ホンジュラス エル・プエンテ農園
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ホンジュラス エル・プエンテ農園

エル・プエンテ

エル・プエンテ(El Puente)は、ホンジュラス(Honduras)ラ・パス県(La Paz Department)チナクラ市(Chinacla Municipality)に位置する農園です。

農園主はマリザベル・カバジェロ・ガルシア(Marysabel Caballero García)です。

マリザベルは、第4世代のコーヒー生産者です。マリサベル家のコーヒー栽培の始まりは、彼女の曽祖父フェリペ・ガルシア(Felipe Garcia)がホンジュラスでコーヒー栽培を始めた1907年に遡ります。彼はマルカラ(Marcala)でコーヒーを栽培し、精製加工後、エルサルバドルの港まで革の袋に入れたラバで運び、ドイツに輸出していました。彼はコーヒーの代金を布や道具、肥料で受け取り、マルカラの小さな店で販売していました。マルカラは、中米で初めてコーヒーの「原産地呼称保護」を取得した産地です。

フェリペは44歳の若さで亡くなりました。マリサベルの祖父アルサセス・ガルシア(Arsaces Garcia)は、当時わずか9歳でした。彼は14歳で結婚し、一家の農園を継ぎました。マリサベルの母サンドラ・イザベル(Sandra Isabel)は、アルサセスの8番目の子供です。サンドラと夫ファビオ・カバジェロ(Fabio Caballero)は、1975年にアルサセスから農園を購入しました。

マリサベルは、両親が都会での仕事をやめてコーヒー栽培に戻った子供の頃から、両親の手伝いをしていました。1996年に、彼女はモイセス・エレラ(Moises Herrera)と結婚しました。

モイセスはグアテマラから、ホンジュラスのグアテマラ人輸出業者のために会計士の仕事をしにやってきました。そして投資用の土地を購入し、コーヒーを植えました。契約終了後は、農園を売却してグアテマラに戻る予定でした。その間、彼はカッピング・ラボで多くの時間を過ごしていました。

マリサベルとモイセスが出会った日、彼は彼女と結婚すると言いました。マリサベルはイゾテ(農園でフェンスとして、また浸食を防ぐために使われる植物)を植えたいと思っており、モイセスが自分の農園にイゾテを植えていて、それを売ってくれるかもしれないと言われました。

マリサベルはモイセスがグアテマラに帰ろうとしていることを知り、最初はあまり真剣に受け止めませんでした。しかし、その言葉通り、彼はホンジュラスに戻り、2年後に結婚しました。

マリサベルとモイセスは、高品質コーヒーの生産者として名声を獲得し、ホンジュラスのスペシャルティコーヒー産地としての名声向上に貢献してきました。彼らが農園で行うことはすべて文書化され、コーヒーの品質を向上させるために、新しい設備や新しい品種の栽培に多大な時間と資源を投じています。ティム・ウェンデルボー(Tim Wendelboe)のアドバイスを受けて、彼らはマイクロロットの乾燥にシェードのあるアフリカン・ベッドを使い始めました。シェードの種類をいくつか試した後、空は青く、適切な光分散と熱を与えてくれることから、青いプラスチック製に決めました。

彼らはカップ・オブ・エクセレンス(CoE)(Cup of Excellence)で早々に成功を収めましたが、順風満帆というわけではありませんでした。2013年にはコーヒーさび病菌に見舞われ、その影響はその後何年も続きました。2015年にはカップ・オブ・エクセレンス(CoE)で最下位となり、これがマリサベルにとっての転機となりました。立ち直るためには、イノベーションが必要でした。2016年、再びカップ・オブ・エクセレンス(CoE)に参加し、ゲイシャ(Geisha)のウォッシュト(Washed)が91.70点を獲得し第1位を獲得しただけでなく、オークションでホンジュラス・コーヒーに支払われたキロあたりの価格としては史上最高額を獲得しました。

シナクラ

マリサベルとモイセスの精製所は、シナクラ(Xinacla)と呼ばれています。シナクラは、モイセスと一緒に働いている長年の家族ぐるみの友人であり、同僚でもあるラウル(Raul)が経営しています。ラウルは自分の農園を持ち、モイセスとマリサベルの精製所でコーヒーチェリーを加工していますが、モイセスがいなければコーヒーの仕事はしていなかったそうです。

エル・プエンテ El Puente:https://real-coffee.net/category/coffee-origin/central-america/honduras/la-paz-honduras/chinacla/el-puente

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