パナマ カフェ・ド・エレタ農園とフェルナンド・エレタ・アルマラン
カフェ・ド・エレタ農園
カフェ・ド・エレタ農園(Finca Café de Eleta)は、パナマ(Panama)チリキ県(Chiriquí Province)レナシミエント地区(Renacimiento District)ピエドラ・デ・カンデラ(Piedra de Candela)に位置する農園です。コスタリカとの国境から約1kmの人里離れた場所です。
カフェ・ド・エレタ農園は、ハートマン農園の近くにあり、ラ・アミスタッド国際公園(英語:The La Amistad International Park、スペイン語:Parque Internacional La Amistad)に隣接しています。
カフェ・ド・エレタ農園は、パナマの財閥である「エレタ財団(スペイン語:Fundación Eleta)」が所有している広大な農園です。
カフェ・ド・エレタ農園は、1978年に野菜の栽培と羊を飼育する農園として設立されました。1985年に創業者のフェルナンド・エレタ・アルマラン(Fernando Eleta Almaran)は、土地の調査、コンサルタント、土地の買収を経て、カツアイの栽培を始めました。
農園は420ヘクタールと広大な面積を誇ります。標高1,250m - 1,500m、気温18℃ - 24℃、年間降水量2,000mm - 4,000mmの熱帯雨林に囲まれた土地で、コーヒーが栽培されています。
フェルナンド・エレタ・アルマラン
フェルナンド・エレタ・アルマラン(Fernando Eleta Almaran)は、1921年8月10日にパナマ・シティで生まれました。彼は幼少期はスペインのマラガで過ごしていました。1936年に始まったスペイン内戦 (Spanish Civil War)によってスペインを離れ、アメリカ合衆国カリフォルニア州フリントリッジ校で学びました。
彼はパナマ・キャナル・カレッジ(Panama Canal College)に入学した後、スタンフォード大学(Stanford University)に移り、1942年に社会科学の学位を取得しました。その後、1947年にマサチューセッツ工科大学(MIT)(Massachusetts Institute of Technology)で、構造エンジニアの資格を取得しました。
1961年には、彼は富裕層と貧困層の格差を縮めるための世界税を作ることについての論文、“A first Step… Unavoidable and Underferable”で、ヤンクトン大学(Yankton College)から法学の名誉博士号が与えられました。
フェルナンドは、1950年にメルセデス・カサノバス・エスコベット(Mercedes Casanovas Escobet)と最初の結婚をしました。彼女には、メルセデス(Mercedes)、フェルナンド(Fernando)、アウロラ(Aurora)の3人の子供がいました。
カルロス・エレタ・アルマラン「ある恋の物語」
メルセデスは、1954年にポリオによって亡くなりました。彼女の死はフェルナンドの兄である作曲家のカルロス・エレタ・アルマラン(Carlos Eleta Almaran)に影響を与えました。彼が彼女の死にインスピレーションを受けて作曲した「ある恋の物語(スペイン語:Historia de un Amor)」は、最もよく知られたクラシック・ボレロの一曲となりました。
日本においても、ザ・ピーナッツや本田 美奈子、布施 明や稲垣 潤一など、様々な歌手によってカバーされています。
フェルナンドは、1960年にグラシェラ・ケルクジュー・ミュラー(Graciela Quelquejeu Muller)と再婚し、グラシェラ(Graciela)、ヨランダ(Yolanda)、キシメナ(Ximena)、ディエゴ(Diego)の4人の子供をもうけました。
通信事業
フェルナンドは学生時代から、パナマにおける社会的不平等、富裕層と貧困層の格差、環境、多くの人々の教育の機会の欠如などに関心を持ち、国民に貢献することに大きな関心を持ってきました。
1949年に、彼は兄のカルロスとともにラジオ番組を購入し、"RPC-Radio"の聴衆の世論に影響を与えました。
1954年にパナマ・ラジオ放送公社(スペイン語:CORPORACION PANAMEÑA DE RADIODIFUSION, S.A.)が設立されました。1960年3月14日、最初のパナマのテレビ・チャンネルである"RPC-Televisión"が放送され、エレタ兄弟はパナマ・テレビのパイオニアになりました。
フェルナンドは、アメリカ大陸の通信業界を股にかけて活躍した人物でした。彼は、米州放送協会(Inter-American Association of Broadcasting)の共同創設者および名誉会長、パナマ放送協会(英語: Panamanian Broadcasting Association 、スペイン語:Asociación Panameña de Radiodifusión)の創設者、中央アメリカ放送組織(英語:Central American Broadcasting organization、スペイン語:Organización de la Radiodifusión Centro Americana)の共同創設者でした。
また、彼は、イベロアメリカテレビ組織(OTI)(英語:Organization of Iberoamerican Television、スペイン語:Organización de Telecomunicaciones de Iberoamérica)を設立したビジネスマンのグループのメンバーであり、中央アメリカテレビ協会(ATELCAP)(スペイン語:Asociación de la Televisión de Centro América)の共同創設者、中央アメリカニュース会社(スペイン語:Agencia Centroamericana de Noticias)の共同創設者でした。
彼は他にも、カフェ・ド・エレタを始めとして、様々な会社を立ち上げました。
ハラ・セロ・プンタ
フェルナンドは、馬術家でもありました。彼は「ハラ・セロ・プンタ(Haras Cerro Punta)」という牧場を作り、パナマ国内で最高の純血馬の繁殖に専念しました。
彼は競馬馬育種協会(SOCRICA)(スペイン語:Sociedad de Criadores de Caballos de Carrera)の共同創設者および会長であり、1980年から1997年までカリブ海乗馬連盟(スペイン語:Confederación Hípica del Caribe)の会長を務めていました。 1978年には、パン・アメリカン・スタッド・ブック連盟(英語:Pan American Stud Book Conference、スペイン語:Confederación Panamericana de Registros Genealógicos)およびパナマ・ブリーダーズ協会(スペイン語:Asociación Panameña de Criadores)とペルビアン・パソ・オーナーズ(APCPCPP)(スペイン語:Propietarios de Caballos Peruanos de Paso)の共同創設者となりました。
大臣
フェルナンドは上級公務員として、1958年から1960年までエルネスト・デ・ラ・グアルディア大統領(Ernesto de la Guardia)の財務大臣を務め、アメリカ合衆国の民間銀行であるリーマン・ブラザーズと、初めてのソブリン債発行に関する交渉を主導しました。1960年には、彼は米州開発銀行(IDB)(Inter-American Development Bank)創設者の1人であり、パナマの公式使節としてボゴタ法(Bogota Act)に調印しました。
フェルナンドは1964年から1968年まで、マルコ・アウレリオ・ロブレス大統領(Marco Aurelio Robles)下で外交大臣を務めました。そのため、彼は1967年の「トリホス・カーター条約 (英語:Tratados Torrijos-Carter、スペイン語:Tratados Torrijos-Carter)」の草案の交渉を主導しました。この期間中、彼はまた、米州機構憲章(OAS)(Charter of the Organization of American States)の改訂準備委員会の前パナマ代表でした。
パナマのビジネス・セクター
フェルナンドは、パナマのビジネス・セクターの発展にも寄与しました。
フェルナンドは、パナマ経営者協会(APEDE)(英語:Panamanian Association of Business Executive、スペイン語:Asociación Panameña de Ejecutivo de Empresa)の創設者および初代会長、パナマ自然保護協会(ANCON)(英語:National Association for the Conservation of Nature、スペイン語:Asociación Nacional para la Conservación de la Naturaleza)の創設者、シティ・オブ・ナレッジ(英語:City of Knowledge、スペイン語:Ciudad del Saber)の創設者、テレビ教育基金(FETV)(英語:Television Education、スペイン語:Educación en la Televisión)の創設者でした。
彼はまた、天然資源保護財団(NATURA)(英語:Conservation of Natural Resources、スペイン語:Conservación de los Recursos Naturales)の会長、私立教育援助評議会(COSPAE)(英語:Private Council for Educational Assistance 、スペイン語:Consejo Privado para la Asistencia Educacional)の理事会のメンバーでした。
彼はエンジニアおよび建築家協会(SPIA)(英語:Society of Engineers and Architects、スペイン語:Sociedad de Ingenieros y Arquitectos)の、パナマの商業、産業および農業会議所(CCIAP)(英語:Chamber of Commerce, Industries and Agriculture of Panama、スペイン語:Cámara de Comercio Industrias y Agricultura de Panamá)の、スペイン公式商工会議所(英語:Official Spanish Chamber of Commerce(Panama)、スペイン語:Cámara Oficial de Comercio Española(Panamá))の、ANDE財団(英語:ANDE Foundation、スペイン語:Fundación ANDE)のメンバーでもありました。
フェルナンドは2011年8月12日に90歳で亡くなるまで、パナマと他の国々の政府から様々な称号を受け取りました。
品種
420ヘクタールのうち、185ヘクタールでアラビカ種が栽培されています。
品種はブルボン(Bourbon)、カツアイ(Catuaí)、カツーラ(Caturra)、ゲイシャ(Geisha)、マラゴジッペ(Maragogipe)、パカマラ(Pacamara)、ティピカ(Typica)です。特別リクエストで、ピーベリーも取引可能です。
精製方法
精製方法はウォッシュト(Washed)、ナチュラル(Natural)、ハニー(Honey)です。他にも、実験的な精製方法に取り組んでいます。
ナチュラル精製の乾燥工程は、アフリカン・ベッドもしくはパティオ、そして機械乾燥機が用いられます。
有機的な方法で精製されるため、廃棄物は堆肥として再利用されます。
カーサ・デ・エスペランサ
カフェ・ド・エレタ農園は、非政府組織の「カーサ・デ・エスペランサ(Casa de Esperanza)」と提携して、子供に教育の機会、ヘルスケア、栄養補助食品を提供しています。
2016年から、カフェ・ド・エレタ農園はその優れた慣行によって、パナマ労働開発省(Ministry of Labor and Workforce Development)の「YO SI CONDO」プログラムに認定された、パナマで最初のコーヒー農園となりました。
農園観光
カフェ・ド・エレタ農園は、農園観光を実施しており、農園見学、テイスティング、宿泊ができます。
カフェ・ド・エレタ農園のコーヒーは、かつてアタカ通商で取り扱われており、「中米3カ国農園巡り三昧ツアー:その32 パナマ編」、「中米3カ国農園巡り三昧ツアー:その33 パナマ編」で農園訪問の様子を見ることができます。
ベスト・オブ・パナマ(BoP)
カフェ・ド・エレタ農園は、2005年のベスト・オブ・パナマ(BoP)(Best of Panama)で第6位、2006年は第15位と17位、2007年は第18位、2017年はトラディショナル・ウォッシュト部門で87.781点を獲得し第5位に入賞しています。
エレタ財団とナインティ プラス
エレタ財団は、ナインティ プラスに非公開の投資を行っています。
カフェ・ド・エレタ農園 Finca Café de Eleta:https://real-coffee.net/category/coffee-origin/central-america/panama/renacimiento/finca-cafe-de-eleta