・ワイルド(Carl Leopold Bruno Wilde(C. L. B. Wilde))は、1931年にオーエン・スタンレー山脈(Owen Stanley Mountain)の東にあるモロベ地区(Morobe District)のワウ(Wau)にある植民地政府の農業局のアラビカ種の試験栽培の区画を買い取りました。彼はこのプランテーションを発展させ、国内および海外にまで販路を伸ばしました。現在パプア・ニュー・ギニアの山岳地方で栽培されているコーヒーの多くはこのプランテーションに由来しています。

*C. L. B.ワイルドは、このプランテーションをブルー・マウンテン・コーヒー(Blue Mountain Coffee)と新たに命名したという情報がありますが、裏付けが取れません。

https://real-coffee.net/cafe-ranban-papua-new-guinea-purosa-plantation

彼は73才で亡くなりました。「パシフィック・アイランド・マンスリー(Pacific Islands Monthly)」の1950年3月号 第20巻 第8番に、彼の訃報が載りました。

DEATH OF C. L. B. WILDE.

THE death has occurred in Sydney of. Carl Leopold Bruno Wilde at the age of 73. For several years he had been suffering from a heart complaint. He was noted for several New Guinea enterprising particulars for his coffee plantation at Wau, where the. best beans in the Territory were (and are) grown.

Nearly 40 years ago he was plantation manager for Hernsheim & Co. on Makada in the Duke of Yorks and there met Juanita Stehr, whom he married and the two pioneered the Squally Island property, know later as Emira. After her death Wilde became interested in the goldfields and at one time was in partnership with Harry Darby.

He leaves five daughters to mourn his passing; two of them —Mrs. Shanahan. and Mrs. Mayfield—are in New Guinea. 

Vol. XX, No. 8 (Mar., 1950)」,Pacific Islands Monthly.p.27

(意訳)カール・レオポルド・ブルーノ・ワイルドはシドニーで73才で亡くなりました。数年間、彼は心臓の不調に悩まされていました。彼はニュー・ギニアのいくつかの企業、特にこの地域で最高のコーヒーが栽培されていた(そして現在も栽培している)、ワウのコーヒー・プランテーションで有名な存在でした。

40年近く前、彼はデューク・オブ・ヨーク諸島(Duke of York Islands)のマカダにあるハーンサイム会社(Hernsheim&Co.)のプランテーション・マネージャーであり、そこでファニータ・シュテール(Juanita Stehr)と出会い、彼らは結婚して2人は、後にエミラウ島として知られるスクアリー島 (Squally Island)の土地を開拓しました。 彼女の死後、ワイルドは金鉱地に興味を持ち、かつてはハリー・ダービーと提携していました。

彼は彼の死を嘆く5人の娘を残して亡くなりました;彼女たちのうちの2人—シャナハン夫人とメイフィールド夫人はニュー・ギニアにいます。

Hernsheim & Coは、ドイツの貿易会社。

ファニータ・シュテールの墓

カール・レオポルド・ブルーノ・ワイルドとファニータ・シュテールの孫であるピーター・シャナハン(Peter Shanahan)が、スクアリー島の祖母(ファニータ・シュテール)と彼女の墓についてインタビューに答えています。

The grave and memorial is that of my grandmother, Juanita Wilde (nee Stehr) put in place by my grandfather Carl Leopold Bruno Wilde. Juanita was the daughter of Franz and Caroline Stehr of Manuan plantation in the Duke of York Islands. The Stehr’s were a well known pioneering family with connections to Queen Emma.

Carl and Juanita established and planted Emira plantation after they were married and had four daughters Eileen Caroline Emira Bertha, Maria Juanita (Nita) my mother, Elspeth Emira (Ticky or Chicky), and Erdmie (Golly). Juanita died while travelling on the family schooner, the Emira, to the hospital in Kavieng to give birth. However the schooner was forced to take shelter on the other side of Emira from a storm. She gave birth to twin daughters, Faith and Hope, but unfortunately contacted septicaemia and died before she could return to Emira. One of the twins also died and the fate of the other is unknown and is a family mystery. It is said that my grandfather was so distraught by her death that he refused to accept the child and legend has it that she was taken away by German missionaries.

C.L.B. Wilde sold the plantation to Carpenters and sent the daughters to boarding school in Australia. He then joined the gold rush in Wau, where he established Koranga Gold Sluicing company and several other gold mines. He bought a government Experimental Coffee block and established Wilde’s coffee plantation at the base of the Wau aerodrome. He was effectively the pioneer of the New Guinea Coffee industry. He established his home on a miners Homestead lease along the Big Wau Creek and planted it with twenty-five acres of the finest Arabica coffee. This homestead was later developed by my mother and father as Wau Coffee Estates.

Wilde was interned as a German national during the war, later released in the custody of my uncle John Emery. He never returned to New Guinea and died in Mona Vale, Sydney, in 1948. His ashes were taken to Emira and interred alongside his beloved wife and comrade. He was an important part of the pioneering history of New Guinea.

All my aunts and my mother were well-known figures in the Mandated Territory and some respected pioneers in their own right. For those wishing to know more about C.L.B.Wilde, Les Bell in his book New Guinea Engineer (with Gillian Shadbolt), tells of his experiences on Emira at the time when he worked for my grandfather. He actually travelled to Emira with the headstone that still stands there today.

Una Voce JOURNAL OF THE PAPUA NEW GUINEA ASSOCIATION OF AUSTRALIA INC」,2009, No 1 - March.p.19

(意訳)墓と記念碑は私の祖父のカール・レオポルド・ブルーノ・ワイルドによって置かれた私の祖母、ファニータ・ワイルド(旧姓シュテール)のものです。 ファニータはデューク・オブ・ヨーク諸島のマニュアン・プランテーションのフランツとキャロライン・シュテールの娘でした。シュテール家は、エマ女王とのつながりを持つ有名な先駆的な家族でした。

カールとファニータは結婚後、エミラ・プランテーションを設立して植栽し、エイリーン・キャロライン・エミラ・ベルタ、私の母親のマリア・ファニータ(ニタ)、エルスペス・エミラ(ティッキーまたはチッキー)、そしてエルドミー(ゴリー)の4人の娘を持ちました。 ファニータは、エミラという、家族所有のスクーナーで旅行中、カビエンの病院で出産の際に亡くなりました。 しかし、スクーナーは嵐のためにエミラの反対側に避難することを余儀なくされました。 彼女は双子の娘、フェイスとホープを出産しましたが、不幸にも敗血症になり、彼女がエミラに戻る前に亡くなりました。 双子の1人も亡くなり、もう1人の運命は不明で家族の謎です。 私の祖父は彼女の死にひどく取り乱していたので彼は子供を受け入れることを拒否し、伝説では彼女はドイツの宣教師に連れ去られたそうです。

C.L.B. ワイルドはカーペンターズにプランテーションを売却し娘たちをオーストラリアの寄宿学校に送りました。 彼はそのころワウのゴールド・ラッシュに加わり、コランガ・ゴールド・スルーシング社と他のいくつかのゴールド・マインズ(金の生産会社)を設立しました。 彼は政府の試験的なコーヒー区画を購入し、ワウの飛行場のふもとにワイルド・コーヒー・プランテーションを設立しました。 彼は事実上ニュー・ギニアのコーヒー産業の先駆者でした。 彼はビッグ・ワウ・クリーク沿いに鉱業賃借権で家を建て、25エーカーに最高級アラビカ種コーヒーを植えました。 この自作農園はワウ・コーヒー・エステートとして後に私の母と父によって開発されました。

ワイルドは戦争中にドイツ国民として抑留され、後に私の叔父のジョン・エメリーの監督の下に釈放されました。 彼は一度もニューギニアに戻ることはなく、1948年にシドニーのモナ・ベールで亡くなりました。彼の遺骨はエミラに運ばれ、最愛の妻と同志と並んで埋葬されました。 彼はニュー・ギニアの先駆的な歴史の重要な一部でした。

すべての私の叔母たちと私の母は委任統治領で有名な人物であり自らの能力によって尊敬を受けた先駆者でした。 C.L.B.ワイルドについてもっと知りたい人のために、レス・ベルがニュー・ギニア・エンジニア(ジリアン・シャドボルトとの共著)という彼の本で、彼が私の祖父のために働いたときのエミラでの彼の経験について語っています。 彼は実際に今日まだそこに立っている墓石のあるエミラに旅行しました。

*エミラはスクアリー島のことであると同時に、家族のスクーナーの名前を指しているところもあります。

*パシフィック・アイランド・マンスリーにカール・レオポルド・ブルーノ・ワイルドの訃報が掲載されたのは1950年、一方でピーター・シャナハンは彼は1948年に亡くなったと述べています。

*参考文献としては、Gilian Heming Shadbolt "New Guinea Engineer: The Memoirs of Les Bell M.B.E."とPeter Turbet "The First Frontier: The Occupation of the Sydney Region 1788 - 1816"が挙げられます。

<参考>

「Vol. XX, No. 8 (Mar., 1950)」,National Library of Australia<https://nla.gov.au/nla.obj-370007069/view?sectionId=nla.obj-373020772&partId=nla.obj-370197429#page/n26/mode/1up>

「Una Voce JOURNAL OF THE PAPUA NEW GUINEA ASSOCIATION OF AUSTRALIA INC」,2009, No 1 - March.p.19<https://pngaa.org/site/Members/J2009-03.pdf>

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