ミカフェート:COFEE HUNTERS パナマ ハーツマン農園 マラゴジッペ ナチュラル

ミカフェートのCOFEE HUNTERS パナマ ハーツマン農園 マラゴジッペ ナチュラルです。

ミカフェート(Mi Cafeto)は、「コーヒー・ハンター」ホセ(José. )川島 良彰氏によって2008年に設立されたコーヒー会社です。「すべては、コーヒーのために。(ALL FOR COFFEE)」を標語とし、「すべてのコーヒーをおいしくする」ことをミッションに、独自の明確な品質基準が設けられています。ホセ・川島良彰氏による「本当においしいコーヒーの楽しみ方」で、彼のコーヒーに対する考え方が簡単に紹介されています。

パナマ ハーツマン農園 マラゴジッペ ナチュラル

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パナマ

パナマ(Panama)は中米で最も南アメリカ大陸の近くに位置し、北アメリカ大陸と南アメリカ大陸の境であるパナマ地峡を形成しています。西はコスタリカ、東はコロンビアに接し、北はカリブ海、南は太平洋に面しています。

パナマは紀元前1300年以前にはすでに先住民が生活していたと考えられています。パナマ中部や西部のチリキ県から金製品や彩色土器などが出土しているため、パナマにはオルメカ、マヤ、アステカなどの大規模な遺跡文明はありませんでしたが、これらを使用する先住民文化は存在していた考えられています。 1492年のコロンブスの新大陸発見後、パナマもスペインによって植民地化されます。1519年に現在の首都であるパナマシティ(パナマ市)が設立されると、ここがスペイン本国との船の拠点として繁栄しました。

17世紀-18世紀になるとヨーロッパでのコーヒー飲用が本格化したのに伴い、オランダやフランスの植民地でコーヒー栽培が始まり、グアテマラ、コスタリカ、メキシコなど中央アメリカにも18世紀後半にコーヒーが伝わりました。

パナマのコーヒーの栽培の歴史は、19世紀後半にコスタリカ国境に近いパナマ西部チリキ県(Chiriquí Province)に移住したヨーロッパ移民によって始まりました。チリキ(Chiriquí)という言葉は、かつてこの地域に住んでいた先住民族の言葉で「月の谷」を意味します。

パナマのコーヒーの栽培は、チリキ県のボケテ地区(Boquete)、ボルカン地区(Volcán)、レナシミエント地区(Renacimiento)で行われます。

チリキ県のコーヒー生産地区の中で、ボケテ地区がコーヒー栽培の最も古い歴史を持っており、最も有名な地区です。ボケテ地区では、バル火山(Volcán Barú)周辺を中心にコーヒー生産が行われています。

ハートマン農園(Finca Hartmann)のあるレナシミエント地区は、これらの地区で最も人里離れた西部に位置しており、コーヒー生産地としてはあまり知られていない地区です。ハートマン農園を創業したラティボール・ハートマン・シニア(Ratibor Hartmann Sr.)氏の父親であるアロイス・ストラシル・ハートマン(Alois Strasil Hartmann)氏は、この地区で最初にコーヒー栽培を始めた人物の1人です。

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ハートマン農園

ハートマン農園、CoffeeCoursesより

パナマ ハートマン農園(Finca Hartmann)は、チリキ県レナシミエント(Renacimiento)地区サンタ・クララ(Santa Clara)にある農園です。ハートマン農園はハートマン家が運営している家族経営の農園で、パナマ西部ボケテ地区のさらに西に位置するコスタリカの国境地帯の山奥に位置しています。

ハートマン農園は、サンタ・クララ・フィンカ・ハートマン(Santa Clara Finca Hartmann)またはパロ・ベルデ(Palo Verde)とオホ・デ・アグア(Ojo de Agua)の2つの農園で構成されています。標高1,300m-2,000mの高地に位置しており、コスタリカとパナマにまたがるラ・アミスタッド国際公園 (Parque internacional La Amistad)に隣接しています。

*ミカフェートでは、ハートマン(Hartmann)は「ハーツマン」と表記されています。

ハートマン農園の歴史

1912年のアロイス・ハートマン

アロイス・ハートマン

ハートマン農園は、1940年に2代目ハートマン、ラティボール・ハートマン・シニア(Ratibor Hartmann Sr.)氏によって創業されました。彼はドイツ移民の娘であるスサナ・トロエチ(Susana Troetsch)女史と、1891年にモラヴィアで生まれ、パナマに移住したアロイス・ストラシル・ハートマン(Alois Strasil Hartmann)氏の長男です。

アロイス・ハートマン氏は1891年6月20日、オーストリア=ハンガリー帝国のモラビア(現在のチェコ共和国)に生まれました。1907年12月23日にニューヨークにやってきた彼は、1911年からエクアドル、南米を旅し、1912年にパナマにやってきました。

第一次世界大戦中の1918年4月28日、彼はパナマの他のヨーロッパ移民たちとともに、捕虜としてエリス島(Ellis Island)に移送されました。

アロイス氏は、1920年にドイツ移民の娘として生まれたスサナ・トロエチ女史と結婚しました。彼はボルカンの町の最初の住人となり、ランドバーグ(Mr. Landberg)という人物の所有していた2000頭の牛と1000頭のロバの管理を担当しました。

彼はその後4年間、ボケテ地区のホテル・パナモンテ(Panamonte Hotel)で働いた後、再びボルカン地区に戻りコーヒー農園を始めました。彼は自らの農園を 、先住民族であるノベ・ブグレ(Ngäbe-Buglé (Guaymi))族の言葉で「星の鉱山」を意味する「ティジンガル(Tizingal)」と名付けました。

1931年のアロイス・ハートマンと子供たち

アロイス氏はこの農園を売却し、ボルカン地区の北部、ヌエバ・カリフォルニア(Nueva California)のシージャ・デ・パンド(La Silla de Pando)に移り、コーヒー栽培を始めました。彼の最初の妻スサナは11番目の子供を妊娠中に亡くなりました。

彼はこの農園も売却し、シージャ・デ・パンドの西部、サンタ・クララ(Santa Clara)の町に移住し、この地区で最初のコーヒー農家となりました。彼はここで再婚し、4人の子供が生まれました。

ダニエル・ブーン、Wikipediaより

アロイス氏はこの地区とパナマの考古学的知識を持っていたため、1950年にナショナル ジオグラフィック(National Geographic)誌に協力を依頼されました。

ナショナル ジオグラフィック誌は1950年2月号の"Exploring Ancient Panama by Helicopter"において、彼のことをアメリカ合衆国の開拓者であるダニエル・ブーンに喩えて、「パナマのダニエル・ブーン(the Daniel Boone of Panama)」と呼んでいます。

アロイス氏は、1970年5月25日に78才で亡くなりました。

ラティボール・ハートマン・シニア

アロイス氏はこの地区でパナマ政府から500ヘクタールの土地を購入し、そのうち100ヘクタールを息子の1人であるラティボール・ハートマン・シニア氏(Ratibor Hartmann Sr.)に与えました。

ラティボール・シニア氏は父親のコーヒー栽培への情熱を受けて、1940年に現在ハートマン農園として知られている農園を始めました。 彼はこの人里離れた土地の、深い森の木陰の下でコーヒーの栽培をはじめました。彼は他の人々から、ここではコーヒー栽培がうまくいくはずがないという忠告を受けましたが、彼は自分が正しいと信じて、計画を続けました。

ラティボール・シニア氏は1966年にコスタリカ出身のディノーラ・ハートマン(Dinorah Sandi)女史と結婚し、ラティボール・ジュニア(Ratibor Jr)、アラン(Allan)、アレクサンダー(Alexander)、アリス(Aliss)、ケリー(Kelly)の5人の子供に恵まれました。

彼らの5人の子供たちは、幼い頃から農作業に積極的に参加しました。彼らは良い教育を受け、他の仕事に就く選択肢もありましたが、最終的にハートマン農園で働くことを選びました。彼らの生まれ故郷への愛、そして強い絆で結ばれた家族の思い出と共有された経験が、彼らを家族の農園へと呼び戻したのです。

ラティボール・シニア氏は現在引退していますが、妻のディノーラ・ハートマン(Dinorah Sandi de Hartmann)は観光活動の理事会メンバーです。

ラティーボール氏の5人の子供のうち、4人の兄弟姉妹が農園の運営管理と観光事業を手分けして担当しています。

Qグレーダーのライセンスを持つ3代目の農園主、ラティボール・ジュニア(Ratibor Hartmann Jr)氏がコーヒーのクオリティーコントロール、アラン(Allan Hartmann)氏が精製工程、アレクサンダー(Alexander Hartmann)が農園のフィールド、アリス(Aliss Hartmann)女史が農園行政のマネージメントを担当しています。ケリー(Kelly Hartmann)女史は、現在ハートマン農園とは別の仕事をしています。

ハートマン農園とバード・フレンドリー

ハートマン農園のロゴ

ハートマン農園は、自然環境を保全したエコツーリズム農園です。農園は広大な熱帯雨林に囲まれているため、原生的な自然環境を保全した農園として、コーヒー生産以外に観光事業を行なっています。

ハートマン農園のロゴにバード・フレンドリー(Bird Friendly)の記載がありますが、バード・フレンドリーの管理団体、アメリカのスミソニアン鳥類研究所(Smithsonian Migratory Bird Center)のバード・フレンドリー認証を取得しているわけではありません。ハートマン農園はロゴ全体を商標登録しているのみで、スミソニアン鳥類研究所のバード・フレンドリー認証のロゴとは異なります。

ホセ・川島良彰とハーツマン農園

ホセ・川島良彰氏は、2006年11月に初めてハートマン農園を訪れました。川島氏はラティボール氏の依頼で、周辺の生産者に日本のコーヒー市場のセミナーを開き、これが川島氏とラティボール氏の最初の出会いとなりました。

ラティボール氏から『マラゴジッペがあるよ。』と連絡を受けた川島氏は、2015年1月、9年ぶりに再びハートマン農園を訪れました。

品種と精製方法

ハートマン農園では、ティピカ(Typica)、カツーラ(Caturra)、カツアイ(Catuai)、ブルボン(Bourbon)、ゲイシャ(Geisha)、パチェ(Pache)、マラゴジぺ(Maragogype)、パカマラ(Pacamara)の品種が栽培されています。

ハートマン農園のマラゴジぺは、農園の最も低い標高の場所で栽培されています。これはこの品種が生まれたマラゴジぺ市がブラジル北部の赤道近くに位置しており、寒さに弱い品種のためだそうです。

ミカフェートのコーヒーは、川島氏によって収穫時期、完熟豆の選別、乾燥方法などが厳密に指定されてます。ラティボール氏はマラゴジぺをナチュラル精製で仕立てると聞いた川島氏は、彼にこれらを細かく指定し、このロットが出来上がりました。

ブラジル バイーア州マラゴジッペ市で存在を確認されたマラゴジッペ亜種は、樹高も葉や実の大きさもアラビカ種最大級です。エチオピア生まれの原種ティピカ亜種からの突然変異で、生まれ故郷の街の名前が品種名になりました。コスタリカ国境に近いサンタ クララ村郊外のハーツマン農園の農園主ラティボー・ハーツマンは、コーヒーの事をよく知っている熱心な生産者で、彼は自分の畑で作ったマラゴジッペを、José. 川島 良彰の細かな指示のもと、ナチュラル精選で仕立てました。

ミカフェート ホームページより

マラゴジペをナチュラルで精製することで、レーズンや完熟ブドウ、チェリーのようなフレーバー、黒糖のような甘味、ダークチョコレートのようなフルボディのコーヒーに仕上がっています。

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ミカフェートのCOFEE HUNTERS パナマ ハーツマン農園 マラゴジッペ ナチュラル

レーズンや完熟ブドウのようなフレーバー、黒糖のような甘味、ダークチョコレートのような強いコクがあり、とろみのある口当たりと高い酸味が印象的です。レーズンやグレープのような印象が支配的なコーヒーですが、マラゴジッペのナチュラル精製でこのように酸味の強いコーヒーに仕上がるのは、不思議な印象です。

Finca Hartmann<http://luis-miranda-rekr.squarespace.com/#eat-together>

「FINCA HARTMANN」,Panama Varietals<https://www.panamavarietals.com/copy-of-cafe-gallardo>

Angelfire<http://www.angelfire.com/pa2/hartmann/index.html>

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