ジャマイカ チェスターフィールド
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ジャマイカ チェスターフィールド

チェスターフィールド

チェスターフィールド(Chesterfield)は、ジャマイカ(Jamaica)サリー郡(Surrey County)ポート・ロイヤル教区(Port Royal Parish)(現在のセント・アンドリュー教区(St Andrew Parish))とセント・デイビッド教区(Saint David Parish)(現在のセント・トーマス教区(St Thomas Parish))の境界に位置していた農園です。

ポート・ロイヤル教区には工場や白人職員の住居があり、セント・デイビッド教区にはコーヒー畑や村
がありました。チェスターフィールドは、1794年の生産物勘定(Accounts Produce)で初めて言及されました。この年、農園はアーチボルド・トムソン(Archibald Thompson)の領地が所有してました。また、ダグラス・トムソン(Douglas Thomson)が、コーヒーの一部を販売したことが記録されています。アーチボルド・トムソンが生きている間、彼は一時的に領地を管理していたようで、「代理人(having acted for said)」と記載されています。

アーチボルドの死後、農園の管理は未亡人のジェーン・トムソン夫人(Jane Thompson)に引き継がれ、彼女は1795年の生産物勘定で農園の所有者として記載されていますが、農園に対する法的権利はあいまいです。1797年の目録には、農園は「ジェーン・トムソン夫人の管理・指導の下にある」と記されています。彼女が農園の運営に携わっていたのは明らかですが、ダグラス・トムソンがアーチボルドとジェーンの息子であったとすると、この農園は法的には彼のものであったかもしれず、遺産は何らかの混乱状態にあったのかもしれません。

チェスターフィールドは1798年の生産物勘定に登場しますが、1810年に登場せず、1822年まで再び登場しません。1818年のジャマイカ・アルマナック(Jamaica Almanac)には、ジェームス・ミュアー(James Muir)が、1838年のジャマイカ・アルマナックには、アレクサンダー・ビゼット(Alexander Bizzet)が領地所有者として記載されています。生産物勘定には、他の所有者の記載はありません。他の所有者は、1854年の農園の地図に記載されているのみです。この時、農園はチャールズ(Charles)とジョージ・バークレー(George Barclay)に属していました。

チェスターフィールドの生産物勘定に記載されているコーヒー生産量の記録は断片的です。最初の記録は1794年で、13,242ポンドのコーヒーが生産されたことが示されています。1795年、チェスターフィールドは27,147ポンドを生産しました。1797年には、生産量は13,891ポンドに減少しています。1798年には、21,444ポンドとわずかに生産量が増加しました。1810年に、68,910ポンドの収穫を報告するまで、他の記録はありません。1810年以降、農園の記録には12年の空白があり、1822年に終了しています。この年、チェスターフィールドは35,134ポンドの収穫を記録しています。1823年、生産量は再び減少し、11,237ポンドとなりました。その後2年間は生産量が増加し、1825年には50,571ポンドに達しました。チェスターフィールドは、1820年代も生産性の高い事業を維持しました。1829年には、145,831ポンドの収穫を報告し、これはチェスターフィールドの生産物勘定に記録された最大の収穫です。最後の収穫は1830年で、チェスターフィールドは47,584ポンドのコーヒーを生産しています。この年以降も生産が行われていたかどうかは不明ですが、1854年の地図によると、この農園はまだコーヒー畑に分かれていたようです。1854年まで生産していたのか、この時期に生産に戻ったのかは不明ですが、1838年のジャマイカ・アルマナックに掲載された年季奉公人名簿から、この時点ではまだ55人がこの農園に所属していたことがわかります。

1820年代には、チェスターフィールドの奴隷人口が相対的に大きくなっていました。農園の一部はセント・デイヴィッド教区にあったため、その教区の議事録に記載されています。1801年、この農園では70人の奴隷労働者が働いていました。1818年、ジャマイカ・アルマナックは、148人が農園に所属していると報告しています。1820年の人口は曖昧ですが、おそらく166人で、1821年には173人に増えています。

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