フランツ・ヨーゼフ1世とエリザベートのウィーン式サイフォン(天秤型サイフォン)

フランツ・ヨーゼフ1世とエリザベートのウィーン式サイフォン(天秤型サイフォン)

フランツ・ヨーゼフとエリザベート

1848年12月2日、フランツ・ヨーゼフ(Franz Joseph I, 1830 - 1916)は、18歳3ヶ月の若さでオーストリア帝国の皇帝となった。1848年2月にパリで起きたいわゆる「二月革命」は、「諸国民の春」を生じさせ、ウィーンにも飛び火した。「三月革命」は、宰相メッテルニヒの保守反動的なウィーン体制を打ち倒した。

「この世のあらゆる災が世につきまとう」。皇后エリザベートが暗殺されたという知らせを受け取った彼の口から漏れた言葉の通り、フランツ・ヨーゼフは皇帝になった当初から、暴漢による暗殺未遂、複雑な民族構成や諸国間の力学からくる国内外の絶えざる問題の処理、嫁姑の確執、ハプスブルグ家の類縁が引き起こすトラブル、長男ルードルフの情死、妻となるエリザベートの暗殺など、次から次へと生じる問題に悩まされ、その処理に死ぬまで奔走し続けることになる。

フランツ・ヨーゼフが妻となるエリザベートと出会ったのは、1853年8月18日のことだった。満23歳になる皇帝の誕生日を祝う名目で、ゾフィー大公女は妹ルドヴィカ、その娘ヘレーネ(ネネ)を招待した。次女エリザベート(シシー)は、姉のお供として同行した。ヘレーネは19歳、エリザベートは16歳だった。

ゾフィー大公女は、ヘレーネを息子の嫁にと考えていたはずだが、フランツ・ヨーゼフが熱視線を注いだのは美貌のエリザベートだった。

この翌日の8月19日に婚約が決まった。結婚式は翌年1854年4月24日、帝都ウィーンをあげてのお祭りとなった。こうしてエリザベートは、オーストラリア帝国の皇后となった。

ヨーロッパにおけるテーブルマナー

シェーンブルン宮殿は、スペイン式の儀式と礼儀作法で固められていた。「礼儀」という概念は、1520年代後半から40年代にかけて、カトリック教会の統一と騎士社会が崩壊した時期にヨーロッパ社会にとって意味を持つようになった、ヨーロッパのある時代に特有の「文化」であった。「礼儀」という概念は、1530年の発表されたエラスムスの『少年儀礼作法論』によって非常に普及した。彼はこの著作で古くからある"civilitas"という言葉に新たな意味を与え、外面的な振る舞いが内面的な振る舞いを表現するものとした。「礼儀」は上品な振る舞いと下品な振る舞いを分ける。文明化された人間は、作法を知らない人間を野蛮であるとみなすのである。

マナーズ(Mannersは一般的にはマナーと呼ばれるものだが、Manner(手段、方法)と混同してはいけない)は、語源がラテン語の「手(manus)」であり、始まりは手作法であった。

ヨーロッパで最初のテーブルマナーが見られるのは、16世紀のルネサンスである。16世紀は、芸術、科学、地理の飛躍的な進歩により、ヨーロッパ人の世界に対する理解が変わった時代であった。 1500年代初頭、探検家が新世界を冒険し、1512年に完成したミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画など、ルネサンスの最も偉大な傑作のいくつかが作成された。世紀が終わりには、シェークスピアの演劇が人間の精神を開拓し、パドヴァにいたガリレオ・ガリレイは太陽系の秘密を明らかにし始めた。現在使用されているフォーク、ナイフ、ナプキンは、この頃に発明された。

『少年儀礼作法論』には、テーブルマナーについても書かれている。この時代、皿が使われることは稀であり、乾いたパンが皿代わりに使用されていた。ナイフとスプーンは共同で使用されていた。中世の終わりになると、共同の鉢から食べ物をとってくる道具としてフォークが現れる。固形の食べ物を運ぶ道具に過ぎなかったフォークが、食事道具として使用されるようになるのはしばらく後のことである。

M・F・K・フィッシャー(M. F. K. Fisher)『食の美学』(原題:The Art of Eating)によると、ヨーロッパ貴族のテーブルマナーがより洗練されたものになり始めた年は、1533年である。フィレンツェの貴族の令嬢であったカトリーヌ・ド・メディシスは、のちにフランス王アンリ2世となるオルレアン公に嫁ぐため、多くの従者を伴ってフランスに輿入した。その従者の中には、優れた料理人やパティシエも含まれ、彼らの当時最先端の料理技術が、それまでの無骨なフランス料理を一新して洗練された高級料理へと導いたという逸話が残っている。

運命と教皇クレメンス7世がヨーロッパのテーブルマナーを変えたのはこの年のことだった。クレメンス7世は、その政治的な結果よりも、美食の重要性を意識して、姪のカトリーヌ・ド・メディチをフランスの若きアンリと結婚させたのである。
そしてカトリーヌは料理人たちを連れてフランスに渡った。彼らはおそらくフランスで最初の偉大な料理人たちであり、愛国心と高級料理への愛情を混同するフランス人にとっては腹立たしい事実かもしれないが、彼らはみなイタリア人だった。
孤独なフィレンツェ人にとって、パリは過酷で野暮ったく感じられた。彼らは自国の宴会場の陽気で軽快な雰囲気を求めて塞ぎ込んでいた。そこでは、紳士淑女は食事ができる年齢になるとすぐに「食卓の50の礼儀」を教わった。ここパリでは、まだ多くの人々が「フォークと呼ばれるイタリアの小奇麗なもの」を嘲笑し、強く味付けされた肉の大きな塊をナイフの先や脂ぎった指から飲み込んでいた。
カトリーヌのコックたちは震え上がり、小さな声で相談し合った。彼らが行動を起こすのにそう時間はかからなかった。彼らの革新は、まるでパリの高貴な食卓に爆弾のように炸裂した。シャーベットが登場したのだ!あらゆる形と色、夏の花のように澄んだ繊細な風味のシャーベットが、王妃の狡猾なシェフたちによって、驚いたフランス人たちの前に並べられた。
荒れた舌は滑らかになり、熱くなった喉は冷やされた。長い間、暗黒の数世紀の無差別な調味料によって麻痺していた味覚は、徐々に鋭敏になっていった。
シェフたちはほくそ笑んだ。このフランス人たちも、やがてイタリアのソースやタルトやスープを味わえるようになるだろう。そのうちね!
次の世紀の初めには、フランス人の味覚はより洗練されたものとなり、料理のトリックに関する知識は、どんな世界人でも必要な教養の一部となっていた。

It was that year that Fate and Pope Clement VII changed the table manners of Europe. The Holy Father, probably conscious less of the gastronomic importance of his act than of its political results, married off his niece Catherine de Medici to France's young Henry.
And Catherine took her cooks to France with her. They were probably the first great chefs de cuisine in that land, and galling though the fact may be to those Frenchmen who mix patriotism with their love of fine food, they were Italians every one.
Paris seemed harsh and boorish to the lonesome Florentines. They moped for the gay lightness of their own banquet-halls. There ladies and gentlemen were taught The Fifty Courtesies of the Table as soon as they were old enough to eat at all. Here in Paris many people still laughed jeeringly at "those Italian neatnesses called forks," and gulped down great chunks of strongly seasoned meats from their knife-ends or their greasy fingers.
Catherine's cooks shuddered, and conferred together in low voices. It was not long before they acted. Their innovation burst like a bomb over all the noble tables of Paris. Sherbets appeared! In every shape and colour, with flavours as clear and subtle as summer flowers, sherbets were set before the startled Frenchmen by the Queen's wily chefs.
Roughened tongues were made smooth, and hot throats cooled; palates, long calloused by the indiscriminate spicings of the dark centuries, slowly grew keen and sensitive.
The chefs chuckled. These Frenchmen might be able, in good time, to appreciate their Italian sauces and their tarts and soups. In good time!
By the beginning of the next century the French palate had in- deed grown much more sophisticated, and some knowledge of culi- nary tricks was a necessary part of any worldling's education.

M. F. K. Fisher"The Art of Eating" Catherine's Lonesome Cooks

食べることは身体的な必要だが、食事は社会的な儀式である。テーブルマナーは、食事の意味を定義する。美食趣味は、洗練されたテーブルマナーを生んだ。食事道具の細分化に伴うマナーの細分化、18世紀から19世紀の異国の食べ物とスパイスの発見で、美食趣味は新たな次元に達した。

シェーンブルン宮殿の晩餐会

エルンスト・マリシュカ(Ernst Marischka)の1955年の映画『プリンセス・シシー』は、フランツ・ヨーゼフとエリザベートの出会いから結婚までを描いた映画である。『若き皇后シシー』(1956)、『ある皇后の運命の歳月』(1957)と続く、ロミー・シュナイダーがエリザベートを演じた三部作の第一作で、ロミー・シュナイダーの出世作だが、彼女はこの映画でついたイメージに悩まされ続けることになる。

この歴史娯楽映画では、シェーンブルン宮殿での様子が面白おかしく描かれるが、フランツ・ヨーゼフとエリザベートの結婚の晩餐会の様子が、映画のラスト近くの1分程度の時間で再現されている。

シェーンブルン宮殿は、皇帝の夏の宮殿であり王室の社会生活の中心地であった、ハプスブルグ家の栄華を象徴する宮殿だった。フランツ・ヨーゼフが晩餐会を催していた1850年代は、テーブルマナーが頂点に達していた時代だった。

テーブル・セッティングは、より入念になった。各コースで、すべての異なる皿が、正確に規定された場所に同時に置かれた。王、女王、公爵、公爵夫人、男爵、男爵夫人は、皿を動かさずに手元にあるものなら何でも自由に取ってよかった。手の届かないプレートは、必要に応じて仲間の貴族に渡した。

デザートとコーヒー

砂糖は贅沢の象徴、そして権力と富の証しであり続けた。ヨーロッパの宮廷では、パン焼き職人が砂糖細工を手掛け、「サトルティーズ」と呼ばれる精巧な砂糖菓子は、テーブルを賑わせた。1549年に神聖ローマ帝国皇帝カール五世の息子で後継のフェリペのために、ネーデルランド総督「ハンガリーのマリア」(カール五世の妹、元ハンガリー王妃)が催した宴会、1566年にマリア・デ・アヴィスとパルマ公アレッサンドロ・フェルネーゼの結婚を祝う宴会など、16世紀のヨーロッパの宮殿では、砂糖細工の様々な宴会が催された。

フランス国王でポーランドの王でもあったアンリ3世が、1574年にヴェネチアを訪れた際、王に敬意を表して催された宴会の主役は砂糖であった。ナプキン、テーブルクロス、皿、そしてナイフやフォークなどのカラトリー、テーブルの上にあるあらゆるものが砂糖で作られ、彫刻師ヤーコポ・サンソヴィーノのデザインによる1250の像が作られた。

「デザート(dessert)」という言葉は、もともとフランス語の"desservir"に由来し、これは「テーブルを片付ける(供したもの(servir)を取り除く(des-))」という意味である。デザートという言葉が、現在のような意味で使われるようになったのは、18世紀のことである。

砂糖が貧しい家庭を除く、ヨーロッパの一般家庭に普及するようになったのは、17世紀初めである。16世紀にポルトガルがブラジルに砂糖の生産を導入し、16世紀後半には砂糖はブラジルで最も重要な輸出品となった。主に奴隷労働によるブラジルの台頭によって、地中海沿岸や大西洋の島々の製糖業は衰退し、ブラジルが世界の砂糖生産の中心地に躍り出た。ヨーロッパは製糖から精製へと移行し、砂糖はヨーロッパに普及した。

17世紀に、砂糖の軽食は「ヴォイド(Void)」となり、デザートへと進化していった。「ヴォイド」とは、宴会のコースの間または食後に設けられた短い時間に、召使いたちはテーブルをきれいに片付ける、つまり「空っぽ」にすることである。「ヴォイド」を満たすのが、主に砂糖を使った軽食や甘口ワインであった。

精巧なデザートは19世紀に流行した。豪華な宴会の過剰は、宮廷のゲストを圧倒するためのものだった。

この時代のすべての天才は、デザートの新しい計画のデザインに採用された。

All the geniuses of the age were employed in designing new plans for deserts.

Horace Walpole"Letters of Horace Walpole, Earl of Orford, to Sir Horace Mann, British Envoy at the Court of Tuscany" 第2巻 p.115

砂糖が普及するようになると、様々なレシピが考案されるようになった。レシピは貴族階級の贅沢を中産階級に普及するためのものだった。18世紀から19世紀にかけて、砂糖の価格が下落すると、デザートは以前よりも手に入りやすい庶民のものとなった。

やがて上流階級の間で、デザートは次第に飽きられるようになり、砂糖を使った飲料が発明された。砂糖の消費が実際に増えたのは、飲み物の中に砂糖を入れることを発明してからだった。砂糖は、茶、コーヒー、チョコレートを素晴らしい飲み物に変化させる魔法の杖だった。ヨーロッパ、特にイギリスで砂糖が欠かせなかったのは、この3つのアルコールを含まない飲み物、特に茶のためだった。

ウィーンにおけるコーヒー文化

コーヒーには苦味がある。そのため、コーヒーと砂糖は切り離せないものである。1630年代にカイロを訪れたドイツの植物学者ヨハン・フェスリンクは、「苦味を消す」ために砂糖を加えるエジプト人がいたと伝えている。

フェスリンクはカイロを訪れた際、2、3千軒のコーヒーハウスを見つけ、「苦味を和らげるためにコーヒーに砂糖を入れる者もいれば、実を砂糖漬けにする者もいた」と付け加えている。

Vesling adds that when he visited Cairo, he found there two or three thousand coffee houses, and that “some did begin to put sugar in their coffee to correct the bitterness of it, and others made sugar-plums of the berries.”

Chapter 4 Introduction of Coffee into Western Europe - All About Coffee

ヨーロッパで初めてコーヒーハウスが開かれた頃、コーヒーはブラックで出され、好みに応じて砂糖が加えられた。17世紀中頃にイギリスのロンドンに最初のコーヒーハウスが出現し、17世紀後半にウィーンにカフェが出現するが、宮廷で愛飲されていたのはもっぱらココアだった。

オスマン帝国は、1453年にビザンツ帝国の都、コンスタンティノープルを攻略した。大航海時代が始まる以前、ヨーロッパは陸路が唯一アジアとの交易路だった。かつてイスラムが台頭した時代のように、東西の交易は分断され、ヨーロッパの王族や上流階級はアジアから輸入される砂糖や香辛料、その他贅沢品を輸入することが困難になった。ヨーロッパは、オスマン帝国を避けるルートを探ることになり、その後大航海時代が始まった。

オスマン帝国は、16世紀には東ヨーロッパに進出、幾多の激戦を経てハンガリーの南部と東部を制服する。この時、北部と西部を支配していたのがオーストリアを本拠とするハプスブルグ家で、これ以降、オスマン帝国のイスラム勢力とハプスブルグ家のキリスト教勢力は、ハンガリーを分割統治しながら150年近くにわたって互いに激しく争うことになる。

ヨーロッパにとって、コーヒーは異国から入ってきたエキゾチックな嗜好品の1つで、ハプスブルグ家とオスマン帝国の対立はコーヒーを広めるのに重要な役割を果たした。オスマン帝国の皇帝メフメト4世の側近ソリマン・アガは、パリ滞在中にオスマン宮廷スタイルのコーヒーで人々をもてなし、オスマン軍によるウィーン侵攻の際に、潰走したトルコ兵の置土産であったコーヒー豆を見つけたコルシツキーは、恩賞として与えられた家でウィーン初のカフェ「青い瓶の下の家」を開いたと伝えられている。

1747年に、マリア・テレジアはそれまで互いに対立していたウィーンのカフェ店主とアルコール店主の組合を和解させ、それ以来、カフェでもアルコールの取り扱いが許可されるようになった、そこから、ウィーン貴族の間で、ミルク、生クリーム、香辛料、アルコールが入った独自のアレンジコーヒーが流行するようになった。

ウィーン式サイフォン(天秤型サイフォン)

"rcm video",Royal Paris 2018年7月21日.

19世紀末、ウィーンは「世紀末ウィーン」の文化の爛熟を迎えた。金銀細工職人は、豪華な宴会で使用される壮大な金銀製品を作成した。フランツ・ヨーゼフとエリザベートは、パリの金銀細工職人にウィーン式サイフォン(天秤型サイフォン)を製造するよう依頼した。

もともとフランスでは、ダブル・ガラス風船型サイフォンが主流だったが、流行に敏感な貴族の間ではすぐに飽きられ、視覚的に美しい天秤式サイフォンへと関心が映った。これはヨーロッパ中で流行し、金属、陶磁器、ガラスの製造業者に大きな機会を提供した。

しかし、1840年代初頭のコーヒー製造への大きな関心は、それなりの結果をもたらした。ファッショナブルなヨーロッパは新しいものへと移行し、銀細工職人や金細工職人は、宮廷に新しい美味しさを提供するための刺激的で精巧な仕掛けを提供しようと競い合っていた。フランツ・ヨーゼフとエリザベートは、パリの金細工職人に依頼し、大量のバランス式サイフォンを作らせたのだ。

銀細工職人や金細工職人は、厳粛な儀式やレセプションのためにデザインされたオブジェを作ることで有名だった。彼らは豪華な宴会で使われる壮麗な銀食器を作ることで知られていた。彼らは単調さや繰り返しを避けた。特に、高浮き彫りや低浮き彫りの装飾が広く用いられた。これらの芸術品は、その高揚感、華麗さ、壮麗さで、尊敬すべきゲストに感銘を与えた。ルネサンス様式、バロック様式、ロココ様式が混在した。オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンは、19世紀には世界有数の宝飾の中心地となり、いわゆる「第二ロココ」様式のウィーンの銀器はヨーロッパ中で見られるようになった。

バランス式サイフォンの優れた長所は、ほとんど説明するまでもなかった。極めて安全で、完全に自動化されており、医師、数学者、薬剤師、コーヒー店主、ガラス職人、銀細工職人、金細工職人が、バランス式サイフォンの改良を試みる絶好の機会を提供した。

その外見は物語の半分に過ぎなかった。この卓上用コーヒー抽出器具は驚くべきもので、見る者を驚嘆させた。自然の力、火、蒸気、圧力、そして重力を利用して、これまでに味わったことのない最高のコーヒーを抽出したのだ。

それはゲストたちを魔法にかけた。「『おぉ』や『あぁ』が聞こえ、注ぎ口が付いている煌びやかなキャニスターが回転し、沸騰したお湯がピペットを通って上質のクリスタルグラスに流れ込み、ブンゼンバーナーが自動的に閉じ、キャニスターが冷やされ、真空状態になり、グラスからコーヒーが吸い戻され、ケトルが正しい提供位置に再び下がる。すべて自動で、数分のうちに。

これが大成功を収めた理由かもしれない。宮廷にいた人たちは驚嘆した。こんなものは見たことがないと!

But, the enormous interest in coffee making in the early 1840s had its own consequences. Fashionable Europe moved to something new, silver- and goldsmiths were competing to supply the courts with exciting and elaborate contraptions to present the new delicacy – and Franz Jozef and Elisabeth had a surprise for their royal company. They had commissioned a Parisian goldsmith to supply them with a great number of balancing syphons.

Silver- and goldsmiths were famous for creating objects designed for solemn ceremonies or receptions. They were renowned for creating magnificent silverware to be used at sumptuous banquets. They avoided any monotony or repetitiveness in their creations. High and low reliefs were particularly widely used in decorating. These pieces of art impressed the esteemed guests with their exuberance, splendor, and magnificence. Renaissance, Baroque and rococo styles all got mixed up. Vienna, the capital of the Austro-Hungarian Empire became one of the greatest jewelry centers of the world in the 19th century, and the Viennese silverware in the so-called “second rococo” style was to be found all around Europe.

The superior merits of the balancing syphon hardly needed stating. It was extremely safe, it was completely automatic and it had offered a great opportunity to doctors, mathematicians, pharmacists, coffee proprietors as well as glassmakers, silver and goldsmiths to try their improvements to the balancing syphon which showed that it was possible to make a perfectly simple design very complicated.

Its appearance was only half the story. This tabletop coffee brewer was remarkable and a marvel to watch. It used the forces of nature, fire, steam, pressure, and gravity to brew the best coffee they had ever tasted.

It held guests spellbound. “O-h’s” and “A-h’s” were heard as the gleaming, spigot canister pivoted up, as boiling water flowed through the pipet into the fine crystal glass, while the Bunsen burner closed automatically, which cooled off the canister, creating a vacuum, syphoning back the coffee from the glass and lowering the kettle again in the correct serving position. All automatic, all in a matter of minutes.

This may explain why it became such a great success. The courts marveled. They had never seen anything quite like this!

Maria Tindemans"The Balancing Syphon Coffee Brewer", I Need Coffee

ランスのロイヤル・パリ(Royal Paris)は、このウィーン式サイフォン(天秤型サイフォン)の製造を現代に受け継ぎ、24金やバカラのクリスタルガラスなどを使用した高価なサイフォンを製造している。

<参考>

江村 洋(1994)『フランツ・ヨーゼフ:ハプスブルク「最後」の皇帝』東京書籍.

スティーヴン・ベラー(2001)『フランツ・ヨーゼフとハプスブルク帝国』人間科学叢書32,坂井栄八郎・川瀬美保訳,刀水書房.

ノルベルト・エリアス(1977)『文明化の過程(上):ヨーロッパ上流階級の風俗の変遷』叢書・ウニベルシタス,法政大学出版局.

ノルベルト・エリアス(1978)『文明化の過程(下):ヨーロッパ上流階級の風俗の変遷』叢書・ウニベルシタス,法政大学出版局.

旦部 幸博(2016)『コーヒーの科学』講談社BLUE BACKS.

旦部 幸博(2017)『珈琲の世界史』講談社現代新書.

長尾 健二(2017)『歴史をつくった洋菓子たち』,築地書館.

エリザベス・アボット(2011)『砂糖の歴史』樋口幸子訳,河出書房新社.

アンドルー・F・スミス(2016)『砂糖の歴史』,手嶋由美子訳,「食」の図書館,原書房.

旦部 幸博(2004)「サイフォン」,百珈苑blog<https://black.ap.teacup.com/coffeepage/3.html

牧野 容子 文,池田 まゆみ 監修(2018)「カフェ文化の礎を築いた、女帝マリア・テレジア時代。シェーンブルン宮殿」,コーヒーと世界遺産 Vol.11, 全日本コーヒー協会<http://coffee.ajca.or.jp/webmagazine/wonderland/91sekai>

小宮 正安(2014)「~ヨーロッパ歴史芸術散歩~ 第 3 弾 ウィーンのカフェ文化 ~コーヒーとケーキが織りなす帝都の輝き~ 」,鷺宮区民活動センター運営委員会 平成 26 年度 地域事業<http://nakano-saginomiya.gr.jp/wien4.pdf>

Maria Tindemans(2008)"The Balancing Syphon Coffee Brewer",I Need Coffee<https://ineedcoffee.com/the-balancing-syphon-coffee-brewer/>

Jonathan Jones(2011)"The history of table manners",The Guardian<https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2011/nov/09/history-table-manners-etiquette-beeton>

Francesca Prince(2017)"How Table Manners as We Know Them Were a Renaissance Invention",National Geographic<https://www.nationalgeographic.com/history/history-magazine/article/table-manners-renaissance-catherine-de-medici>

"Balancing Syphon For Coffeemaking" - Cofei.com<http://www.cofei.com/history/balancing-syphon-for-coffeemaking.html

Nick Brown(2019)"Finally, a Coffee Maker for People Who Literally Puke Gold",Daily Coffee News<https://dailycoffeenews.com/2019/07/22/finally-a-coffee-maker-for-people-who-literally-puke-gold/>

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