UCCカフェメルカード インドネシア ブラワン・コーヒー・プランテーション グヌン・ブラウです。
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インドネシア ブラワン・コーヒー・プランテーション グヌン・ブラウ
インドネシア
インドネシア(Indonesia)は複数の島にまたがる東南アジアの島国です。首都はジャワ島に位置するジャカルタ(Jakarta)です。インドネシアは世界第4位のコーヒー生産量を誇る世界有数のコーヒー大国です。
インドネシアは、石油や天然ガスを豊富に有する資源大国です。インドネシアの経済は、石油の世界的な値上がりとともに劇的に成長しました。しかし、80年代初頭の石油価格の下落とともに、燃料補助金が国内経済を圧迫し始め、経済は停滞しました。そこでインドネシア政府は、経済の石油と天然ガスへの依存を緩和し、他の輸出品、主に製造品の価値を高めることを目的とした新しい政策を打ち出しました。政府は、輸入代替から輸出指向の製造へと移行した。同時に、国営産業にはそれほど重点が置かれておらず、産業への民間投資の発展により重点が置かれていました。
農業は、インドネシア経済の伝統的な基幹産業でした。インドネシアはいくつかの重要な換金作物の主要生産国で、それらは国営の大規模農園、または民間の小規模農家で栽培されています。インドネシアは世界第2位のパーム油の輸出国で、他の重要な換金作物に、サトウキビ、シナモン、ナツメグ、タバコ、クローブ、紙、ココア、紅茶、コーヒーが挙げられます。
インドネシアのコーヒーの歴史
インドネシアのコーヒーの歴史は、17世紀にオランダ東インド会社(VOC)(オランダ語:Verenigde Oost-Indische Compagnie)がアラビカ種のコーヒーを持ち込んだことに始まります。イエメンのモカ港のコーヒー貿易の独占を打破する目的があったようです。
最初の苗木は、オランダ東インド会社の総督であるウィレム・ファン・アウトホーン(Willem van Outshoorn)の邸宅に植えられたという話が残っています。1706年に、ジャワ島で栽培された最初のコーヒーのサンプルが、コーヒーノキとともにアムステルダム植物園(Hortus Botanicus Amsterdam)に送られました。
アムステルダム植物園で育てられたこのコーヒーノキは、中南米とカリブ海地域に持ち込まれ、世界中に広がっていきました。
オランダ東インド会社は、ジャワ島のバタビア(Batavia、現在のジャカルタ)周辺、そしてその南に位置するスカブミ(Sukabumi)とボゴール(Bogor)でコーヒーの栽培を開始しました。コーヒーはすぐに収益性の高い換金作物となり、コーヒープランテーションがジャワ島、そしてスマトラ島とセレベス島(Celebes、現在のスラウェシ島)の一部に設立されることとなりました。
19世紀以前、オランダ東インド会社は、バタビア周辺地域と西ジャワのパラヒャンガン(Parahyangan)(または、プレアンガー(Preanger)、プリアンガン(Priangan))の山岳地域の人々にコーヒーの栽培を課していました。オランダ東インド会社はコーヒー栽培に関与しませんでしたが、ブパティ(Bupati)と呼ばれる現地首長が、住民にコーヒーを栽培し、プランテーションを管理し、毎年一定量のコーヒーを供出するように課す必要がありました。コーヒーだけではなく、砂糖や藍の栽培も強要され、後の「強制栽培制度(オランダ語:Cultuurstelsel、英語:Cultivation System)」の原型となりました。
18世紀の後半、コーヒーの栽培は中部ジャワ州にまで拡大されましたが、規模は限定的でした。ジャワ島の残りの場所および他の島へのコーヒーの導入は、オランダ東インド総督のヘルマン・ウィレム・ダンデルス(Herman Willem Daendels)とその後の行政官によって始められました。
広大な森林地帯が開拓され、プランテーションの開発のためにコーヒーが栽培されました。コーヒープランテーションの発展とともに、中部ジャワ州のインフラストラクチャの開発が必要とされるようになりました。栽培したコーヒーを輸出のために港に輸送するのには、道路と鉄道が必要だったためです。
特に第二次世界大戦前の中部ジャワ州は、コーヒー、砂糖、コショウ、お茶、タバコの換金作物を州から港湾都市スマラン(Semarang)に運ぶための、非常に整備された鉄道輸送システムを持っていました。
コーヒー栽培は、東インドネシア、東チモール、フローレス島でも行われていました。これらの場所は当時ポルトガルの支配下にあり、彼らもまたアラビア種のコーヒーを輸入していましたが、オランダとは異なる株のものでした。
コーヒーさび病菌の流行
19世紀後半にインドネシア、スリランカ、マレーシアでコーヒーさび病菌(Hemilea hugeatrix)が流行し、インドネシアのコーヒー産業を壊滅させました。インドネシアの東部の島も被害を受けましたが、株が異なっていたため、ジャワ島ほど被害が深刻ではありませんでした。この時期に一部のプランテーションは茶やゴムに転作し、現在に至るまで生産が引き継がれています。
コーヒーさび病菌へ対応する目的でリベリカ種 (C. liberica.)が導入されましたが、これはそれほど広まりませんでした。
*現在ボルネオのリベリカ種が、スペシャルティコーヒーとして注目を集めています。
オランダ植民地政府は、被害を受けたプランテーションに、より耐性のあるロブスタ種 (C. canephora.)を導入することを選びました。ロブスタ種は、現在でもインドネシアのコーヒー生産の約90%を占めています。
また、ロブスタ種栽培の他に、1900年からアラビカ種の耐さび病品種の開発も始まりました。
第二次世界大戦と独立闘争
第二次世界大戦と独立闘争は、その後のインドネシアのコーヒー市場に大きな変化をもたらしました。プランテーションは、第二次世界大戦の占領中の日本によって一時的に引き継がれた。独立後、インドネシア全土のプランテーションは、新政府の支配下に置かれるか、放棄されました。植民地時代のプランテーション所有者の多くは、逮捕されるのを避けるために国外へと逃亡しました。現在でも、インドネシアのコーヒー生産の約92%が小規模農家か協同組合によって行われています。
*インドネシアのコーヒーの歴史については、旦部幸博氏の百珈苑BLOG 2010年7月23日エントリー、「オランダによるインドネシアのコーヒー栽培」、「インドネシアへの伝播」、「「三原種」の揃い踏み」を参照できます。
インドネシアのコーヒー生産地
インドネシアには、ジャワ島、スマトラ島、スラウェシ島の3つの代表的なコーヒー生産地があります。ジャワ島は「ジャワ・ロブスタ」、スマトラ島は「マンデリン」、「ガヨ・マウンテン」、スラウェシ島が「トラジャ」の生産で有名です。
ジャワ島は戦後にゴムの生産が中心となり、ゴムの保護植物としてロブスタ種が栽培されるようになりました。ジャワ・ロブスタが有名です。ジャワには国営農園がいくつか存在し、アラビカ種のコーヒーも生産されています。
スマトラ島は、マンデリンで有名です。 マンデリンの他にも「アンコーラ(Ankola)」というスマトラ島北部で生産されるアラビカ種のコーヒーがありますが、ほとんど使用されないブランド名です。
スラウェシ島は、トラジャで有名です。日本のキーコーヒーが復活させたコーヒーとして知られています。
インドネシアで最もよく知られているコーヒーのブランドは、マンデリンとトラジャです。
ブラワン・コーヒー・プランテーション
ブラワン・コーヒー・プランテーション(Blawan Coffee Plantation)は、インドネシアのジャワ島東部イジェン高原(Ijen Plateau)に位置する農園です。ジャワ島の国営コーヒー農園の中でも、最も大きな国営農園です。
東ジャワ州(英語:East Java、インドネシア語: Jawa Timur)は起伏の激しい地域で、ブロモ・テンゲル・スメル国立公園(Bromo Tengger Semeru National Park)内にそびえる標高3,676mの活火山であるブロモ山をはじめ、多くの火山があります。
ジャワ島は大きく東部、中央部、西部に分けることができます。ジャワ島のコーヒー生産は、主に東部のイジェン高原(Ijen Plateau)にある国営の大規模農園で行われます。イジャン高原は、海を渡って東のわずかな距離にバリ島があり、鉱物質の豊富な火山性土壌、適度な降雨量、亜熱帯気候の恩恵を受けています。
オランダによる強制栽培制度は1850年頃から陰りを見せ、1870年に廃止されました。個人がインドネシアで土地を賃借できるようになった1870年以降、この状況はヨーロッパの起業家たちをジャワ島に引き寄せました。そして、先住民族がクーリー(苦力)として駆り出されました。
ヨーロッパの実業家たちは、森林伐採や土地の耕作などの重労働のために、安い労働力を雇いました。 これらの植民地時代のエリートは、ティー・ユンカー(Tea Junker)、コーヒー男爵(Coffee Barons)、砂糖卿(Sugar lords)と呼ばれました。そして、イジェン高原の手付かずの森は、コーヒー農園として開拓されました。
イジェン高原の最初のコーヒーは、ブラワン近くのブラウ山(Mount Blau)に植えられました。ブラワンの管理人の家(現在のカティモア・ホームステイ(Catimor Homestay))は、その家のすぐ横にあるコーヒー・ファクトリーと共に、1895年に建設されました。
ブラワン・コーヒー・プランテーションは、オランダ植民地支配下の1894年に設立された公式政府組織であるPTPによって所有および経営されている農園です。現在、東ジャワ州のアラビカ種コーヒーの約85%が、PTPによって所有および経営されている農園で生産されており、残りの15%は小規模生産者によって伝統的な技術で生産されています。
収穫
収穫時期は5月から8月までで、収穫労働者の多くが一時的に農園に住み込みます、
コーヒーチェリーは、完熟味が手摘みで収穫されます。収穫の最盛期には、ルマジャン(Lumajang)やボンドウォソ(Bondowoso)から人が集まります。
品種
品種はティピカ(Typica)です。
ブラワン・コーヒー・プランテーションでは、ティピカとカチモール(Catimor)を生産しています。
ブラワン・コーヒー・プランテーションにあったベスキシュ研究所(Besoekisch Proefstation)は、ブラワン=パスマー(BLP)(Blawan-Pasoemah)を輩出した農園としても知られています。
精製方法
精製方法はウォッシュト(Washed)です。
ジャワ島東部のイジェン高原は、亜熱帯気候の影響を受けているため、スマトラ島では困難なウォッシュト精製が可能です。
ブラワン・コーヒー・プランテーションでは、収穫したコーヒーチェリーは、バク・グロトッグ(Bak Glodong)に持ち込まれます。コーンズ・タンク(Cones Tank)を通してパルパー(Pulper)へと運ばれ、果肉除去されます。果肉除去されたパーチメントはバク・ファメンタシ(Bak Fermentasi)という25kgの袋で保存され、発酵させます。その後、水洗します。
ブラワン・コーヒー・プランテーションでは、ルアク(Luwak)のコーヒーは乾燥棚で乾燥させますが、通常のコーヒーは、コンクリート製のパティオで乾燥させます。天日乾燥後、ビス・ドライヤー(Vis Dryer)という高床式の建物で、加熱した空気を送り込み、水分含有量11%まで乾燥させます。
コーヒーは乾燥後、脱穀され、選別されます。
グヌン・ブラウ
ブラワン・コーヒー・プランテーションのコーヒーは、ジャワ・コーヒー・ブラワン(Java coffee Blawan)とジャワ・コーヒー・グヌン・ブラウ(Java coffee Gunung Blauw)のラベルが付けられます。
「グヌン・ブラウ(Gunung Blauw)」は「青い山」を意味するインドネシア語で、青みがかった独特の土壌に由来しています。グヌン・ブラウは、ブラワン・コーヒー・プランテーションで最初のコーヒーが植えられた区画の名前です。
味
ウォッシュトで精製されるジャワ島のアラビカ種コーヒーは、チョコレートのようなしっかりとしたコク、クリーンな味を特徴としています。
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味
ハーブのようなフレーバーとチョコレートのようなコクが印象的です。マンデリンとは異なる独特の清涼感とコクのある苦味が心地よいコーヒーです。
<参考>
「Blawan coffee plantation」,Ijen Plateau<https://www.ijenplateau.com/ijen-s-facts/blawan-coffee-plantation>